# 66
「一緒に年を越さないか?」
食後のコーヒーを飲み、一息ついた後、男はそう言った。
大晦日の昼前に僕の部屋に現れた筑波直純は、「飯を食いに行くぞ」と僕を近くのファミレスへと誘った。
コートを引っ掛け外に出たのだが、予想以上の寒さに僕は首を竦めた。強い北風の唸り声に空を見上げると、雲が勢いよく流れていた。これでは男が来ていなくとも、公園での練習はどのみち断念したのだろう。そんな事を考えながら、短い距離を男と並んで歩く。
まだ昼食には少し早い時間帯だったが、店には沢山の客が入っていた。
ヤクザでもファミレスなんかで食事をするのかと、少し馬鹿な事を考えながらも、朝食を食べていなかったので僕は真剣にメニューを眺めた。そんな僕を、男は低く笑った。
「何だか、意外だな」
子供みたいだと僕を笑う男だが、意外なのはヤクザである男の方だ。だが、だからと言って、この場が似合っていないわけでもない。しかし、それがかえって余計に意外だ。笑う男は、家族連れの中で立っていてもおかしくはない雰囲気を持っている。何だか、詐欺だ。
「もっと静かな店の方が良かったんだろうが、疲れていてな」
一先ず腹拵えでもして休憩しないと、車を運転する気力もない。
男はそう言い、肩を竦めた。年末年始の準備で忙しく、まともに寝ていないのだと言う。ならば、そんな状態で態々僕のところに来なくとも良かったのに。
家で休んでいればいいのだろうに…。
それ程までに僕に会いたかったのか、その方が何かしらの都合が良かったのか。
そのどちらなのかはわからないが、疲れているというのは嘘ではないのだろう。薄っすらと、笑う顔に疲労が見えた。そして、その疲れが、更に男を精悍な顔つきに変えていた。
従業員に案内され側の通路を通った数人の若い女性客が、男の姿を追うように振り返るのを視界に収めながら、僕はふと息を吐き視線を下げる。
目に入ってきたメニューに意識を戻し、決めた料理を指さすと、男は店員を呼んで注文をした。その間に、僕はもう一度溜息を落とす。
罪悪感が、心に浮かぶ。
無意識の内に視線を止めていた、左手の薬指。最近、こうしてそこにある指輪を眺めるのが癖になっていることに自分で気付く。
テーブルの下へ手を持っていき、男に見えないところで、指輪に触れる。
小さな、細い、ただの指輪。
だがこれは、それだけではない意味を持っている。とても重い意味を。
僕は、いつまでこの重みに耐えられるのだろうか。
食事を終えコーヒーを飲んでいる時、「仕事はもう休みか?」と男が尋ねてきた。それに答えると、5日も休みとは羨ましいと、軽く笑う。
そして、飲み終えたカップを置き、僕に真剣な目を向けながら、今日これから一緒にいないかと誘ってきた。一緒に年を越そうと。
僕は、残りが少しになったカップの中を眺め、小さく息を吐く。そして、ゆっくりと頭を左右に振った。
「嫌なのか?」
もう一度頭を振る。
【夕方から、用がある。店でマスター達と年越しで飲むんです】
「ああ、そうなのか」
ファミレスの名前が印刷されたキッチンペーパーにそう書き込んだ僕に、男は少し苦笑しながら頷いた。
「いつも?」
毎年するのかとの問いに、今年で3度目で、従業員がメインではなくマスターの交友関係に割り込むだけなので男が想像する物と少し違うのだろうが、僕は説明するものでもないとただ頷きを返す。
「そうか。楽しんで来いよ」
そう言った筑波直純は、少し言い難そうにしながらも、「今年が最後だろうからな…」と付け加えた。その言葉に、僕は曖昧な笑みを浮かべる。
言われなくとも、わかっている。それを男もわかっているのだろうに、あえて口にした。ならば僕はもう、怒る事も悲しむ事も、何も出来なくなってしまう。僕の心情を少しはわかっているのだと思うと、言える言葉などあまりない。
ただ、そうだろうなと納得するしかないのだ。そう、受け入れるしかない。
【あなた達は、そういうのはしないんですか?】
男達の間では、もうあの店をどう処理するか決まったのだろうか。訊いてみたい気はしたが、従業員の自分が今訊くのもどうかと思い、僕は話題を変えた。
「ああ、そうだな。ヤクザは、基本的に餓鬼だからな。何でも理由をつけて騒ぐ」
面倒な事にするんだ、と男は口の端を上げて笑う。
「忘年会が終わったと思ったら、新年会だ。毎年、用意だけで疲れる。元々こういう行事が俺は得意ではないんだ。正直、辞めて欲しいが、そうもいかないんだろうな。
明日は昼に集まることになっている。その後も、顔を会わせれば何かと始める連中だから、その日の内に解放される可能性は低いな」
だから今夜は一緒に過ごしたかったのだ。「疲れるのも当然だな」と苦笑する男の声に、そんな言葉が聞こえる気がした。決してこの男なら口にはしないのだろう事を、僕は気付きたくはないのに、気付いてしまう。
厄介な事だ。とても。
「保志。その飲み会がひらけた後、来られないか?」
筑波直純は顔から笑みを消し、僅かに首を傾けた。それに答える前に、僕が煙草を取り出し口に一本咥えると、すかさず男は火を翳した。高級そうな銀のライターは、男の手に馴染んでいる。
肺の奥まで煙が届くように深く煙草を吸い、少し顔を横に背け、ゆっくりと紫煙を吐き出す。男に貰った火だと思うと、現金な事に、いつもより美味しく感じる。本当に厄介だ。
去年の飲み会の記憶を探る。
去年も、そして一昨年も、普段店を終える時刻とそう変わらない頃に終わった。やって来るマスターの友人家族がその足で初詣に行くとのことで、多分今年も同じ頃にお開きになるだろう。男の申し出は、無理なものではない。
だが、どうしようかと僕は悩む。無理だと言えば、この男はそれ以上の事は言わないだろう。だが、しかし……。
「もちろん、無理をしなくて良い。都合があったなら、来てくれ」
その言葉に顔を上げると、子供に向けるような優しい目だが、どこか寂しげな視線で男は僕を見ていた。その表情に、僕は一瞬、男に手を伸ばしたくなった。触れたくなった。
だが、それをする場所ではなかった。いや、それ以上に、僕はそれが出来る者ではなかった。
過ちの中で犯す過ちは、救われることなどあるのだろうか。この僕に償えるのか。
答えは見えない。見つけられない。
行けるかどうかわかった時に携帯へ連絡を入れる。僕は男にそう約束をした。
そんな曖昧なものに、男はただ、静かに深く頷いた。
疲れた顔に、笑みをのせて。
2003/05/21