# 71

 気晴らしのつもりで見たテレビも、和音さんの姿に自分の家族を思い出し、疲れが一層僕の身体を蝕んでいっている錯覚を覚えただけだった。元旦早々、ここまでへこむ自分が情けない以上に、心の底から笑えてくる。
 最高だ。
 そんな言葉で自分を高ぶらせようとするが、笑いは喉元に絡みつくだけで終わり、僕は瞼を閉ざし無の世界を求める。何も考えずに過ごす技術を身に付けて置くべきだった。今言っても遅すぎる後悔を思い浮かべ、しかし今後のためにも真剣にそれを考えなければとも思う。
 だが、今はそれを収得出来る状況ではなさそうだ。
 とりあえずは自分の出来ることからしようと、僕はテレビの電源を落とした。
 静かな部屋が、僕を包み込む。
 いつの間にか、窓の外は赤く染まっていた。



 長く休んでも帰る気力はもちろんの事、動く気にもなれず、僕はそのままソファで夜を明かした。朝の光で目覚め、筑波直純が帰ってこなかった事を知る。
 こんな事をしていていいのだろうかと思いながらも、結局起きた後も、僕はソファの上で過ごした。一度トイレに立ち、その帰りにキッチンへ入り冷蔵庫から缶ビールを一本拝借してきただけで、またソファに体を預ける。
 まるで猫か何かのようだ。
 いや、主人がいない部屋に取り残されたペットでも、もっと動き回るものだろう。これでは単にだらけているだけだ、とそう思いもするが、結局の所どうでもよく、慣れたソファの感触を楽しむ。
 覗いた冷蔵庫は、意外な事に細々としたものが入っていた。料理をする人間がここに出入しているのだろうか。ならば、こうしていては顔を会わすかもしれない。それは、男にとってマズイことなのだろうか。
 答えは本人に聞かなければわからない無駄な事を考えながら、冷え切ったビールを喉へ流し込む。真冬のビールは、夏より美味しく感じられないのは何故なのか。どうでもいい事に、頭を使う。
 遅い朝食代わりのビールは、腹を満たすものではなく、単なる飲み物でしかなかった。体の中を滑り落ちていく冷たい液体は、僕を酔わせることもない。
 すっかり低位置となってしまったソファの上で寝転がり、足りない面積を補うため、膝を曲げる。
 そしてまた、僕はぼんやりと天井を眺めながら、眠りに落ちた。


 腹の中に何かがいる。
 内臓が揺れる感覚に、僕は浅い眠りから覚醒へと浮き上がる。再び腹の中の虫が暴れ、その妙な感覚に気味が悪いと眉を寄せた時、グルルと耳に低い音が流れてくる。
 何てことはない、空腹により、腹の虫が鳴いたのだ。
 ふざけた目覚し時計だと思いながら目をあけると、寝る前と変わらない天井があった。目を瞬かせながら、ソファの上で体を起こし、僕は驚いた。
 直ぐ傍に、筑波直純がいたのだ。
「ああ、起きたか」
 僕の足元でソファを背凭れにして、男は直接床に座っていた。起き上がった僕を見、軽く笑う。
「腹が減っているみたいだな」
 先程の虫の声を、この男は確りと聞いていたらしい。
「お前、ビールしか飲んでいないんだろう?」
 何でも勝手に食べればいいのに。
 そう苦笑しながら立ち上がり、まだ少しぼんやりとしている僕の頭を軽く撫で、男はキッチンへと入っていった。僕は少し呆けていたが、男の呼びかけにソファを降り、同じようにキッチンへと向かう。
 時計を見ると、昼食よりも午後のおやつに近い時刻だった。
「ほら、座って食え」
 やって来た僕を見止め、男は顎で僕に席を示す。
「レンジで温めただけだが、ま、不味くはないし、腹の足しにはなるだろう」
 キノコのリゾットが置かれた席につくと、男はミネラルウォーターをコップに入れて出してくれた。柔らかい匂いが、再び僕の腹の虫を鳴かせる。再びそれを聴き止めた男は、喉を鳴らせて笑った。
 その笑顔に、当たり前のことなのだが、帰ってきたのだと妙に実感した。
 ここは男の家なのだから、当然の事であるのに、僕はその事実に何故か少しほっとした。

 部屋の空気が、変わった気がする。
 その存在がなくとも男の雰囲気を持っていた空気だが、それは単なる記憶のような、過去の産物のようなものだったのかもしれない。
 男が現れ、僕は部屋の中の空気が、まるで息をはじめたかのように感じた。
 止まっていた時が流れ出したというか、生き返ったというか。
 何にしろ、とても不思議な感覚に陥った。

 ここが筑波直純の居場所なのだと、今更ながらにそう思った。
 ただの筑波直純という男に、少しだけ触れることが出来たような実感が、何故か僕の胸を温かくした。

2003/06/13
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