時間が出来たら店に行く。
　そんな約束ともいえない言葉と笑顔を残し、男はあの日、慌しく店を出て行った。
　忙しい男の様子に軽く笑えたのは一瞬で、立ち去った事に安堵の溜息を吐いた僕は、そこで漸く矛盾に気付く。
　心に落ちるのは、好きな者が去った寂しさとは逆のもの。
　それが意味する事は、そう多くはない。

　僕は本当に、あの男、筑波直純が好きなのだろうか。
　その問いに、そうだと強く頷けない事に気付き、僕は僕に溜息を落とす。
　確かに、嫌いではない。好きだという言葉も、嘘ではない。
　だが、あの男が僕に向ける想いと、僕の想いは、同じものではないと思う。男が僕を好きだと言ったその思いがどれほどのものなのかはわからないが、少なくとも、僕の想いはそれとはまた少し別な、形の違うものだと思う。
　僕は、恋愛対象として筑波直純が好きなのだろうか。
　男が僕に向けた言葉を、ひとつひとつ思い出しながら、自らに問い掛ける。
　あの、男の真っ直ぐな強い感情に流されたのではないか。頷く方が楽だと考えなかったか。一度も、佐久間さんや天川の事を考慮に入れなかったと言えるか。
　そんな事は関係ない――。嘘でもそう言えるのならば、僕は自分を偽る事が出来るのかもしれない。だが、そんな事が出来ないほど、僕はもう充分自覚している、気付いている。
　そう、僕はどこかで、色々と計算をしていたのだ、と。だからこそ、あんな風に応えたのだと、僕は僕の行動を知っている。
　男の言葉に、酔ったのだ。自惚れたのだ。何故だと悩む全ての疑問が、好きだという言葉ひとつで片付けられる。それに魅力を感じたのは、紛れもない事実。

　僕は、純粋に筑波直純が好きなわけではないのだ。
　一度浮かんだその事実は、どんな事をしても、もう心からは消せなかった。
　それがどうした、それでもいいじゃないかと思い込もうにも、向けられる男の想いはあまりにも真っ直ぐで、騙す事など出来そうにはない。
　けれど。
　あの想いは、罪悪感を心に広めるというのに、それでも心地良くて、手放したくはないと思ってしまうものでもあった。
　判断を間違え、過ちに気付いたというのに、僕はその先に進めずにいる。



　言葉通り、あの日から二日後に男は店に姿を現した。だが、僕は未だに自分のとるべき行動を決められないでいる。
　優先すべきなのは何なのだろうか。自分はどうしたいのか。わからない…。
　冷たい外気を含むコートを受け取りながら、僕は男から視線を外し、そのまま背を向ける。筑波直純はそんな僕を気にかけることはなく、カウンターに座り酒を頼んだ。
　いつも通り酒を飲んで過ごす男に、けれども僕は、まともに視線を合わす事が出来ない。
　先日は気付けなかったこの心を、隠さずに話すべきなのだろうか。それとも、このまま偽り続けて過ごすべきなのか。
　自分は何を望んでいるのか。男は僕に何を望んでいるのか。
　全てがわからず、ただ僕は男を騙しているのだという気まずさに、居た堪れない気持ちになる。恋に恋する少女のような行動をとった僕だが、そんな少女のように思考が幼いわけでもなく、こうして自分の軽率さを思い知らされている。そう、馬鹿だとしか言いようがない。
　ならば、そう。今のこの気持ちを男に話せばいいのだろう。恋愛なのかどうなのか、全くわからないのだと。好きだと思うが、それは単なる付き合い以上のものはないのかもしれないと。
　佐久間さんや天川の姿を抜きで、筑波直純という人間だけを、ただ単純に見る事は僕には出来ないのだと、はっきりと伝えるべきだろう。
　だが。それは理屈ではわかるが、簡単に行動を起こせるものではなかった。嘘をつくつもりはなかったが結果的にそうなった罪悪感と、それでも自分勝手に男の心地良い存在を手放したくはないという貪欲さとが、僕を躊躇わす。

　指で光る銀色の指輪を眺め、僕は深い息を吐いた。
　結局は、この状況に戸惑うばかりで、僕は前にも後ろにも動けないのだ。



「どうかしたのか？」
　強く断る事が出来ず、店が終わりやって来た男の部屋で、僕はソファに座りここ数日吐き続けている溜息をまた落とした。そんな僕の隣に腰を降ろしながら、男は言った。
「何だ、眠そうだな」
　短い髪をかきあげながら顔を上げさせられ、男と目を合わせる。灰色の瞳は、僕をじっと見つめ、小さく揺れた。
　近付いてくる唇を避けるため、僕は顔を逸らす。今の状況では、そう言う気分には到底なりそうにない。
　それでも、男は僕の首筋にキスを落とし、頭に触れていた片手を顎へと滑らせながら、耳に囁きかけてきた。
「疲れているのか？」
　その言葉に頷くと、再び僕の顔を覗き込んでくる。
「大丈夫か？　無理はするなよ」
　なら、さっさと寝ないとな。
　そう言いながらも、男は強い力で僕を抱きしめ「寝たらベッドまで運んでやるから、少しだけ…」と、僕の肩に顎を置いた。耳に触れる男の頬が、とても温かい。
　そのまま動かない男の腕の中で、僕は背中に手を回し抱き返す事も出来ず、ただじっとしていた。目を閉じる事さえ出来ず、男の肩越しに、シンプルな部屋を眺める。
　僕の事を好きだというのは、本当なのだろう。
　今更ながらに、男の言葉が胸に染みた。そして、心に痛みが走る。
　これはきっと、僕が犯した罪のせい。この痛みは、罰なのだ。
　体と心は一体なのか。抱きしめられた腕の中で、僕は今度ははっきりとした痛みに眉を寄せる。腹の中に虫がいてそこを噛んでいるような、チクリとした痛みのあとにキリリと胃が痛んだ。
　馬鹿だと思う、こんな自分を。
　最低だと思う。
　選ぶべき道なんて、とうにわかっているのだ。ただ、それなのに、進めない…。
　何故、わかっているのに動けないのだろうか。何故、僕はこんな事になっているのだろうか。

　全てがドツボにはまっていっている、そんな感じだ。
　馬鹿だ、滑稽だ。
　いい加減にしろ。

　どんなに詰り、叱咤しようと、けれどもやはり、僕は動けない。
　これこそが罰だというように、全てが僕を苦しめる。

　一体、何処から僕は道を間違ったのだろうか――