# 73

 男が言った時間は、一体何を根拠にしたものだったのだろうか。
 1時間程だと言いながらも、筑波直純は4時間以上経って漸く部屋に帰ってきた。
 出ていく時より疲労の色を濃くしての帰宅は、けれどもどこか嬉しそうでもあり、待ちぼうけを味わっていた僕は何ともいえない気持ちになる。男の帰宅を今かと待っていた自分に気付き、内心で慌て戸惑う。
 実際のところ、心待ちにしていたわけではないのだというのに、そうだったのではないかと自分を疑い、自らに違うと言い訳をする。
 要するに僕は、男の願いを聞き入れようとしたわけではないが結果的にそうなってしまった事で、信じたくはないが照れているのかもしれない。
 いや、男の態度が恥ずかしいのだろう。
 そう、この筑波直純のせいなのだ。

「悪い。遅くなった」
 陽が沈みすっかり暗くなった外とは違い、何故か男の声には明るさがあった。謝罪もまるで笑い声のように弾んでいた。
 戸惑って当然だ。こちらはあれから悩んで過ごしていたというのに、一体何なのだろうか。
 僕は勝手に考え込んでいただけだと言うのに、男に八つ当たりするように冷めた視線を向けた。だが、それさえも笑顔で受け止められるのだから、どうしようもない。
「自分で頼んでおいてなんだが、本当に待っていてくれるとはな」
 嬉しいよ。
 そう言って目を細める男に、僕は軽く肩を竦める。男がはしゃいでいるのは、僕がここに居た事からだというのだろうか。
 その疑問に、まさか、と僕は自分で判断を下す。出先で何かあったのだろう。既に酒が入っているのかもしれない。だが、そうだとしても、戸惑いは消えない。落ち着かない。
 それともこれは、僕が意識しすぎているせいなのだろうか。動揺しているのだろうか、僕は…。
「保志。飯にしよう」
 持っていた紙袋を低いテーブルに置きながら、筑波直純は僕に優しく笑いかけてきた。
 その笑顔に疲れの色は見えても、先程の発言を気にかけている様子は全くなかった。
 ただ、出かける前に言ったように、本当に新年を祝おうとするような明るさがそこにあるだけだった。
 男が何を考えているのか、僕にはやはり、良くわからない。


 男が持ち帰ったのは、豪華とは少し違うが、立派な御節だった。四角の重箱に、小さいが尾頭付きの鯛に煮しめ物に、かまぼこや栗金団など鮮やかな料理が詰められていた。そして、まるで結婚式のように、何故か赤飯まである。
 酒を飲みながらそれらをつまみ、疲れているのだろうに何故か元気で、いつもより饒舌な筑波直純の他愛のない会話に僕は耳を傾けた。
 けれど、男を前にすると、やはり僕は別の事を考えてしまう。
 この男は、どんな人生を歩んできたのだろうかと。何故ヤクザになったのだろうかと、それを知りたいような気がする。だが、面と向かうと、僕のその欲求は消えてしまう。
 自分なんかが訊いてもいいのだろうか。そう思うと、僕にはもう訊けない。
――あいつはヤクザが嫌いなヤクザだからね、今の自分を恥じている。
 そう言った佐久間さんの言葉が、更に僕の欲求を誡めた。
 興味本位で聞いていい事と悪いことぐらい、僕とてわかっているつもりだ。

 全てのヤクザがどうなのかは知らないが、筑波直純がとても忙しいというのは僕にもわかる。
 誰かが馬鹿をしない限りは明日の夜まで丸一日休みなのだと言いながら、男は肩の力を抜き深くソファに凭れた。そして、天井を見上げ、そのまま僕を見ずに僕に問い掛ける。
「…一緒にいられるか?」
 数拍の間をおき、漸く僕に視線を合わせ、男は今度は目で応えを促した。僕はそれに、少し考え、小さな頷きを返す。
「そうか。…用はないのか? 正月休みなんだ、実家には帰らないのか?」
 東京なんだろう?
 その問いには、苦笑を浮かべて首を横に振る。
「ま、いつでも帰れるか。近くなら」
 グラスに残っていた酒を一気に煽り、小さく息を吐く男を、僕はじっと見つめた。
 そんな僕に気付き、男は小さく笑う。
「どうした?」
【十八になる前に家を飛び出してから、あそこは帰る場所ではなくなりました】
「……保志」
 男が僕の名を呟く。
 自虐的というか、感傷に浸りまくったその文字を眺め、思わず記してしまっていた自分に僕は苦笑した。そして、次の瞬間には嫌になり、目を逸らす。
 何を言っているのだろうか、僕は。
 確かに真実ではある。昨日両親を思い出したところだったから、感傷的になったのだろう。そして、男が言った言葉が少なからずとも影響しているのだろう。だが、だからといって、他人にこんな心を見せてもどうにもならない。
 自分自身良くわかっていない心などを見せても、いい事になりはしない。聞かされる相手にも僕自身にも、不快なものにしかならない。
 軽率な発言に舌打ちしたいのを押さえながら、僕は言葉を記したメモ用紙をピリリと破り、握りつぶした。小さく丸まったそれを、部屋の隅にあるごみ箱へと投げる。
「…ヘタクソ」
 揺れる心の影響を受けたかのように、紙はごみ箱に少し届かず、床へと落ちた。それを眺めた男が、軽くそう言い笑う。
【上手くとも、何の特にもならない】
「だが、少なくとも、ゴミを散らかす事にはならない」
 律儀にも男は立ち上がり落ちたそれをゴミ箱に入れ、今度は声を上げて笑った。
 そして、不意に真面目な顔をし、僕に謝罪した。
「悪かったな。訊かれたくなかったか」
 軽率だったと、男は僕に頭を下げる。
 …悪いというなら、そう思うのなら、謝らないで欲しい。流れた空気を戻さないで欲しい。
 だが、これもまたこの男らしいものなんだろう、と僕は思う。
【いいえ、全く。僕が捨ててしまったんですから】
 そう、僕は捨てたのだ。何だかんだと言っても、それが事実なのだろう。
「…そうか。ま、お前の場合、そうしないと駄目だったんだろうな、きっと」
 何の理由もなくそんな事をしたわけじゃないんだろう。なら、仕方がないさ。
 男は僕の過去を調べた時、家庭の事を何か知ったのだろうか。それとも、状況からの予測でしかないのか、僕にそれは測れない。だが、単なる調子合わせで言っているような軽い言葉にも聞こえなかった。
 思わず男を見つめると、筑波直純は目を細めて僕を見た。
「でもな。俺はやはり、お前はいつでも帰れるんだと思うぞ。お前もお前の家族も、何も捨ててはいないんじゃないか? ただ、別々の時間が欲しくてそうなっただけなんだろう」
 そうでなければ、家族と言われてもそんな顔はしないさ。
 男はそう言い、どこか眩しげに、僕に微笑んだ。

 僕は一体どんな顔をしていたのか。
 男には、どんな顔に見えたのか。僕にはわからない。
 だが。
 多分、それは男が僕にさせたのだと思う。

 両親ではなく、筑波直純が。

2003/06/18
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