# 77
僕は流されやすいのだろうか?
…そんな事は、ないと思う。
自分の思考回路がそれ程までに単純だとは思わないし、他人に同情し自らを犠牲にする馬鹿げた精神も持ってはいないつもりだ。
ならば…。
それならば、実際にそうかもしれないと思えるような事態になっている今は、何だというのだろう。どうしたのだというのか、僕は…。
決してこの男を拒絶しているわけではない。
可哀相だと哀れに思い、一時の慰めを与えたいわけでもない。
そう。
僕は、今この瞬間はこの男を受け入れている、それが真実。
「保志…」
掠れた声で呼ばれる名前が、何故か心に落ちるのも。
熱に潤んだ灰色の瞳が、好きだと思うのも。
手を伸ばせば抱きしめられる位置に、男のその身体がある事を嬉しいと思うのも。
全てが、僕にとっては真実なのだ。
この思いが、純粋に僕の中から沸きあがっただけのものなのか、男に絆されてしまったからなのか。今は、わからない。いや、まだ、わかりそうにもない。
だが、考えるのは後でもいいと、僕は空を掴むように手を伸ばす。今求めるのは、この答えではなく、別のものだ。
また、後悔するかもしれない。
馬鹿な事をしたと、思うのかもしれない。
結局は雰囲気に流されたのだと、自分を詰るはめになるのかもしれない。
だけど…。
伸ばした腕に男の手が触れる。
まるで正しい場所へと導くように、僕の手は男によって、男の肩に乗せられた。身体が全てを知っているように、そのまま男の首に腕を回し、僕はその身体を引き寄せる。
「…辛いか?」
耳に囁かれた言葉は、確かに僕を心配していた。
筑波直純は、今、僕の事を考えている。
ならば僕も、この男の事を考えよう。
実際にはもう思考は上手く働いていないのだが、それでも、自分の事を考える代わりに、筑波直純の事を考えようと僕は思う。
今、この男は僕を抱きたいと思っている。僕はそれだけをわかっていればいいのだ、きっと。
男の肩に埋めた顔を上げ、視線を交わして頭を振る。大丈夫だと。
「そうか、良かったよ。駄目だと言われても、止められそうにない」
余裕を見せるようにそんな軽口を叩きながら笑った男だが、「――悪い、指、増やすぞ」と直ぐに眉を寄せ、真面目な表情を作った。そんな姿がおかしくて、僕は思わず笑う。
「余裕だな」
どこか悔しそうに男はそう言った。だが、僕にはそんなものは何処にもない。先の言葉を実行してきた男に、僕は羞恥を覚え瞼を閉ざす。
だが、男の顔は僕の視界からは消えたが、その視線は消えはしない。下肢の痛みと、眩暈がしそうなほどの恥ずかしさに、僕は体を強張らせた。
「保志…、大丈夫だ」
だから、力を抜け。
耳に届くその声は、言葉以上の力を持って、僕を虜にした。男の甘い息が僕の身体に染こみ、強張りを溶かしていく。
体を滑る指も唇も、全身で感じる男の肌の温もりも、全てが僕を宥めるかのように優しい。
男によって与えられる熱は、ひとつひとつ確実に、僕の中から色んなものを消していく。
あれほど考えた迷いも、悩みも。
最後まで残った、男自身の事も。
全てが消え、頭にはただ白い闇が広がるばかり。
どこか遠くで聞こえていた僕の荒い息が、まるで時を止められたかのように一瞬消える。
ほんの一瞬、全てが消える。
そして。
初めて呼吸をしたように、吸い込んだ空気が喉を焼きつかせるほど熱いように感じる時が来る。僕の胸から押し出される息もまた、重く熱い。まるでマグマのように、粘ついているような気までする。
っこ、と喉仏が上下し、奇妙な音を身体に響かせる。熱により、喉がオーバーヒートをしたようだ。
上手く息が吸えないと僕は焦りを覚える。
全身から冷や汗が沸き立つ。
「保志…」
そんな状態でも、確かに僕に届く声。
薄く目をあけると、筑波直純がいた。だが、その顔は滲んでいた。
「…っ!」
男を見て安心したのか、息の仕方を忘れた脳に変わり身体が勝手に動いたのか、漸く僕は大きく息を吸い込む。何度も何度も肩を揺らしながら。
そんな僕の背を、肩を胸を、男はゆっくりと大きな手で撫でた。そして、僕の目に溢れる涙を拭う。
「――大丈夫か…?」
生理的に浮かぶ涙は、男の手が離れると、また僕の視界を覆う。世界を、ぼやけさせる。
「済まない」
辛いだろう、と男が何度も僕の目元を指で拭う。唇を落として舐めとる。
僕はその仕草に、とてつもなく男を愛しく思った。
たったこの一瞬だけだとしても、今は永遠と何ら変わりはしないだろう。この気持ちは、偽りではないのだから。
男が弱い耳を指で弄り、僕の肩に埋めていた顔をあげたところで、戯れのキスを仕掛ける。直ぐにそれは、深いものへと変わった。男の身体を滑る僕の指が、単純に喜んでいる。見つめ合った目は、お互いの姿しか映していない。
腰を動かし始めた男のその動きを、ただ僕は味わう。
僕が与えられるもの全てを、この男に与えてみたいと、その身体に腕を、脚を伸ばす。
何も考えられないではなく、何も考えたくない時が僕を包み込む。
力強い律動も、僕の体を揺さぶるその熱も、暴れ狂うその衝動も。何もかもを手放し、ただ、この世の全ての真実を見られる境地に立たされたような、言い知れぬ興奮と絶望を味わう。
僕という小さな器だけでは知り得ない、欲望の向こうにあるこの世界は、まるであの世のようだ。これから僕は死ぬのか、それとも生まれるのか、何もわからないのに心は酷く落ち着いている、不思議な世界だ。
身体の奥底から歓喜の声を上げたかのように、僕の内部で音が共鳴し、激しく体を振るわせる。
だが、直ぐに僕は、その高みから放り出されてしまうのだ。
一瞬だが確かに得た全てのものを失い、絶頂から奈落の底へと転落していくそのスピードに頭がついて行けずにスパークする。弾けた世界が闇なのか光なのかわからないほど、爆発は大きく、そしてほんの一瞬の出来事だ。
そうして、僕は僕に戻る。
目に映るのは、僕が確かにいる世界。
揺れる視界に眉を寄せた男の顔を捉え、僕は出るはずのない声を口に乗せる。
あなたは今、僕が見てきたものを見ているのだろうか…?
僕は、この時初めて、筑波直純という男を見たのかもしれない。
僕の中で熱を吐き出したその瞬間は、男はただの男でしかなかった。
2003/07/04