# 74

「俺みたいな奴が言うのもなんだがな、保志。人間そう捨てたものじゃない。人と人との関わりも、思う以上に深いものだ。嫌っていようが関心がなかろうが、感情とは別の繋がりがあるんだよ、同じ生き物というレベルでな。
 …少なくとも、俺はそう思っている」
 人類皆兄弟、ってな馬鹿は言わないけどな。
 軽く照れたように笑いながらも、そう語った男の言葉は真実だと僕は思った。
 確かに、そう思えるのなら、誰もがそうでありたいだろう、この男のように。だが、それはとても難しい事だと僕は思う。口に出して言える程の男ならば、それはわからないのかもしれないが、多くの者は僕と同じではないだろうか。
 この男は、僕が思う以上に真っ直ぐなのかもしれない。ヤクザなのだ、手を汚しているだろう、人の恨みも買っているだろう。だが、そんな事とは関係なく、とても綺麗な人間に思える。歩んでいる道が世間では受け入れられないとしても、少なくとも僕なんかよりはずっと真摯である。
 あなただからそう思えるのだ。
 その言葉を僕は胸に止め、今はただ素直に男の言葉を受けようと、僕は深く頷いた。
「お前が帰りたいと思えば、捨てたんだろうと何だろうと、帰る場所になるんだよ、そこが。だから、そう硬く考えずともいいと思うぞ、俺は。
 正直、俺には羨ましい話だ。そうだと思える場所は、もう俺にはないからな」
 そんな自分が言っても説得力がないのかもしれないが、結局はいつかは無くなるものだ、焦って手放す必要もないだろう。
 筑波直純はそう言い、僕と家族を繋げさせた。
 そう、まだ彼らと僕は切れていないのかもしれないと、男の言葉を受け僕の心に微かな期待と不安が浮かぶ。もう捨てたのだと言い切り過ごす方が楽なのだろう。そう思うのに、僕はそこに未来を見る。
 男の言葉は、まるで魔法のように僕を変えた。
 いつか。
 いつか彼らと再び会う時がくるのかもしれない。
 そんな予感が、心を駆け抜ける。

「…帰りたくなったか?」
 ぼんやりと仕掛けていた僕に、男は静かにそう言った。その声に視線を向けると、筑波直純は手にしていたグラスをテーブルに置き、僕の頬を手の甲で撫でた。さらりとしたその感触に、何故か僕は母親の顔を思い浮かべる。
 男はそんな僕に、とても優しげな瞳を向けた。
 感傷的な表情をしていたのか、無防備な子供のような表情をしていたのか。僕はいつもと違う顔をしてしまっていたのだろうと、男の視線にそれを悟り、恥しさから顔を背ける。
 照れ隠しに短い髪をかきあげ、広げられた重箱に視線を定め、僕は高鳴りかけた胸を落ち着かせる努力をする。何を、何を僕は照れてしまっているのか。馬鹿みたいだ。
 だが、おかしな態度を取ってしまった僕を男が笑うことはなく、ゆっくりと引いた手でテーブルのグラスをとった。それに口をつけたのだろう、短い沈黙を挟み、言葉を繋ぐ。
「…18か。今時その歳で家を出るのは珍しくはないんだろうが――よくやってきたな」
 声が出ないというハンディをもっているのに。男が隠したのだろう言葉を汲取り、僕はペンを握った。
【周りに、恵まれていたから】
 そう、僕とて自分一人の力でここまで歩いてきたのだと豪語する程、自らの力を過信しているわけでも自惚れているわけでもない。周りの人が居たからこそ、こうしてやってこられたのだと充分にわかっている。
 家を出た時は、正直、ひと月も持たないだろうと自分自身で思っていた。この世の中は、この社会は、そう優しくも甘くもないのだと知る程度には、僕は子供ではなかった。
 それなのに、こうしてあれから暮らしてこられたのは、こんな僕を理解してくれた人達のお陰だ。僕は幸運にも、手を貸してくれる者に出会えたのだ。
【僕の力じゃない】
 そう言った僕に、けれども男は軽く笑いながら首を横に振った。
「いや、それもまたお前の力なんだろう。頑張ってきたんだな、お前は」
 頑張ってきた…?
 男の言葉に、僕は眉を寄せる。
 果して僕は、頑張ってきたと言える程、頑張った事があったのだろうか。そんな自分の力を見た事は、感じた事はあるだろうか。
 多分、歩いてきた道の険しさで言うならば、この男の方が上だろう。僕は、歩きやすい道をただ歩いてきただけのように思える。頑張ってといえる程、何かに苦労をした覚えはない。
【そうだとは、思えない】
「そんな事はないさ。苦労もしただろう」
【わかりません】
「…謙虚からの発言じゃなく、天然で言っているのか?」
 何故か男はそう言い、喉を鳴らした。
「わからないと言っても、今ここにこうしてまともに暮らしているのが何よりもの証拠だと思うがな。ま、そんなところがお前らしいか」
 空になった自分のグラスに酒を注ぎ、男は僕のグラスにもその透明の液体を継ぎ足した。
 グラスを傾けながらも僕から視線を外さず、機嫌よく笑っている男が、僕にはいまいちわからない。何をそんなにはしゃいでいるのか、謎だ。
「7年前か。一度、その頃のお前を見てみたいな」
 それは無理だろう。タイムマシンでもない限り。
「その頃は今より可愛かったのか?」
 そんな事、自分でわかるわけがない。誰かに聞いてくれ。
「何だ、照れているのか?」
 違う、こんな事で照れるはずがないだろう。あなたの姿がいつもと違いすぎて呆れているのだ。――などと言っても、無意味のような気がする。
「黙るなよ」
 僕が喋れない事を、知らないとでもいうのか?
【随分とご機嫌ですね】
 呆れている事を隠さずに、僕は眉を寄せたままそう男に言葉を示す。
「ああ、当たり前だろう」
【何が?】
「お前とこうしていられるんだからな、楽しいさ。自慢じゃないが、ダラダラと過ごす事が出来る時間なんて、そう取れないからな」
 それは明日が休みだと考えると、まるで遠足前の子供のようにワクワクしてくる、楽しくなる、とそう言う意味だろうか。
 子供のよう。
 筑波直純の事をそう感じる事は度々あった。だが、実際には、この男の子供の頃を想像する事はあまり出来ない。何故か、想像がつかない。僕にとってはこの目の前の男だけが、筑波直純と言う人間だからだろうか。
 施設で育ったと言っていた。
 帰る場所も、そうだと思える場所もなくしたのだと言うこの男は、一体どんな風に生きてきたのか。
 僕の事を頑張って生きてきたという男は、どうやって生きてきたのだろう。
 想像出来ないそれは、けれども僕の心を占めていく。

「どうした? 保志」
 気付けば、僕は、じっと筑波直純を見つめていた。
 灰色の瞳が、どこか戸惑い気味に小さく揺れる。
 名前からはわからないが、この男は純粋な日本人ではないのだろうか。少し深い顔立ちもバランスの取れた体系も、整って入るが日本人離れをしているわけではない。だが、その瞳は、異国を思わせる。
 異国に興味はない。よその国に関心が持てる程、僕は自分の居場所を確定しているわけではない。僕は、僕の国で精一杯だ。他はいらない。
 けれど。
 僕はこの異国を見せる瞳を、かなり気にいっているのだと思う。
 僕の世界に入り込む異色さは、男そのもののように思える。

【僕のことばかりではなく、あなたの事も知りたい】
 僕は自ら記す文字を、まるで他人の物のように眺めた。聞いてもいい事なのかどうなのか決心がつかないまま書いた文字は、どこか嘘臭かった。
 だが、男は軽く笑っただけで、僕に先を促した。その姿に、質問はとても簡単な事だったのかもしれないと錯覚しそうになる。
 しかし…。
「何を聞きたい? 気になったのなら何でも聞けばいいんだ、保志」
 しかし、その声は、どこか覚悟を決めたような、僅かに硬さを含んだものだった。
 本当に訊いてもいいのだろうか。訊かれたくはないのに、僕の欲求を満たすためだけに言っているのでは。
 躊躇いが心を駆ける。だが…。
 それでも、僕は、男に問い掛けた。

 昼間の会話に出てきた、その意味を。

2003/06/18
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