# 81

――縛られないように気をつけた方がいいよ。

 そう言った佐久間さんの言葉が、僕の頭をグルグルと回る。
 夕方の学生の姿が目立つ電車の人いきれの中、僕はドアに凭れ暮れ始めた街を眺めた。だが、意識は指先で触れる固い金属の輪に向かう。
 佐久間さんはこの指輪が何なのか、誰から貰った物で、どう言う意味ではめられているのか察しているのだろう。だからこそ、あんな事を言ったのだろう。
 だが、それだけだとも僕には思えない。
 確かに、僕も彼と同じように、この小さなリングをとても重いものだと感じた。筑波直純という男を考えれば尚更の事で、多分佐久間さんはそれもわかっているのだろう。この指輪にどれだけの思いが込められているのかを。
 しかし、僕が感じたような筑波直純の思いだけを彼が指しているようには思えない。
――君には君のままでいて欲しい。
 そう言った彼は、一体何を危惧しているのだろうか。
 僕が筑波直純の思いを受け取る事に対してのものではなく、佐久間さんが言った言葉は、何故か僕自身だけにむけられたような気がする。僕の心がけで全てが変わるというように、自分をそれで縛るなと言っているような、そんな感じがする。
 そう、この指輪を言い訳にするなと、僕に警告をしたような…。
 だが、そう思う反面、僕の事など見てはいないようにも思うのだ。あの言葉は、単なる言葉でしかないようにも感じる。誰に向けて言ったものかはわからないが、少なくとも僕ではないような…。
 要するに、謎めいた言葉に答え見つける事など出来ずに、ただまんまと策略にはまるように頭を悩ますだけにしか過ぎないのだ、僕は。
 わからないと溜息を吐く僕の耳に、車内放送が間もなく駅に着く事を伝えた。妙に鼻にかかった車掌の声を訊きながら、体をドアから起こす。
 佐久間さんが僕よりも筑波直純に興味があるのは明白だ。だからこその言葉なのだと、今は思うしかない。思いつくままのいい加減な予想など、役には立たないと僕は考える事を一先ず終わりにする。

 減速しホームに滑り込んだ車内で、僕は目の前の扉が開くのを待った。触れていた指輪から手を外し、携帯を求めてコートのポケットに入れた時、ガシャンと音を響かせながら扉が開く。
「そのまま、大人しく進め」
 ドアの音に溶け込む程の声だったが、けれども僕の耳の側で発せられたそれは良く聞こえた。驚くよりも早く、待ち構えていた身体が動き、ホームへと足を下ろす。足の動きを止められたのは、三歩目を踏み出した時だった。
「止まるな」
 ホームの喧騒に負けることなく僕の耳に届くそれは、囁きであったが確りとした声であった。見知らぬ者が僕の背後にいる気配にただ単純に振り向きかけたが、電車から吐き出される者達の動きに飲まれ、背後の男が望むように僕はまた数歩前に進んだ。
 不意にコートのポケットに入れたままの腕を掴まれ、僕は背後から横に並んできた人物を確認する。
 この場合当たり前というのだろうが、知らない男だった。
 年の頃は、30半ばから40前半と言ったところで、黒縁眼鏡をかけたその顔は在り来たりで特徴も何もない顔だ。一見、何処にでもいるサラリーマンと言った感じだが、けれども内から一般人とは何かが違う雰囲気を醸し出していた。180は軽く越えているだろう長身がそう見せるのだろうか、細身だが威圧感は充分にある。
 僕を見下ろした男は無言で顎をしゃくり、そのまま進めと命令を下した。掴まれた腕に少し力を加えられ、僕は思わず顔を顰める。そう強い力ではないのだろうに、ピリリと走った電気は右腕を痺れさせた。
 その感覚に、漸く僕は突然降ってきたおかしな事態を認識した。一体これは何だと驚き、辺りを見回す。しかし、それを教えてくれる人物は誰もいなかった。沢山の人が構内に溢れてはいるが、僕を気に掛けてくれる人物はいない。
「抵抗しても無駄だ。他にもいるからな」
 再び男が口を開いた。先程からのものも自分に向けられていたのだと自覚する。僕にだけ聞こえるように前を見たまま言葉を発した男は、人の波に続くよう僕を促した。
 だが、それに従うわけにはいかない。
 それだけが、今の僕にわかる事だった。
 単純に、隣に立つ男に恐怖が沸き、逃げなければと僕は焦った。
 気付いた時のはもう、僕は行動に移っていた。左手で男の手に爪を立て引き剥がし、身を翻す。だが、男は素早く僕の腕を掴み直した。何も考えずに腕を大きく振る。無意識に握っていた携帯が男の顔に勢い良く当たった。小さな呻き声が聞こえた気がしたが、僕には気にしている余裕はなく、男から夢中で身を離す。
 男に当たった勢いで地面へと落ちた携帯を、逃げようと走り出す自らの足で蹴ってしまい、そこにあることに気付いた。拾う余裕は無いと頭では直ぐに判断したが、僕は気付けば身を屈め、人々の間に滑った携帯に手を伸ばしていた。
 声が出ない僕にとっては、携帯はなくてはならないものだった。
 伸ばした手が小さな携帯に触れた途端、僕の右手には痛みが走り、見開いた目は携帯が再び地面を滑っていくのを映した。そして、そのまま携帯は誰の足にもひっかかることなく、線路内へと落ち姿を消した。
「ったく…」
 手を思い切り蹴られたのだと悟ったのは、その溜息交じりの声を聞いてからだった。痛みを訴える手と膝を地面に着け、僕は衝撃に耐えたのだが、それは無駄な事だったようだ。直ぐに、僕の体は強い力により地面に押さえつけられた。
「いい加減にしてくれよ」
 ザワザワと騒ぎ出した周りにも聞こえるように、心底嫌そうな声で言った男は、先程とは別の者だった。首を捻り見たその顔は、世の中に疲れたオヤジといった、お世辞にも人のいいものではなかった。眼鏡の男とは違い、どこから見てもだらけた一般人のような雰囲気ではあったが、そんなわけがない。
「手荒な真似はしたくないんだよ、オレは」
 僕の背中に膝を置き片手で僕の手を拘束しながら、男は無精髭を生やした顎を撫でた。そして、僕を見て僅かに笑いを落とす。
「大人しくしていた方がいいのは、もう充分わかっただろう。頼むぜ」
 オレは物事はスマートにってのが信条だ。
 そう言った男は僕の体の上から退き、立つように促した。どこか人を食ったような感じがする男はこういうことは手馴れているのだろう、なんでもないのだ気にしないでくれと周りに声をかける。
 僕とは知り合いなのだと笑う髭の男は、僕が喋れない事を知っているようだ。手を掴み拘束してはいるが、それ以上の事はしない。
「…行くぞ」
 眼鏡の男が僕の片腕を取りながら髭の男に声をかけたかと思うと、僕の腹に激痛が走った。殴られた衝撃で倒れそうになった僕の体を、髭の男が支える。
「だから。手荒な事はするなよ」
 大丈夫かと問うてくる髭の男の顔が滲んだ。生理的に込み上げた涙が頬を伝い、冬の寒さを僕に伝える。
「手加減はした、問題はない。ここで気絶されても面倒なだけだからな」
「簡単に逃げられたお前がそもそもの原因だ。当たるなよ」
「煩い。行くぞ」
 痛みに息を殺しながら、ドクドクと脈打つ血の流れの向こうで、男達のそんな会話を聞く。震える息で呼吸を整えながら、僕は前回暴行を受けた時とは違う恐怖を覚えた。
 手馴れている。
 両肘を掴み僕を促し歩く男達は、あの時の若い男達とは全く違った。観念するしかないのだと、本能的に悟る。いや、それ以上に体が竦んで抵抗などもう出来そうにもない。
 どこかに連れて行き金品を奪う、などというものではないのだろう。そんなわかりやすいものであった方がこの際良かったような気もする。一体、僕に何の用があるというのか。
 まさか、天川か…?
 そう考え、そうではない事を僕は祈る。
 プロかどうかなどわからないが、慣れた様子の男二人に僕は絶望感じ、大人しく引きずられるように従い階段までやってきた時、僕と眼鏡の男に勢い良く人がぶつかって来た。
 側で眼鏡の男が舌打ちするのが聞こえ、それとは逆の耳からすみませんと謝る若い男の声が聞こえた。視界に学生服姿が映る。よそ見でもしていてぶつかったのだろう。
 眼鏡の男が衝撃に押され数段階段を降り、髭の男が僕の腕を強く握った。
 体が斜めになった瞬間、逃げるなど考えていなければ、逃げられるとも思っていなかったのに、僕は咄嗟に我武者羅に腕を、体を振っていた。
 不安定な場所であったからだろう。体勢を整える前のそれに、眼鏡の男の手が外れ、僕は髭の男の手を引き剥がしながら、足を伸ばしてその身体を勢いよく蹴った。
 無我夢中だった。自分の事も、ここがどこなのかも考えていなかった。
 気付けば、僕は空に浮いていた。
 そして、その次の瞬間には階段を転げ落ちていた。
 なんとも間抜けな話だ。
 これでは逃げられないと、回る視界に笑いが込み上げてきたが、笑う事など到底出来なかった。そこまで器用ではない。
 一番下まで転がりきるまでの数秒間は、けれどもとても長い時間のように思えた。幾人もの人の顔や声を見たり聞いたりした気はしたが、記憶にとどめるほどのものではなかった。ただ、転がっているのだと、妙に落ち着いた心で実感していた。
 だが、ガツンと大きな衝撃で回転が止まり、薄れていく意識の中でサングラスをかけた男を見た時、つい先程まで感じていた絶望を思い出す。焦りが再び沸き起こる。
 僕を捕えようとする男達の仲間だろうか…?
 眼鏡の男が言っていた他にもいるというのは、髭の男だけではないのかもしれないと気付く。そう、一人だとはいっていなかった。仲間は何人もいるのかもしれない。
 早く逃げなくては。
 その思いは何よりも強かったのに体は動こうとはせず、僕は意識さえも手放しかけていた。その中で、サングラスの男の存在だけが、僕に状況を教えていた。
 このままでは、あの男達にまた直ぐに捕まえられてしまう。
 僕へと真っ直ぐ近付いてくる男を見ながら、そう焦った。
 朦朧とする頭で、僕はその男を見続けた。これから自分がどうなるのか、少しでもわかるように。
 だが、それも無駄に終わった。

 僕に向かって伸ばされた男の手は、とても白かった。
 それが、僕が最後に見たものだった。
 状況がどうなっているのかわかるような音を僕は何も拾えず、男達が何者なのかもわからなかった。

 絶望の中、沈み行く意識で見たその白は、闇よりも深く思えるものだった。

2003/07/16
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