僕の問いに、別の事を訊かれると思っていたのだろうか、筑波直純は少し意外そうな顔をし、小さく首を傾げた。
「知らなかったのか？　俺が孤児だってことを」
　あっさりとした返答に、僕の中にあった躊躇いが綺麗に消え、変わりに小さな苛立ちが生まれる。
　僕は他人の心を覗けるわけではないのだから、言われなければわからないと何度この男に言っただろうか。男が孤児院で育ったなど、僕が知っているわけがない。
　なのに、当然のようにそう思っている男は、学習能力というものがないのだろうか。僕なんかが簡単に聞いていいのだろうかと悩んでいてこれなのだから、腹が立っても仕方がないだろう。
　だが、男は詫びれた様子もなく、僕の眉間に皺を見つけ笑っている。
「何だそうなのか。てっきり知っているものだとばかり思っていた。別に隠していることではないから、誰かに聞いているかと…。――佐久間に、聞いていなかったのか？」
　ある事ない事ペラペラと喋る奴だからな。聞いているものとばかり思っていた。
　男はそう言い、「本当は聞いているんじゃないのか？　あいつが黙っているとは思えない」と、僕を疑ってきた。
　いい加減にして欲しい。もしかして、酔っているのか？
　当然の事で、苛立ちに顔を顰めた僕だが、「悪い、怒るな」とふと声を変え直ぐに謝罪した男に、顔から怒りを消す。僕が視線を伏せ溜息を落とすと、男もまた同じような息を落とした。
　今までの弾んだ空気が、一瞬で冷え固まったようだ。いや、ドロドロとした重いものに変わったかのよう。
　原因は、ここにはいないあの青年だが、今は僕と筑波直純のせいでしかない。
　そう。僕も男もこうなる事がわかっていたから、佐久間さんの話題をあえて出さなかっただけなのだろう。決して、男が僕の佐久間さんに対する言い分を受け入れたわけではないのだと、今更なのだが思い知らされる。
　多分、この男が佐久間さんを受け入れる事はないのだろう。それと同じように、僕も彼を嫌う事はないだろう。結局は、僕達は理解しあえはしないのだ。それに加え、筑波直純はこんな僕を納得もしていないのだろう。
　だが、だからと言って、話題に上げずにはいられない人間だ。ならば、佐久間さんの事を話す度、こんな気まずい空気を味わわねばならないのだろうか。
　僕はその重さに嫌気がさしながらも、会話に出てしまった以上は無視する事も出来ず、真実を述べる。多分、男にとっては本当の事などどうでもいいのかもしれないが。
【佐久間さんには、特に何も聞いていません】
　男と違い、僕は彼が勝手にペラペラと何でも話す人間だとはとても思えない。確かに話し上手で口の回る人だが、それ以上に佐久間さんは誠実な人間だというのが、僕がこの短い間に感じた事だ。隠し事はするが、とてもある事ない事実しやかに話す人ではない。
　僕の方が、きっと、彼よりも嘘つきなくらいだ。
【あなたがヤクザ嫌いだという事だけ聞きました。いや、あと、あなたの組が今忙しいらしいというのも。だが、それはあなた自身からも聞いたことだ】
「……そうか」
　筑波直純は僕が記した文字を読み取ると、その目を伏せて長い息を吐いた。
「…別に、佐久間だけのことじゃないな。俺の噂など、何処からでも入ってくるだろう。その殆どは中傷だが、慣れている。でもな…」
　男はそこで言葉を切り、グラスに残った酒を飲み干した。そして、ゆっくりと口を開いたその声は、少し緊張しているように僕には聞こえた。
「保志、お前は何も言わないし、何も聞かない。それは、どうしてだ？　…そう思うと、誰かから変な事を吹き込まれたんじゃないかと、俺は気になる。それなのに、その真実を確かめる事が出来ない。その勇気がもてない。
　そんな奴なんだ、俺は。ホント、馬鹿みたいだろう？　いや、情けないか」
　男の言葉に、僕は軽く眉を寄せ顔に疑問を表した。あまり、よくわからないのだが。
　そんな僕の視線に軽く笑い、男は片手で目元を覆いながら言った。
「…不安なんだよ、何もかもが。堪らないくらいに…。
　佐久間の言うとおり、俺はヤクザが嫌いだ。それなのに、縁が切れない。そんな自分が許せないのに、未だにこんな事をしている。多分この先も、俺はずっとこの仕事をするだろう。弱い人間だよ、俺はな」
　突然の告白、そして自虐的な発言に、僕は驚く事さえできなかった。
　筑波直純が不安になるなど、弱い人間など、全く想像出来ない。苦しんでいるその姿は本物であると思うのに、何故か結びつかない。僕が思い描いていた男は、確りとした大人で、それでいて優しくて。少し話が通じなくなる子供じみた所はあるが、出来た人間だといえる男だ。
　その男が、微かに声を震わせている。
　これが泣き上戸でないのなら、何だというのか。
　そんな冗談めかした言葉を心で吐くが、そうではないと何故かわかっているので、それも乾いた空しいだけのもの。
　嘘だろう。
　驚くよりも何よりも、ただ僕は戸惑った。
　そして、更に、筑波直純はそんな僕を惑わす。
「お前がこの関係に迷っているのは、わかっているんだ、本当は…。だが、手放したくはない。なのに、その傲慢さが自分自身で許せない。
　それだけじゃない。組がごたごたしているのは事実だ。その火の粉が飛んでこないとも限らない。正直、好きだ嫌いだなんてやっている状況じゃない。だが、お前を、自分から手放す事は出来ない。出来ないんだ…」
　顔を覆っていた手を離し僕を見た男に、あの雪の日に僕の前に立った男の姿が重なる。
　もしも…。
　もしも、今この場に誰かが居たのなら。…僕は迷わずに助けを求めたかもしれない。これを冗談に出来るのなら、僕は出せないはずの声を振り絞って笑っただろう。何を言っているんだと。
　だが、どちらも僕には与えられていないものだった。
　目の前の男を苦しませているのは、僕自身なのか…？
「馬鹿みたいだが、ヤクザの俺とは別に、お前を好きな俺がいるんだよ。でも、筑波直純は一人しかいない。それが、堪らない…」
　僕の胸が、キリリと痛んだ。
　あの時は気付かなかった、僕は自分の心ばかりを見ていた。だが、あの雪の日も、男はこんなにも苦しんでいたのかもしれない。あの日からずっと、男は不安を抱えていたのだろうか。
　僕も悩んだ。あれから、ずっと悩んでいる。だが、それは僕自身のことばかり。
　男は、そうではない。筑波直純は、僕の事を考えていた…？
「保志。何故、俺を受け入れた？　迷っているんだろう？　なのに、何故逃げない？　俺の事は何も知らないのに、怖くないのか？　不安にならないのか？」
　俺は、不安だ。お前の事を知らなさ過ぎる。
　お前が俺の傍に居る理由は何だ？
　保志、と僕の名を呟くその声は、とても痛いものだった。
　真っ直ぐと僕を見る灰色の目は、まるで捨てられた仔犬のように揺れていた。

　理由など要るのだろうか。
　ふと浮かんだ疑問を、そのままその瞳に投げかける。
　傍に居るのに、明確な理由が欲しいのか？
　もしそうであるのなら、それを自分で見出せない僕は、あなたの傍にいてはいけないと言う事なのか？

　酒のせいばかりではないだろう。赤い目元をした男を愛しいと思った。
　先日のように唐突に沸き起こった欲情とは違う、静かな熱が僕の心に溜まっていく。
　今はただ、この男を抱きしめやりたいと、そう思う。
　こんな一瞬の想いは意味がないのだろうか。理由にはならないのだろうか。
　だが、それでも…。

　それでも。
　僕は今、この男の傍にいたいと思う。

　伸ばした僕の手は、何故だろうか、微かに震えていた。
　その指の上で、細い指輪がきらりと眩しく光った。