# 63

 無言で振り返った男に、僕はゆっくりと首を振った。そして、もう一度座るように、顎で席を示す。
 だが、それでも立ち尽くしたままの男を無視し、僕はペンを走らせた。その仕草に、漸く男は僕の側に寄ってきた。しかし、見下ろすばかりで、座る気はないようだ。
【僕にもわかるように話して欲しい】
「…何をだ」
【わかったとは、あなたは何をわかったというんです?】
「…お前が俺を、何とも思っていないことを、充分思い知らされた」
 確かに、質問には答えられなかった。だが、何とも思っていないわけではない。
 ペンを持つ手が、怒りのためか、悔しさか、何故か微かに震える。
「勘違い男だったというわけだろう、俺は。面白かったか?」
【勘違いとは、何?】
「……まだ、俺で遊びたいのか、お前は」
 低い男の声に、もうどうでもいいと席を立ちたくなる。何をそんなに怒っているのか、僕にはわからない。男は遠回しに言うばかりだ。
 僕に理解をさせたくないのであれば、ただそう言えばいい。僕の全てが腹立たしいと言うのであれば、この向けられる怒りも受け取る。人に嫌われるのは、避けられることではない。仕方がないと思える。
 だが、今はそんなものではない。男は、僕のわからない事を言う。何もなく勝手に嫌われるのを容認するほど、僕は他人のストレスの捌け口になるつもりはないし、男との関係もそんなものではなかったと思いたい。
 そう。少なくとも、僕はこの男を嫌いではないのだから。こんな風に、一人で勝手に怒っているような者でも、悪い人間ではないと思っている。僕にはわからない理由がそこにあるのだろう。
 だが、何故男はそれを言わないのか。
【何を言っているのか、本当にわからない。だから、聞いている】
 見上げると、男は僕を細めた目で見下ろしていた。そして、その目を瞑り溜息を落とすと、そのまま口を開いて言った。
「…お前も、同じ気持ちなんだと思った。だから、寝たんだと…、俺はそう信じていた」
 馬鹿すぎるよな。笑えばいいさ、と男は口元を歪めて笑いを浮かべた。
 だが、僕は笑えない。
 何故、男の言葉はこうも難しいのだろうか。もっと詳しくはっきりと言って欲しい。言葉遊びをしているのではないのだから、僕にもわかるように言って欲しい。それとも、わざと的を外しているとでも言うのか。
【それはどういう意味なんですか?】
 そう記して男を見ると、まだ目を瞑っていた。ペンを持ったまま、僕は側にある男の膝をノックする。男はそれに応えて瞼を上げ僕を見た。僕は今度は紙を軽く叩き、漸くその言葉を伝える。
「お前は……何処まで冗談なのか、からかっているのか…わからないな」
 意味がわからないが、言葉そのままに取ると、とても失礼な発言だ。僕はいつでも、誠意を持っているかどうかは確かに怪しいが、本気で接しているつもりだ。嘘もあまりついてはいないし、からかってもいない。
【マジメに聞いているんです。あなたの言っている事は全然わからない。言葉としては日本語だと言う程度に理解は出来ます。だが、その真意まではわからない。一体何を言いたいのか、言っているのか。とても難しい】
 僕が長々と書き記す文字を追い終わると、男はすとんと膝を折り、僕の横で屈み込んだ。
「…本気でわかっていないと言うのか?」
 僕の顔を除きこみそう問う男を前に、僕は少し眉を寄せる。何だかとても馬鹿にされている気分だ。男の言葉足らずが原因なのに、僕の理解力を責められているようだ。
 ここまで根気よく聞いたのだ、もうこれでいいだろう。そう、充分だと僕は判断し、言いたくないのならもういいと、僕は男に伝えようとペンを握った。
 だが、男が発した言葉により、それは実行されなかった。

「俺はお前に惚れているんだが、保志。本当に気付いていないかったというのか? 冗談だろう。お前が好きだから追いかけていたんだが…。一体そんな俺を何だと思っていたんだ、お前は」
 真剣な表情ではなく、呆れた顔で筑波直純はそう言った。
 そして。
 男は僕を暫く見つめた後、軽く眉を寄せた。
「…何をそんなに驚いているんだ」
 お前らしくない顔だな。面白いけど、似合わない。
 そう言われ、口を開けてしまっていたことに気付く。男の失礼な評価に口を結ぶが、しかし直ぐにまた勝手に開く。あまりの驚きで、そんなことになど構っていられないのだろう。
 心底驚く僕に、男はコツンと頭を合わせてきた。僕はその勢いに抵抗出来ず、軽く後ろへと仰け反った。そんな僕を男が笑う。
「おい、いい加減、何か反応を返せ」
 本当に気付いていなかったのかと男は笑い、僕に催促をしてきた。だが、そんな事を言われても。一体、何を言えばいいのだろうか。考えもないのに。
 男が嘘をつくメリットなどあるはずもなく、けれども信じるにはその告白は僕の頭で直ぐに処理出来るものではなくて…。
 僕はただ、男を見た。
 男はそんな僕に肩を竦め、胡座をかいて座る。
「ま、そう言うわけだ。だが、知ったからといって、もうどうにもなりはしないんだろう。それとも、報われない恋をする俺に、お前は同情して自分を犠牲にするのか?」
 少しからかうように、けれども深い思いが篭っているような声で男は言った。
【僕はただ、】
 そこでペンを止め、僕は頭を回る沢山の言葉の中から、今伝えるべきものを探す。何を、何を言うべきなのか。それは、何処にある…?
「気付いていなかったのなら、知らない方がお前にとっては良かったんだろうな、俺の気持ちなんて。迷わすだけか。結局、結果は決まっていたことなんだから。
 お前が気にする事はない。俺が、馬鹿だというだけだ。本当に馬鹿だな」
 こういうのは、苦手なんだよ。この歳になっていうのもなんだがな。
 そう言い小さく笑う男に、僕は頭を振る。
【僕が声を出せないから、あなたは気にかけているんだと思っていた】
「それは違うと言ったはずだが」
 忘れたかと眉を上げる男に首を振りながらも、それを理解していなかったのなら同じ事なのかもしれないとも思う。
【でも、だからといって、普通それを恋愛感情だとは思わない】
 そう。別に深い関係があったわけではなく、何よりも男同士で、どうやったらこんな展開を予想するというのか。僕が特別に鈍かったわけではない、知っていると思う男がおかしいのだ。
「俺としては、あからさますぎるぐらい追いかけているつもりだったからな、お前にはバレているんだとばかり思っていた。だから、口にしなかったんだが…。ホント、お笑い種だ」
【わかるわけがない、そんなこと】
 その言葉に「普通はわかる。お前が特別なんだ」と男は肩を竦めた。
 僕ではなく、あなた自身が特殊なのだと、僕は心で悪態を吐く。だが、互いにそう思っているのなら、議論しても無駄というものだ。言っても意味がない事だと、僕は溜息で男の言葉を流す。
 それよりも。
【本当に、僕の事が、】
 好きなのかと記す代わりに、男の顔色を窺う。
「ああ、そうだ。そうでなければ、男と寝れるわけがない」
 俺はゲイじゃないと、男は真面目な顔で言った。しかし、そんな事はどうでもいいし、関係ない。それが本当かどうかを知る術は僕にはないのだから。
「お前が好きだから、抱いた。だが、お前はそうじゃなかった。俺に応えてくれたわけじゃなかったんだな」
 少し寂しそうに細められた目は切なげで、僕は無意識で男の頭に手を伸ばしていた。整髪料で整えられた少し硬い髪を握り締め、引き寄せる。
 唇の端に落としたキスに、男は眉を寄せた。
「…どういうつもりだ」
 それには応えず、僕は笑いながら再びペンをとった。
【気付いたことがある】
「…なんだ」
【あなたは、見た目と違いどこかぬけている】
「…お前に言われたくない言葉だな」
 喧嘩を売っているのかと顔を顰める男に、僕は肩を揺らす。
【僕は超能力者でも何でもない。言われないと気付かないのが当たり前です】
「だから。お前が特別鈍感なんだろう」
 その言葉には一理ある面もなくはないが、惚けた男に言われるのも釈然としない。
 だが。
【そう、鈍感みたいだ、僕は。やっと気付いた。あなたが好きなようです】
 男に負けないくらい、僕も馬鹿なのかもしれない。
 自身を嘲笑う僕に、けれども男は驚きで目を見開き、次には顔を顰める。
「嘘だろう。まだ俺をからかうのか」
 その言葉を無視し、僕は机の上で転がっている指輪を取った。そして、左手の薬指にはめる。
「…保志」
【右では、サックスを傷つけるかもしれない】
 利き手よりもこの方がその心配は少ないと、僕は男に手を翳して見せた。
 男は僕のその手を取り、掌からその指輪にくちづけを落とした。
「好きだ」
 体を引き寄せられ、耳元に囁かれた言葉に、僕は目を閉じる。
 唇に落ちた温もりに、軽く喉を鳴らし、男のくちづけに応えた。

 だが、しかし――


 この時、僕はまたひとつ過ちを犯してしまったのだと、直ぐに思い知る事になる。

2003/05/15
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