# 80

 年明け最初の仕事は、僕にとっては珍しく幾つものミスをした。それは、問題になるほど大きなものではなかったが、周りに迷惑をかけるものであった。
 それでも休みボケかと言う一言で笑って許してくれる同僚達に、感謝よりも複雑な気分に僕はなった。生温いという訳ではないが、急にこの馴れ合った空気に嫌気がさした。
 そんな気分だからこそ、余計に失敗を重ねたのだろう。自分自身でもわかるほどに、サックスの方もさっぱりだった。
 その理由は、ひとつしか思いつかない。
 僕は自分が思う以上に不安定であるようだ。心が騒いだり、妙に冷めたり、ちぐはぐな動きをしている。そんな自身に呆れ、更に心は腐っていく。
 そう、まさに腐敗していっているようだ。
 たまったガスが突然爆発するように、僕の心もそれに反応する。体の中が悪臭で満ちているようであり、燃えているようであり、自分自身で気味悪く思う。

 そんな最悪な一日を終えた僕の前に佐久間さんが現れたのは、店が閉店した時だった。先に上がれよと気を使ってくれた同僚により、予定の時間よりも少し早く仕事を切り上げ外に出た僕に、彼は声を掛けてきた。
「保志くん、今晩は。
 開いていたら寄ろうと思ったんだけど、遅かったみたいだね」
 残念だと言いながら腕時計を見た佐久間さんに、僕は軽く肩を竦めて応えた。正直、佐久間さんの出現に、ほっとした。心が少し軽くなる。
 実際にはそうでもないのだが、佐久間さんに会うのはとても久し振りな気がするとその姿を眺める僕に、彼は首を傾げて聞いてきた。
「どうかしたの? 元気がないようだけど」
 その言葉に、僕は思わず笑いを落とす。
 確かに腐ってはいるが、普段も元気だと表現されるほどはしゃいでいる訳ではないと思うのだが。一体どんな顔をしているのだろうか、僕は。佐久間さんだからこそ気付いたのか、それ程までに疲労を浮かべているのか考えかけ、無意味だろうと僕はそれを放棄することにした。
 そう、どちらでもいい事だ。
「休み明けで疲れたのかな。遅くまで、お疲れ様。でも、いいね。僕は元旦が休みだっただけだよ。これから取れるけど、まとめては無理なんだよね」
 独身だから仕方がないんだけどさ、ちょっと理不尽だと感じてしまうね。
 医者なんてなるものじゃないよ、と佐久間さんは肩を竦めて言いながら、僕を促し歩き出そうとした。だが、その時。
「あれ、保志さん。どうかしましたか?」
 先程まで聞いていた声が、僕に向かって降って来た。小林だった。
 店の入口から出てきた彼は階段を昇りきったところで佐久間さんに気付き、軽く頭を下げて挨拶をする。
「今晩は、佐久間さん。今お帰りですか? お疲れ様です」
「君もね、お疲れ様」
 二人の声を訊きながら、コートのポケットから携帯を取り出し時刻を確認すると、小林が仕事を終えて直ぐに出てきた事がわかった。姿をよく見ると、仕事着の上にトレーナーとコートを重ねただけの格好だ。着替える間を惜しんでということではなく、単に面倒なだけなのだろう。
 寄るつもりだったのだが、今夜は運がなかったようだと苦笑する佐久間さんに、また来てくださいよと小林は商売をする。
「是非そうさせてもらうよ。とりあえず、今夜は浮気をさせてもらうけどね」
 まだ開いている店もあるだろうし、一杯引っ掛けて帰らないと疲れが取れないよ。
 誰からともなく歩き出し、夜風に首を竦めながらそう言う佐久間さんに、小林と二人で笑いを落とす。
 店がある通りはもうすっかり静かになっていたが、通り一本を隔てたところはまだまだ賑わっている。そちらに足を向けながら、佐久間さんは僕達を誘ってきた。
「どうだい、仕事の後に一杯。良かったら付き合わないか?」
「いいんですか?」
 小林が嬉しそうに聞き返し、「でも、保志さんは疲れているんですよね」と僕を窺うように見る。自分自身が未成年である事は考慮にならないらしい。
「勿論無理にとは言わないよ。どうする? 行くかい?」
 その言葉に僕が頷くと、佐久間さんはとても優しい笑みを浮かべた。



「気になっていたんですが、その指輪。保志さん、結婚するんですか?」
 小林が僕にそう訊いたのは、三人全員が二杯目のグラスを傾けている時だった。早くも酔ったのだろうか、小林はほんのりと顔を染めている。今の時代未成年の飲酒など当たり前なのだろうが、それにしても弱すぎる。
 小林のニヤリとした笑いにそんな事を思っていた僕は、反応を返すのが遅れてしまい、僕より先に佐久間さんが苦笑を落とした。
「直球だね、小林くん」
「だって、気になっていたんで、つい。保志さんは何も言わないし、他の皆は訊かないし。…もしかして、まずかった?」
 上目遣いに僕にそう伺う少年に、僕は肩を竦める。そう考えるのであれば、訊かなければいいのに。
 それにしても…。まさか、気にされているとは思っていなかった。
 僕は少し驚き、それを誤魔化すようにゆっくりとグラスに口をつけた。答えを促すように僕を見る小林に、ほんの少し口元を上げる。
 確かに、ファッションなどでこの手のものをつける習慣は僕にはない。だが、今時男の指輪など珍しくないと思っていたので、周りの反応など気にかけていなかった。いや、その余裕がなかったのだろうか。
「っで、どうなんですか?」
 焦れたのかそう口に出して再び問う小林に負け、僕は携帯を取り出し文字を打ち込んだ。
 僕が指輪をはめているのを見て結婚にまで話が飛ぶとは、なんだかおかしくて仕方がない。デザイン的にもそう思えるものであるのだろうが、この僕がまさかというものだ。結婚に発想がいったのは小林だけであろうと、僕は憶測する。他の同僚達は、僕にそんな甲斐性がないのを良く知っている事だろう。
【その予定はない。ただつけているだけだ】
 僕の答えに「なんだ、そうなんですか」と、小林は何故か少し残念そうに返事をした。面白い話題にはならなかったのが気に入らないのか。そんな少年に、僕は再び肩を竦める。
 そんな僕達を、佐久間さんは笑って見ていた。
 だが。


 別れ際、佐久間さんは、僕にこう言ってきた。

「小さなものでも、それはとても重いものだからね。縛られないように気をつけた方がいいよ」
 君には君のままでいて欲しい。

 この言葉が何を意味するのか。
 遠ざかっていく背中に問い掛ける事は、僕には出来なかった。

 一瞬見えた佐久間さんの表情が、とても辛そうなものだったから。
 だから僕は、その真意を確かめる事をしなかった。

2003/07/16
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