# 72

 熱いリゾットをゆっくり食べる僕を、筑波直純は前の席に座り、無言で眺めていた。
「…居るとは思わなかった」
 最後の一匙を口に入れた僕が冷たいグラスに手を伸ばした時、漸く男はそう口を開いた。
「どうかしたのか?」
 男も僕らしからぬ行動だと思ったのだろうか、何かあったのかと真剣な顔で僕に訊ねてくる。その顔には、少し疲労が浮かんでいる。
「もしかして……体、辛いのか?」
 僕は首を振り、グラスに残っていた水を一気に飲み込んだ。男の言葉に、この男とセックスをしたのだと思い出したが、頭の中に浮かんだそれを直ぐに僕は消し去る。答えが出ない悩みを今思い出しても、どうにもならない。
 軽い笑いを浮かべながらごちそうさまでしたと手を合わせ、男に視線を向け、僕は満腹だと軽く腹を叩いた。その仕草に、男は軽く笑う。
「ん、ああ。それは何よりだ。って言うかさ、お前。ちゃんと食べろよ。身体に悪いぞ」
 呆れたように肩を竦める男だが、僕はその言葉に、何故か食事を摂るという事がすっぽりと頭から消えていた事に気付く。空腹に気付けない程悩んでいたとは思えないが、自分が思う程余裕がなかったのも事実なのだろう。
 それでも酒を飲むとは、アル中なのかと自分で自分に呆れる。笑うしかない。
 僕が同じように肩を竦めると、男は小さな溜息を吐いた。そして、左手首につけた時計に目を向ける。
「…俺はこれから、もう一度出掛ける。だが、1時間ほどで戻るから、待っていてくれないか?」
 まだ仕事があるのかと、既に疲れているようなのに本当に忙しい男だなと、先の言葉に軽く驚いた僕は後半の言葉を掴み損ねてしまい、思わず僕に窺ってきた灰色の瞳に首を傾げた。
「嫌なら仕方がないが、暇なら付き合えよ。家でのんびり正月気分を味わうのに、一人じゃ空しいだろう?」
 どこか無邪気にそう言い、「ま、好きにしてくれ」と男は僕の返事を聞かずに席を立った。キッチンを出て行く背を、数歩遅れて追う。
 待っていて欲しい…? 僕と過ごしたい?
 遅ればせながらにも向けられた言葉は理解したが、それは今までのように気負ったものではなく、どこかさらりとしたものだった。一昨日、ファミレスで部屋に誘われた時のよな、強い思いは感じられない。
 だからだろうか。何故か、少し男がいつもと違うように感じられた。まるで、初めて会った頃のように、その正体さえつかめない気がした。
 追いかけた後ろ姿は、いつもと変わらない。
 だが、そこに昨日の情事を感じ取る事は全く出来なかった。
 僕が考えるように、男も考えているというわけではないと言うことだろうか。その違いが、こうした一瞬に見えてしまったのだろうか。
 何となく、だからと言って問題があるわけではないが、釈然としない何かが僕の心に燻る。

「ああ、あの鍵は持っていていい。お前用のだから」
 スーツの上着を着ながら、筑波直純はリビングのテーブルを顎で示した。そこには、昨日男が置いていったの紙と鍵がある。僕はそう言えばと思い出し、その紙を手に取り、男に尋ねた。このクロというのは何なのかと。
 だが、コートを着ながら紙と僕を眺め、「ああ、それだがな」と男は別の説明をした。
「お前、メールしか使わないんだろう? 俺はよく携帯の電源を落としているからな、悪いが直ぐに対応が出来ない。急ぎの時は、岡山にメールを入れる方が早いだろう。だが、あいつも俺と同じように行動していたら、連絡がつかない事もありえるだろうしな。
 その点、クロなら問題はない」
 ただ、あいつの場合は別の問題が出てくるのかもしれないがな。
 僕の訊きたい事とは違い、その紙切れの自体を説明する男は、「ま、もしもの時のために、控えていろ」と言葉を括った。
 もしも、とは一体どんな時だというのか。
 思わず眉を寄せた僕だが、それは後に回する事にした。男に見えるように「クロ」という文字を指さし、これは誰なのかと、今度こそ相手に疑問を伝える。
 それに対し、男は少し目を見開き、意外そうな顔をした。
「ん? 言っていなかったか? いや、忘れたのか。あのいかれた医者だ」
 廃ビルの地下で営業している、モグラ男。連れて行っただろう。
 そう言い、軽く笑いながらネクタイを結び直す筑波直純は、完全に僕が忘れたのだと信じているようだ。なんて失礼な男なのだろう。
 僕は絶対に教えてもらっていない。あの秀麗な男の名前を聞いていたのなら絶対に忘れるはずがないので、間違いない。自分の連絡ミスなのに、僕の記憶力を疑うとは、腹立たしいというものだ。
「何て顔をするんだ。ま、気に入らない奴だというのはわかるけどな」
 僕の顰めた表情をどう捉えたのか、男は軽く片眉を上げて応えた。そして、右手を目の高さまで上げて、空にゆっくりと文字を描きはじめる。
「四谷、クロウ」
 記しながら言葉でも示したそれは、あの医者の名前だった。
「通称、クロ。犬の名前みたいだが、腹黒いあいつにはぴったりなものだろう?」
 そう言い、パシンと僕が持っていた紙を指で弾き、筑波直純はニヤリと笑う。だが、悪態を吐きながらも、親しみが篭った声で言った。
「ま、それでも、腐れ縁というか何というか。同じ施設で育った兄弟みたいなものだからな、俺にとってはこの世で唯一の肉親みたいなものだ。いかれた奴だが、信用出来る人間だ」
 だから、連絡先を覚えて置け。男は真っ直ぐと僕を見てそう念を押した。
 しかし…。
 ――施設…?
 さらりと流されたその単語が、僕の頭で疑問符を伴って駆けまわる。それは一体どう言う意味なのか。
 問いかけようと男に向かって僕は腕を伸ばそうとした。だがそんな僕を笑うかのように、目指しかけた男の腕が、視界から消える。
「――はい」
 不意に男は半歩足を引き、体を横に向けながら、スーツの内ポケットから携帯電話を取り出し通話を受けた。
「…ああ、――そうだ」
 僕が傍に居るからだろうか、短い言葉で会話を交わす男を見つめ、気まずさに僕は床に視線を落とす。そこには、男の足と僕の足があった。その間の距離は、数十センチしかない。
 だが、僕は…。
 僕は、この距離を縮める事をしない。したいのか、したくないのかさえ、よくわからない。
 男は、ここまで縮めたというのに…。残りの一歩を埋める気はないのだろうか…?
 その考えに、埋めて欲しいのだろうかと、僕は自分自身に問い掛けてみるが、やはり答は出ない。自分で動くのが嫌だから、ただ他力を願っているだけにしかすぎないのかもしれない。
 この距離をどうするべきなのか、今の僕にはわかりかねる。だが、しかし…。
 この残された距離に、何らかの、とても大事な意味があるような気がして、僕はただじっと足元を見据えた。
 動くのは、前へか、――それとも、後ろへなのだろうか…。
 この数十センチの間には、一体何があるのだろうか。
 見えるはずもないそこを、ただ見つめる。
 結局僕は、未だ迷いから抜けられる出口さえ見つけられずにいる。

 「じゃあ、行ってくる」
 その言葉に顔を上げると、電話を終えたらしい男は僕の頭を一度軽く叩き、部屋を出て行った。
 その後を追う事は、僕には出来なかった。
 あのクロと呼ばれるとても綺麗な男の顔を思い出そうとし、何故か今に限ってそれが出来ず、僕は軽く頭を振りながらソファに腰を下ろした。
 同じ施設で育った、と。確かに男はそう言った。
 男が語った言葉は、ほんの少しのものでしかない。
 だが、それでも。
 自分は男の事を何も知らないのだと充分に知らされるものであった。

 そう。
 僕は、筑波直純の何を知っているのだろうか。
 僕は、僕に向けられるあの想いさえ、良くわかっていないのかもしれない。

 先程触れられたと感じたばかりだというのに、筑波直純が僕から再び遠のいた気がした。

2003/06/13
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