# 78
チャプリ、と音を立てた水が、バスタブの中に模様を描いた。
僕はそれが消えていくのを眺めながら、考える。
一度ならば、流されたといえるだろう。だが、二度目はないと思う。同じ事を再びしたならば、それは自分が望んだ事なのだろう。特にこの場合は。
筑波直純は僕を強制したわけではないのだから。
僕は彼の傍にいる事を望んだ。その後の展開も、何も知らない少女ではないのだ、わかっていた。だが、避けなかった。確かに、セックスを強く望んでいたわけではないが、結局は受け入れたのと同じだ。
流されただとか、ほだされただとか。そんなのは馬鹿な言い訳でしかない、逃げようとしているだけでしかない。
自分が選んだ場所に今はまだ自信がもてないのは確かだが、卑怯な者にはなりたくない。だから。
腹を括れよ、と僕は僕を叱咤する。
自分が恋愛をするのだという実感が沸かないのも、それが男同士だというのに複雑な思いを抱くのも、男が僕を好きだというのを信じがたいのも。全てがただ僕の問題であり、彼の問題ではない。筑波直純は、充分に誠意を見せ、僕に接している。そう、充分すぎるほどに。
いい加減どうにかしなければならないのだと、よくわかっている。だが、わかっているからこそ、悩むのだ。
しかし、それも終わりにしなければならない。
このまま誠意を見せる男に対して不実なまま付き合うのか、好きだというその事だけを考えて溺れてみるのか、やはり駄目だと断るのか。
バスタブの中の異様に白い、ぼやける自分の脚を視界に入れながら、僕は考える。
だが、やはり答えは出ない。
心は、こんな風に作り出すものではなく、自然と生まれてくるものだという事か。やはり、僕はそれを待つしかないのだろうか。しかし、それがいつ生まれるのか、全くわからないのだ。迷っている間も、時は止まる事はない。
これまで散々時間を費やした僕にはもう、迷い続ける時は当てられていないように感じ、そうして焦りが生まれる。考えれば考えるほど、悪循環にしかならないようだ。
難しいものだと、僕は匙を投げ出しそうになる。だが、それではこれまでと同じになってしまう。
どうすれば、いいのだろう。
迷っている間は、普通どうするものなのか。迷いが消えないようならば、どうするべきなのか。
残念ながら、僕にはそれがわからない。簡単な道を選んできた罰のように、今ここに来てそれが大きく圧し掛かってくる。
ふと、自分と同じわけではないが、想いに苦しんでいた友人を思い出す。
僕と違い、彼は全てを悟っていたように思う。
あの頃の僕は恋愛に関心はないただの子供だったというのに、同じようにまだ少年の彼は、けれども自分の命をかけるほどにあの男の事を思っていた。
――気味が悪いか? 俺を、軽蔑するか?
兄と自分の関係を告白した後、彼は僕にそう訊いた。
強がり、卑しげに口元を歪め鼻で笑った友人の瞳は、けれども、不安げに揺れていた。とても、苦しそうに。
僕は、確かその時、関係がないと言葉を返した。自分達の間に、そんな事は関係がないと。
実際、僕はああして彼とひと時を共にするだけで満足だった。彼が兄にどんな思いを抱いていようと、僕がそれに関与する事ではなく、そうとしか言えないというものだ。男兄弟の体の関係に驚かないわけではなかったが、はっきり言って僕の世界にはないものだった。別世界の事だった。
僕の答えに、「お前らしいよ」と友人はただ笑った。
そして。
――俺もあいつも、そう思えたらいいのに。
全てに、何もかもに、迷わされてばかりだ。
寂しげに笑いながら、ぽつりと落とされた言葉は、真実だったのだろう。だが、次の瞬間には、腹が減ったと嘆く友人の姿に、僕は気付かない振りをした。
関係がないと言った言葉通りに、僕は彼の闇を見ない振りをした。
何よりもあの友人が必要とした男は、けれどもあまりにも弱かった。
彼を守ろうとした友人は、自分の身さえも躊躇わずに差し出した。
それで得られたものは、何だったのだろう。本当に望んだものを、友人は手に入れられたのだろうか。
「おい、寝るなよ。溺れるぞ」
不意に響いた声に顔を上げると、筑波直純が脱衣所から顔を覗かせていた。
「返事をしないかったからな、悪い。邪魔をした」
着替えは用意したから、ゆっくり浸かれと言い、男は扉を閉めた。直ぐに脱衣所からも出て行く音がする。
体を重ねた後だというのに、きちんと線を引くのは僕のためなのだろうか。自分も汗を流したいだろうに、風呂に割り込みもしない男に僕は笑いを落とす。律儀な男だ。
だが、笑う心以上に、僕の胸は言い表せない複雑な思いを広げていく。
馴れ合いたい訳ではないが、おかしく思う。この方が僕としてもありがたいが、気を使わせている感が否めない。それとも、体を重ねる事はやはり、ひとつの言葉と変わらない程度のものなのだろうか。言葉が空気の溶けるように、交わした想いもあっさりと時に解けるものなのだろうか。
本当に難しいものだと、僕は注意されたばかりだというのに、バスタブの縁に頭を下ろし目を閉じた。
友人のように、彼が兄を欲したように、僕はあの男を必要とはしていない。そんな激しい思いはない。だが、この関係が全て終わるのだと思うと、焦燥感が沸く。手放したくないと、男が僕に言ったような思いと同じではないが、確かにそう思う。
傍にいる事が出来るのなら、そうしたい。男が僕を求めるのなら、そうしてもいいのではないか。そうさせて欲しい。
本音を言えば、僕の想いはそんな我が儘でしかない。
そう。サックスと何ら変わらないのかもしれない。
好きだし必要としているが、それがなくなった時自分が失うものは確かに他にもあるだろうが、全てを犠牲にしてまで取り返したいと思うものではない。そんな感じだろうか。
大切だと思うし、何にも変えがたいとも思う。だが、悲しくても辛くても、耐えがたい思いにかられたとしても、僕は結局はその現実を受け入れるだろう。
そう、声を失いそれに慣れたように。
友人を失ったことを受け入れたように。
僕の思いはそんなものだ。
筑波直純のような強い思いが人として当然の事なのかもしれないが、僕のような物分りのよさは人間として間違っているとも思えない。正しい答えなどないはずだ。
思いでも、物でも。
永遠に持ち続ける物などありはしない。
僕がこの考えを手放さない限り、男と同じ思いを持つことはないだろう。
だが、そもそも、男と同じ思いをもつ必要などあるのだろうか。
想われているように思えないし、必要とされるほど、僕は必要としていない。そんな違いは、確かに居心地が悪く、考えてしまうけれど。
僕は僕なりに筑波直純を想っているのは紛れもない真実なのだと、僕はひとつ僕の心に言い聞かせた。
この思いはこれからどうなるのか不安だけれど、それはその時に考えればいい。
今わかるのは。
一方的なものでも、他人任せのものでもなく。僕も自らの意思で男に熱を与えたということだ。
それを意識した途端、熱い湯の中にいるというのに、なぜか僕の体は小刻みに震えた。
まるで、手に入れてはならないものを手にしてしまったかのように。
2003/07/09