# 67

 夕方前に店に顔を出すと、既にピアノの調律は始まっていた。
 キッチンで食事の用意をしているマスターと早川さんに来た事を知らせ、僕は店へと戻りステージに足を向けた。
「保志くん、久し振り。もう直ぐ終わるよ」
 近付いた僕に笑顔を向けたのは、最近ではクラシックファン以外の人間にも良く知られている有名人。丹下和音。彼と出会ったのは、三年程前の事だ。

 それまで店のピアノの調律をしていた人が高齢で引退し、その後に来たのが和音さんだった。マスターの友人と紹介された僕は、その時はまだ、彼が日本を代表する世界的なピアニストだというのを全く知らず、聴かせてもらった演奏に、ピアノがとても上手い人だと単純に思っていた。
 和音さんの正体を知ったのは、出会って数ヵ月後の事だ。僕はテレビで偶然彼の姿を見かけ、その肩書きに驚き、思わずマスターに確認したのだ。これは本当にあの人なのかと。今にして思えば僕が無知というか、間抜けなだけの話だが、その時はちょっとした出来事だった。
 丁度僕と初めて会った頃、和音さんは海外から日本へ拠点を移したところだったようで、日本ではあまり名前は知られていなかった。日本での活動は多くの人に音楽を親しんでもらおうと、田舎を中心に演奏会を開いていたので、僕が知らなかったのも無理もない。
 だが、それ以上に、何も気付かない僕をからかって楽しんでいたふしが、マスターと和音さんにはあったのだ。性質が悪い大人だ。きっと、僕が和音さんの演奏を誉めた時も、笑いをかみ殺していたのだろう。
 今思い出しても、大人気ない二人と、そして自分自身に呆れてしまう話だ。
 その後、和音さんは、若い女性に人気があるアイドルをプロデュースしたとかで、テレビや雑誌でよく取り上げられるようになり、世間に顔を広めた。尤も、クラシック界ではかなりの有名人だったようで、それがあってこその騒がれようだったのだろう。今でも、ちょくちょく多くのメディアに顔を出している。
 何より、話題には事欠かない人なのだ。
 いや、和音さんがというよりも、彼と一緒に暮らしている従兄弟で恋人で家族である、これもまた有名作家・丹下有人が、と言う方が正しいのだろう。何かとお騒がせな人物だ。芸能ニュースに疎い僕の耳にも名前が入ってくるほどに。

「――よし、オッケイ」
 調律を終えた和音さんが、僕を見てニカッと笑った。ピアノの側で作業を眺めていた僕は、その笑顔にお疲れ様ですと頭を下げる。
「さて。じゃあ、保志くん。何かリクエストはある?」
 手鳴らしか、音を確かめるためか、鍵盤に指を躍らせながら和音さんが訊いてきた。
 マスターと和音さんは友達だというが、歳はかなり離れている。和音さんは、まだ30半ばの年齢だ。歳的にもそうだが、性格もまだまだ若い元気な人で、僕にとっては兄のような存在といったところだろうか。
 こうして調律などで店に来た時は、何かと和音さんは僕を構ってくれる。それは僕も楽しくて、調律で彼が来るのは店が休みの時なのに、毎回顔を出している。そう、自分で思う以上に、僕は和音さんを気に入っているらしい。
 リクエストを伝えると、彼は躍らせていた指を一度止め、ひとつ息を吐いた。
 鍵盤に乗る指が、ピアニストとしての力強い意思のある指に姿を変える。だが、それはとても柔らかいものでもある。
 短く切りそろえられた爪が、照明を受け鈍く光る。
 滑り始めた指を眺め、僕はステージを降り、近くの椅子に背もたれを抱くようにして腰をかけた。目を閉じると、身体に音が染み込んでくる。プロだからというわけではなく、僕は単純に、和音さんの演奏がとても好きなのだ。だから、こうして彼に会おうとするのだろう。
 決してミーハーな気持ちは持っていないつもりだが、それは僕がそう思っているだけで、実際にはそうでしかないのかもしれない。だが、喩え現金な奴だと下げずまれようとも、それだけの価値がこの音にはある。
 何もかもを…、そう。愚かな自分も、筑波直純の事も、全てを忘れ、僕は音の世界に身を委ねる事が出来る。
 優しい旋律は、まるで僕を透明に変えてしまうのではないかと思うほど、心から全てを取り去る。
 今はただ、僕はこの和音さんの音に酔う。



 陽がすっかり沈んだ頃、和音さんの家族が店に現れ、今夜のパーティーは始まった。パーティーといっても、僕とマスターと早川さん、そして丹下家族の計6人なので、広い店の中でのそれは少し寂しいものだ。
 だが、人数的にはそうでも、雰囲気はそんな感じは何処にもない。
 アルトさんと和音さんの息子で、今年高校を卒業する拓人少年以外、二十歳を越えた大人が5人だというのに、落ち着きなどありはしない。羽目を外して騒いでいるのだから当然といえば当然の事なのだが、その輪の中にいる僕ですら、圧倒されるほどの勢いだ。
 無理やり作らせたカクテルにケチをつけたり、まるで道端の演奏者に対するような口調でプロのピアニストの音を評価したり、酔っ払いオヤジのように唯一の未成年者をからかったり。その言動は、とてもではないが、他人には見せられるものではないのだろう。この店の客にも、彼らのファンにも。
 幾つになっても男は子供だと良く云われるが、やはりそう云われるだけあり、それは嘘ではないのだろう。
 大勢で騒ぐのは昔から得意ではない。だが、その空気自体は嫌いではなく、むしろ僕は好きだ。弾んだ空気の中、同じように騒ぐ事は出来ないけれど、その雰囲気を僕は存分に味わう。


「もう12時過ぎてるじゃん」
 拓人少年のそんな一言に、騒ぎすぎだとマスター達は笑いながら、そろそろお開きにしようと片付けを始めた。
 はしゃいでいても、直ぐに切り替えられるのは、年を重ねたせいだろうか。それを、何故か少し寂しく思ってしまうのは、僕がまだ彼らのように大人になりきれていないと言うことなのだろうか。
 祭りの後の静けさは、けれども悪いものではない。
 僕は空になった皿を集めながら、深い息を一つ吐いた。心が冷めていく感覚は、本来なら良いものではないのだろうが、今は心地良い。それだけ自分が熱くなっていた、楽しんでいたというのをリアルに感じられる。
 アルトさんや和音さんは、極たまにだが店に顔を出す時がある。しかし、拓人少年は酒を出す店なので、こうした時にしか会った事がない。なので、顔をあわすのは、まだ今夜で三度目だ。
 一年に一度の付き合い。だが、彼のとても確りした性格を知るのにも、間違いなく二人の息子だと実感するのにも、それで充分だというもの。
「和音、駄目だよ。もう飲むなよ、昼から仕事だろう」
 グラスに残った酒を飲もうとした和音さんの手からそれを奪い、拓と少年は溜息交じりにそう言った。その横で、アルトさんが笑いながら酒を飲んでいる。だが、少年は、彼には注意をしない。自分の役割を心得ているのだろう。
「いいじゃん、拓。ケチだなぁ」
 伸びきった顔で笑う和音さんの目は、もう半分閉じている。きっと今の彼なら、ピアノの前に座ってもすぐに眠ってしまいそうだ。
「何言ってんだよ。これから、初詣して帰るんだから、しゃきっとしろよ。酔っ払い。弱いのに飲むなよ」
「拓は結局本当に飲まなかったのか。付き合いが悪いね。ほら、最後に一杯」
「だから、俺は未成年なの。進めるな」
 使った皿を集めながら、片手で新たにボトルから注いだ酒を一口飲み、そのグラスをアルトさんが息子に向かって差し出した。それに顔を顰め、少年は頭を振る。
「つまらないな、拓」
「つまらなくていい。アルトもそれくらいにしておけよ」
「つまらない上に、口煩いだなんて、最低だぞ」
 息子を捕まえてなんて事をいうんだよと嘆く少年に、「事実だろう」とアルトさんが笑いながら更に悪態を吐く。家でもいつも彼らはこんな感じなのだろう。言い合う姿も、とても自然だ。
 テーブルに突っ伏した和音さんの変わりにそんな二人を宥めたのは、マスターだった。
「まあまあ、二人とも。はい、もう、終わり」
 軽く手を打ち、二人に区切りをつけさせ、マスターはけれども話を戻した。
「でも、珍しいよね、今時の高校生は飲むだろう。拓人くんは全然駄目なのかい?」
「う〜ん。底なしと、ものすごく弱い極端なこの二人を見ていたら、特に飲みたいとは思えないんだよね」
「なんだよそれは」
 アルトさんが根拠になっていないと笑いながら、眠りかけている和音さんの頭をバシバシと叩いた。
「…イタイ。…何だ…?」
「叩いているんだからな、痛くて正解だ。ほら、顔でも洗って来いよ。拓、連れて行ってやれ」
 手間がかかるとブツブツ文句を言いながらも、拓人少年がアルトさんの命に従い、和音さんをトイレへと引っ張っていく。
「ん? 洗い物はあと俺のだけですか」
 二人の姿を見ていたアルトさんが、ふとカウンターを見回し、手にしていたグラスの中身を一気に呷った。
「ごちそうさまでした」
 済みません、よろしく。
 そう言いながらアルトさんが差し出したグラスを、早川さんが受け取る。
 終わりの鐘がなるように、グラスから捨てられた氷が、シンクとぶつかり低い音を立てた。


 家族というものに、憧れはない。だが、丹下一家を見ていると、良いものだとも思えてくる。
 何かと世間を騒がしている家族だが、それでもそこにはきちんと温もりがある。愛情がある。
 笑い合う三人の様子は、少し、ほんの少し、僕には眩しい。

 父と母に愛情を貰わなかったわけではない。
 僕がそれを上手く返せなかっただけのこと。
 あれから8年。
 今なら、僕と両親はどんな空気を作り出すのだろうか。

 新しい年を迎え、はじめに僕が思ったのは、意外にも家族の事だった。

2003/05/30
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