# 76
筑波直純。
僕が一度で覚えたこの名前は、養護施設の職員によって適当につけられた名前なのだと、男は大したことではないように軽く笑いながら言った。そうして名前を与えられたこの男は、生まれて間もない頃、隣が教会のその施設に置き去りにされていたらしい。
「まだ臍の緒も取れていない頃の事だ。親なんて全くわからない。でも、それはそれで良かったのかもしれないな。中途半端に育てられていないから、親を恋しがる事はなかった」
物心ついてから施設に入る子供の方が哀れだと、男は目を細めた。多分それは半分は真実で、半分は嘘なのだろう。今はどうなのかはわからないが、子供が親の事を考えないはずがない。この男も、昔は小さな子供だったのだ。
そう思うと、僕の心をやるせない痛みが襲う。同情など男にとっては鬱陶しいものだろう。だが、痛む心を止められない。
絡めた指に力を込めると、男は微かに喉を鳴らしながらも、同じように僕の手を握り返してきた。
男は無意識のように、僕の指にはまる指輪を撫でる。
「クロとは同じ年だったから、一番仲が良かった。あいつも同じく、生まれて数週間で親に捨てられた。ずっと一緒にいたよ。ホント、何をする時でもな。
施設が経営難で閉められたのは俺が15の時だ。俺達は別々の施設に移った。それから丸8年、あいつとは連絡が途絶えた。俺が新しい施設に馴染めず、中学卒業と同時にそこを出てやっと落ち着いた時にはもう、あいつも施設にはいなかった。何故黙っていなくなったのかと苛立った時もあったが、再会してみればただタイミングが悪かっただけのことだとわかり、互いに馬鹿だと笑いあった。
教会で育って何なんだが、俺は神を信じてはいない。だが、それでもあいつと再会出来た事に関しては、感謝している。それこそ、何処のどんな神にだろうと礼を言うさ」
今はそうでもないが、昔は周りとの関係を拒絶していた。俺以外とは全く喋らない時期もあった。
そうあの男の事を話した筑波直純は、「あいつは俺と違って、本当に苦労しているよ」とその痛みがわかるように顔を暗くし、口を閉ざした。言葉には出来ないものもあるのだろう。
僕はその表情に目を閉じる。
男がこうして僕に話をするのは、胸の内を誰かに伝えひと時でも楽になりたいからだとか、喋らない僕がその相手には好都合なのだとか、そう言うことではないのだろう。
だが、そんな計算をしてくれていた方が、聞く方としては楽だ。逃げ出したいだとか、男が話すのを止めたいわけではないが、僕には少し重く感じるものだ。
男の生立ちや、育ってきた環境は、決して聞き易いものではない。
それは男自身わかっているのだろう。
僕の髪に男の手が触れ、まるで子供を慰めるように、数度頭を撫でた。
「名字の『四谷』は捨てられていた駅からとった。『クロウ』はあいつを捨てた親がつけたのだろう、持たされていた十字架に掘られていた名前だ。だからこう言う時は名前で呼ぶんだが、日本語としてはどうかと思う音だからな、クロなんだ。お前もそう呼べばいい」
呼ぶ事なんてないだろう。瞼をあけ、俯いたまま男の脚と僕の脚の間に置く握り合った手を眺めながら、僕はそう心の中で言う。
そんな僕に、男は言った。
「いいか、保志、覚えておけよ。何かあった時は、あいつを頼れ」
僕の髪を梳く優しい手付きとは違い、力強い声でそう言った。
「俺の知り合いで何があっても信用出来るというのは、残念ながらクロだけしかいない。確かにとっつき難い奴だが、お前をどうにかしようとは考えない。絶対に。それに、あんな事をしているが力は持っているからな、助けになるはずだ」
信用していいのは、あいつだけだ。
男はそう言い、念を押すように握り合わせた手に力を込めた。
信用出来るのはあの綺麗な男だけしかいないと言うが、そんな相手が一人でも要るこの男は恵まれているのではないだろうか。ふと、妬みではないが、そんな事を思う。
僕にはそんな人間はいないし、誰かのそんな人間になれもしないだろう。男との人間としての大きさの違いを、何だか見せ付けられたような気分がした。
自分がとてもつまらない人間に思えた。
「…面白くないよな」
嫌になるだろう、こんな話は。
その声に顔を上げると、男がじっと僕を見つめていた。
灰色の瞳。
何処の国の血を引いているのか、男自身何も知らないらしい。生まれた時からこの街にいるのに、純粋な日本人だと言い切れないそれは、自分にとっては烙印みたいなものだったと男は言った。子供の頃は嫌いだったのだと。受け入れるまで長い時間がかかったと、男は笑って言った。
その目に手を伸ばすと、男は僕の手を取り、掌にキスをした。だが、視線は僕の目を捕えたままだ。
「もう少し、話してもいいか?」
僕が頷くと、今度はあの日から僕の指にはまったままの指輪にキスを落とした。
「自分で言うのもなんだが、俺は真面目なガキだった。悪い事を全くした事はないとは言わないが、悪ガキレベルのものだ。そんな子供は大人には扱い易かったのかもしれない。
新聞社の奨学金を受けながら、俺は高校に通い大学に入った。奨学生には新聞配達の仕事があったんだが、慣れれば簡単なものだ。充分な給料も出るし、寮もある。それに学費免除も受けられたから、正直、学校に通うのは楽なものだったよ。幸いにも、勉強も出来る方だったしな」
金を使って遊ぶ事を知らないから、暇なら勉強するくらいしか思いつかなかったんだ。頭が良かったわけじゃないと男は笑い、「だが、そうして入った大学も、結局中退だ」と肩を竦めた。
そして、僕を真っ直ぐと見たまま、言葉を繋ぐ。
「理由は簡単だ。女に惚れた、それだけだ」
まるで僕の反応を見逃さないように、じっと僕を見つめる男の目は、少し知らない者のように思えた。
「どんな事をしてでも守ってやろうと、一生傍にいようと、本気で惚れていた。餓鬼だったが、今でもあの想いは確かなものだと言える。何よりも、彼女が大切だった」
思いがけない告白は、けれども熱ければ熱いほど悲しいものだった。
今、その女性がこの男の傍にいないのは明白な事だから。
思わず顔を顰めた僕に、男は軽い笑いを落とした。
「俺がヤクザを嫌いなのは、育った施設の借金の取り立てに来たのが、柄の悪い頭の軽い奴らだったからだ。絵に描いたような典型的なヤクザだ、嫌悪するには充分な人間だった。だが、人生なんて皮肉なものだ。
惚れた女の兄がヤクザだった。年の離れた兄妹で、おまけに彼女は心臓が弱かった。兄貴としては、何処の馬の骨ともわからない男を妹の恋人と認めるわけにはいかなかったのだろう。彼は俺にヤクザになれば認めてやると言い出した。どんな世界かも知らない青二才に毛嫌いされているのに苛立ったのだろう。自分がいる世界で試して見極めようとも思ったのかもしれない。そして、俺も若かったから、その約束を覚えていろよと息巻いてな、乗せられるように足を踏み入れた。単純だったんだよ、我ながら呆れるが。
本当、何も知らないガキだったからな、入った頃はもうボロボロに扱われたさ。だけど不思議な事に、その空気に馴染んでいく自分を感じた。
そして気付けば抜けられなくなっていた。惚れた女は死んでしまい、約束なんて消えてしまったというのにな…」
普段とは違い饒舌な男は、全てを出し尽くして一体どうするつもりなのだろうかと、僕は不安を覚える。取るに足らない事ではないだろう、これは。真剣に話す男の表情は、言葉以上に重いものだ。
自分の事をこうして晒し、僕にも同じ事をするように求めているのだろうか。
もしそうだとしたら、僕はどうすればいいのだろう。
「彼女は、俺がヤクザになるのを最後まで認めなかった。本気で反対していたのは彼女だと言うのに、俺はその気持ちを軽んじていた。あいつは、ヤクザのイザコザに巻き込まれて死んだ。死因は心臓発作だがな、俺が殺したようなもんだ……」
俺がするべき事は、兄に認めてもらうことではなかった。彼女の傍にいて守ってやる事だった。
そんな簡単な事に気付かなかった馬鹿な奴なんだ、と男は自嘲気味に笑い、視線を落とした。
哀しい。哀しすぎる、と僕はその思いに眉を寄せる。目に力を入れなければ、涙が溢れそうだった。
極一般的な家庭に生まれ、苦労ひとつなく育ち、親に守られて生きてきた僕には、親に捨てられた孤児の気持ちなどどう頑張ったところでわかりはしないだろう。
大切なものを見つけ、幼いが故に空回りし、守りきれなかったその悔恨は、常に流されるままただ生きてきた僕には計り知れないものだ。
だがそれでも、こんなにも胸が痛むのは何故なのだろう。
「俺は、同じ過ちを犯そうとしているのかもしれない。今のところはまだ本家が動いているだけだが、多分やりあうことになったら俺達も動くだろう。俺は、自分にどんな結果が待っていようとも、何処へだろうと行く。それが今、俺が生きている世界だ。退くつもりはない。
保志。――一度だけ、チャンスをやる」
男はそう言い、握っていた僕の手をゆっくりと離した。そして、言葉を紡ぐ。
「今なら、追いかけはしない。こんな俺に付き合えないと少しでも思うのなら、…もう俺は二度とお前の前に顔を出さないと誓う。心配せず、去ればいい。
どうするのか、お前が選べ。保志」
お前が思う道を選べばいいんだ、と男は僕を見た。僕はそれに応え、考えるように視線を下げる。ソファの上に置き去りにされた僕の手で、指輪が小さく光っていた。
温もりを失った手が、新たな温もりを求めていた。
今ここで、この状況でそう問いかけるのは、選択をさせるのは、少し卑怯ではないだろうか。
僕はそうシニカルな笑いを落とし、男の頬にそっと手を伸ばす。
卑怯なのは、お互い様なのかもしれない。
人間そう捨てたものじゃない。人と人との関わりも、思う以上に深いものだ。
そう言うのなら、それが真実だと、僕に教えて欲しい。
僕達の関係にも意味があるのだと教えて欲しいと、僕は自分にも通用しそうにないそんな言い訳を用意する。
今のこの胸の痛みは本物であり、この男ならこれを癒してくれるのではないだろうかと僕は思った。
自分の事を、考えた。
2003/07/04