# 68

「最後まで手伝わせてすまなかったね、ありがとう」
 マスターに礼を言われ、失礼しますと軽く頭を下げ、僕と早川さんは並んで店を出た。
 いつもなら日付が回る頃には静かになる道だが、今夜はぱらぱらと人影があった。直ぐ先にある、一年中明け方まで賑わう繁華街からも、いつも以上の喧騒が聞こえて来る。誰もが無事に幕を明けた年を喜んでいるのだろう。
 ゆっくりと歩いていた僕達を、大学生くらいの若者グループがはしゃぎながら抜かしていく。
「俺達も、行くか?」
 少し先にある小さな神社に行くのだろう、と僕が思った時、同じように騒ぐ彼らの会話を訊いたのだろう早川さんが、僕を初詣に誘ってきた。

 小さな神社は、それでも結構な人がいた。だが、留まっている者は少ない。人の波にのり参拝をし、そのまま直ぐに帰って行くようだ。
 そんな周りと同じように、僕と早川さんも適当に手を合わせ、直ぐに神社を出る。
 僕は道に出たところでふと振り返り、入口にある大きな桜に目を向けた。
 境内からの光でその姿を浮かび上がらせている桜の木は、とても大きく、圧巻されるものだった。広げられた、ごつごつとしているが何も纏うものがなく寂しい感じのする枝でこうなのだから、薄桃色の花を咲かせた時はもっと魅了されるのだろう。
 春にこの神社に足を運んだ事は一度もないなと、今更ながらに気付く。忘れなかったなら、次の季節には一度満開の花を咲かしている姿を見に来ようと、僕は今は枝だけの桜の大木を眺めながら思った。
「次は、4日だな。じゃ、良い正月を」
 その言葉に顔を戻すと、早川さんは既に歩き出していた。後ろ手に僕に手を振るその背中に、僕は軽い笑いを落とし、もう一度桜の木を見上げ人波に乗る。

 一度だけだ。
 たった一度だけ、僕はあの友人と、初詣に来た事がある。
 いつものように街で適当に過ごし、大勢の人が集まる神社に行った。人込みに悪態を付きながら、それでも楽しくはしゃいだ。出店を順番に回ったり、境内を散策したり。

 ――来年もまた来よう。いや、今度は、除夜の鐘をつきに行こうぜ。って、それってもう、今年のことじゃん。

 笑う友人のその言葉は、疑う余地など何処にもなかった。
 一年後のこの日もまた、この友人と一緒にいるのだと、僕は何故か信じていた。確信していた。
 それは、若さゆえの事だったのか。それとも、あの友人の力だったのだろうか。
 今はもう、あそこまで未来を無条件に信じる事は、僕には出来ない。



 曖昧な気持ちのまま男と接触を持つのは良い事ではないとわかっているのに、僕は歩きながら、無意識の内に携帯を取り出し筑波直純に連絡を入れていた。
 今から部屋に行ってもいいか、と。
 昼間に会った時も、早川さんと店を出た時も、そんな気にはならなかったというのに、自ら伺う。会えば気まずさばかりが募るのがわかっていたからこそ、行けないと断ろうと思っていたというのに。
 僕の心は、いつの間にか変わってしまっていた。僕自身が気付かないうちに。
 直ぐに戻ってきた返事は、車で迎えに行こうかという、優しい言葉だった。
 僕には、学習能力がないのかもしれない。
 前を行く家族連れの姿を見ながら、手にした携帯を握り締める。
 小さな兄妹と両親の家族の楽しげな会話が、僕の耳に届く。こんな夜遅くに外に出ている興奮だろうか、子供達は両親の手を引きはしゃいでいる。
 前を行く暖かな家族の姿。思い出の中の、友人との初詣。丹下さん達の姿。友人と過ごした、あの大晦日の夜。
 そう。僕は、少し物悲しい気持ちになったのかもしれない。憧れているわけではないが、人の温かさが恋しくなったのかもしれない。
 だから、男を利用しようと、心が勝手に動いたのかもしれない。この寂しさを、彼なら埋められるのではないかと。
 自分の中の醜さに気付いた僕は、けれども、もう修正は出来ないのだと言い訳を与え、自分自身を甘やかす。
 手の中の携帯を暫く眺め、自力で向かうと短い言葉を返す。
 再び直ぐに返ってきたメールには、マンションの入口の暗証番号が記入されていた。



 部屋の前でインターフォンを鳴らすと、暫くしてカチャリと玄関のドアが開いた。
 筑波直純は、昼間の疲れが消えた顔で、僕を迎え入れた。非常識な時間の訪問だとは微塵も感じさず、「寒かっただろう。歩いてきたのか?」と微かに笑いを含んだ声で僕を気遣う。
「疲れているんだろう。だが、寝るのなら、先に風呂で温まってからにしろ」
 その方が眠りやすい、と男はキッチンに入りながら言い、ふと思い出したように僕を振り返った。そして、「そうだった。明けましておめでとう」と忘れていた新年の挨拶を口に乗せ、唇の端を引き上げて笑い、僕が頷いたのを確認して背中向ける。
 僕はコートを脱ぎ、いつものようにソファには座らず、男の後を追った。リビングから丸見えではあるが、キッチンに入るのは初めてだ。
「どうした?」
 湯飲みを片手に、男が僕に問う。お茶の用意をする姿が妙に似合っているな、と男の言葉に返答せず、僕はそんな事を考えた。
「俺は、あれから充分寝たから、もう寝ない。遠慮せず休めばいい」
 だから顔色がいいのかと、そのまま僕は男を見続ける。
「…どうかしたのか? 反応しろよ。酔っているんじゃないよな?」
 僕のために用意しているのだろう、熱いお茶を湯飲みに注ぎながら、男は僕の態度を軽く笑った。お前はホントにわからないな、と。
 だから。
 だから、僕は。
 反応しろよと言う男の言葉を受け入れ、実行に移しただけなのだ。
 わからないと言うから、少しでもわかるように、男の身体に触れたのだ。
 重なった肌から、感情が伝わるとは思っていない。だが、その方法しか僕にはなかった。
 何故ここに来たのか、僕自身よくわかっていない。けれども、この男と同じ空間にいるのは嫌いではないというのは自覚している。ただそれだけの理由で、この寒い中やってきたのか僕は?
 そう、外はとても寒かったのだと、触れた男の肌の温かさでその事を思い出した。いや、気付いた。寒さもわからないほど、僕は何かを考えていた。色々と。だが、本当は何を一番考えるべきなのか、考えたいのか。僕自身の事なのにわからない。
 何もかもがわからない。
 ただ、今目の前にいるのは、あなたなんだ。そうだろう?
 僕の前にいるのは、筑波直純。だが、それは何故なのか。
 沢山の叫びは何一つとして形にならず、伝える事は出来ないものだ。
 そんな僕を、何故この男はわからないと悩むのだろう。わからないままではいけないのか? それは、僕も…?
 僕は、考えなくてはいけないのだろうか。
 この男への対応だけではなく、色々な事を。
 それすら、わからない。
 だが、やはり僕の前にいるのは、筑波直純なのだ。

「…どうしたんだ?」
 再び同じ問いが男の唇から零れた。だが、その声は先程とは違い、少し戸惑いの色を浮かべていた。
 僕をわからないと言う、筑波直純。だが、僕もこの男をわかってはいない。わからない。
 自分自身さえもわからない僕に、他人の考えがわかる時が来るのだろうか。わからないのが当然ではないのだろうか。浮かべる戸惑いが何故なのか、僕が知る事は出来るのだろうか。
 どうすれば、それが出来るのか。僕は知らない。
 この男は、知っているのだろうか。

 背中から胸へと回し抱きしめた男の体は硬く、けれどもしなやかな筋肉を感じさせるものでもあった。
 僕の手の下で脈打つ鼓動は、背中に耳を当てると、男の中で一つの音として綺麗に響いていた。
 この音だけでは駄目なのだろうか。この温もりだけでは駄目なのだろうか。
 これだけでは、僕に答えはもたらされないのだろうか。誰も与えてはくれないのだろうか。
 この男も…?
「保志…」


 その時、どこか苦しげに僕の名前を呼んだ筑波直純は、青い波の上で、僕を女のように抱いた。

2003/05/30
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