# 69

 目が覚めたのは、頂点まで上った太陽が下がり始める頃だった。
 視界を埋め尽くす青いシーツに、一瞬そのまま瞼を閉ざしかけたが、明るい陽射しに無理やり頭を叩き起こす。僕にしては珍しい、気分の良くない目覚めだ。
 救いなのは、近くに人の気配がなかったことだろう。きっと、今の自分に他人を気にかける余裕はない。
 元旦に昼まで眠っている人間は、世間的に評価してどうなのかは知らないが、少なくはないだろう。起きて年の変わり目を迎えた者なら、まだ惰眠を貪っているかもしれない時間だ。
 だが、それでも一年の始まりなのだから、今日ぐらいは清々しく目覚めたかったと、僕は子供のようにない物ねだりを思わずしてしまう。自分でも馬鹿だと気付きながらも、悪態を吐く。心の余裕さえなくしているようだ。
 起こした体のだるさに深い溜息を吐きながら、片手で顔を覆い、また息を吐く。だが、いくら重い息を体から吐き出したところで、軽くなるわけもない。
 いつも通りの睡眠をとったのに、体は眠る前より重い。気分も、良いとはいえない。
 その理由がわかっているからこそ、一番理解しているからこそ、余計にやるせない感情が胸に沈殿していくのだろう。
 新年早々疲れている自分が、何だかとてつもなく情けなかった。
 いや、正確には、自分がとった行動が、だ。曖昧な言葉で誤魔化せようとしても、意味などない。
 こんな事に日付など関係がないなど、とっくにわかっている。馬鹿馬鹿しい。この一年の始まりの朝でも、昨日の続きなのだから、何日であろうと、どんな日であろうと関係ないのだ。何を感傷的になっているのだ、僕らしくもない。
 自分を奮い立たせるようなそんな小さな苛立ちに任せ、僕は勢いよくベッドを降りようとした。
 だが、ズキンとあらぬ場所に走った痛みに、思わず動きを止め、再びベッドに倒れこむ。
 なんと表現すればいいのかわからないので、最悪だ、と簡単な言葉を胸の中で繰り返す。痛みも、この感情も、全てが最悪だ。
 最悪だ、最悪だ…。
 何をしているのだろうか、僕は、一体……。
 その問いは、空しいものでしかなく、僕は青いシーツに顔を埋めて目を閉じた。子供のようにそこに逃げ場所を求めるが、残念ながら男の匂いがするだけで、都合よく僕を隠してはくれない。
 不機嫌なのも小さな事が気になるのも、要するに自分のとった行動に戸惑っているからなのだと、僕は何処かで気付いている。
 だが、それを受け入れる余裕が、今の僕にはない。


 シャワーを浴び、主のいない部屋のリビングで、僕は濡れた髪をそのままにソファに凭れこんだ。カチカチと秒針の音が部屋に響く。
 その音の発信源を探し当て時刻を確認すると、既に2時をまわったところだった。
 筑波直純とは、明け方まで抱き合った。
 いや、そう表現するのなら、以前の事だろう。今朝は、体を繋げたという方が正確なのだろう。
 首筋を流れ落ちていく水滴を感じながら、僕は自分で自分の表現に訂正を入れる。言葉などどうでもいいのかもしれないが、今はそんな馬鹿げたどうでもいい事が無性に気にかかる。
 僕は、男と身体繋げたのだ。
 昨日の話では、筑波直純は昼前からある集まりに顔を出すと言っていた。いつ出て行ったのかは知らないが、タフだなと僕は妙な感心をする。自分のだるい身体に、嫌気がさす。
 誰かと比べる事は僕には出来ないが、男のセックスは乱暴なものではなかった。そう、優しかったとさえ言えるだろう。以前抱き会った時の僕の方が、横暴だったぐらいだ。
 僕の身体に負担がかかる事をとても気にかけていた。無理やりに扱われたとは思っていない。
 だが、正直、僕の体も心も相当のダメージを受けている。今になって。
 いや、これもまた、男に与えられたものではなく、僕自身の問題か…。
 短い溜息を吐き、天井を眺める。
 必死になって抵抗する事はなかった。だが、受け入れたというわけではなく、ただ何も考えられなかった。そう、この歳になってこんな事は通用しないのかもしれないが、初めての体験に思考がついていかなかったのだ。何もかもがわからず、ただ男に身を任せたのだろう、僕は。
 しかし、男にとっては、そうではなかったのだろう。
 それを考えると、気が重い。
 僕は先日以上に、経験して初めて、思っていた以上に意味のある行為なのかもしれないと気付いたそれに戸惑っている。
 本当に、僕は馬鹿なのかもしれない。

 マンションの部屋としては少し高い天井を睨みつけていた僕は、ふと力を抜き目を閉じた。そして、そのまま、指で閉ざした目元に触れる。
 最後に泣いたのは、いつだっただろうか。思い出せない。
 今朝、僕は何年かぶりに、涙を流した。その時は、涙に構う余裕など僕にはなかったのだが、今になって思えばそれはとても不思議な感覚だ。泣く事を忘れていたというわけではないが、単純に僕も泣けたのかと思い知る。
 そのまま、指を頬にそって、少し動かす。
 筑波直純は、僕の流した涙を指ですくった。唇で拭った。生理的にただ浮かんだそれなのに、何故かもっと意味のある事のように思えてしまう。
 大丈夫かと問いかけてきた男の声が、リアルに耳の奥に浮かぶ。
 男と男が体を繋ぐその行為を、全く知らなかったわけではない。だが、知識としてあっただけで、僕は自分が女のように抱かれるなど想像した事はなかった。実際にその経験をした今でも、信じられない。
 だが、それは変えられない事実なのだ。
 重い息を吐き出し瞼を上げると、閉じる前とは何ら変わらない天井が、僕の目に映る。
 そこから視線を外し、低いテーブルの上を見る。
 黒い机に、白い紙切れと銀色の四角い板が置かれている。紙には、少し右上がりの綺麗な字で、僕へのメッセージが簡潔に記されていた。
 部屋の鍵はオートロックなので、出て行く時は閉める必要はない。合鍵を用意したので、持っておけ。ただし、来る時は必ず先に連絡を入れろ。
 万年筆だろう、青いペンでそんなことが書かれていた。使う時がくるのだろうかと思いながら、僕は置かれた銀色の鍵を手に取る。体温より冷たいそれは、微かに指の先を痺れさせた。
 男が記した連絡先は、僕の携帯に入っている男の番号と、あの岡山の番号。そしてもう一つ、初めて見る番号があった。先の二人の名に並び、「クロ」と書かれているので、第三者の人物なのだとわかるが、思い当たる者はいない。ドメイン名から、それが携帯のメアドではないという事がわかるだけだ。


 自分で自分の行動を制する事が出来ない。
 いや、その前に、どんな行動を自分はとるのか、その時になるまでわからない。
 まるで、他人のよう。

 そんな僕には、男に抱かれたのだという事実だけが残されている。
 とても、面倒なものが。

 セックスをした後でそれについて考えるなど。
 本当に、馬鹿げている。


 ――俺を軽蔑するか?
 そう僕に問いかけてきた友人の声が、耳の奥に蘇る。

 軽蔑をするのは、されるのは。
 僕自身なのかもしれない。

2003/06/10
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