# 82

 自分自身の身体の重みで、目が覚めた。とても重い。まるで鋼のスーツでも着せられているような感じだ。
 次に、それとは別に、更に僕の胸にかかる重みに気付いた。そうして、覚醒が進んでいく。
 薄く瞼を開くと、搾られたオレンジ色の光が目に飛び込んできた。ぼやけるそれは、実際の明るさ以上に、僕に刺激を与えた。瞬きを繰り返しながら、僕は目玉を動かし辺りを窺う。
 見覚えのある部屋だった。
 ここが筑波直純の部屋だと気付き、少し安堵し、目を閉じ大きく息をする。そこで漸く、目覚める前に感じた胸の重さに意識が向いた。寝かされた蒲団に沈み込みそうなほど重い僕の体。そして、胸の圧迫感。
 再び目をあけ、僅かに顎を引く。
 視線の先には、何もない。僕にもたらされている感覚とは違い、僕の上には何もなかった。その事実に、ゆっくりと息を吐きながら、体を起こす。
 まるで、自分の体ではないような、奇妙な感覚が起こる。動かしているのは僕の意思でなのに、そんな感じは何処にもない。
 おかしな気分を味わいながら、僕はベッドに座り、足を床に下ろした。それだけの行動で、何故か少し息が上がり、鼓動が大きく脈打っていた。酷く緊張しているような感じだ。
 だが、それが何故なのかと考えようとしたのは、一瞬だけのこと。
 薄闇の中、視線を向けた先にあった時計で現在の時刻を知り、僕は冷や水を浴びせられた。焦りが全身に駆け巡り、何も考えず勢いよくベッドから飛び降りる。
 だが、次の瞬間、僕は動きを止める事となった。
 鈍い痺れるような痛みが、僕を襲った。足も手も痛いが、胸が圧迫される感じがし、無意識の内で体を強く抱きしめる。額に冷や汗が浮かんだ。
 意識を手放す前の出来事が頭を巡る。
 最終的に階段から転げ落ちたのだ。怪我の一つや二つしていてもおかしくはない。あの後、何がどうなってこの部屋に僕が運ばれたのか、僕一人で悩んでも答えは出ないのだから、意味はないだろう。
 そう、ここで考えていても無駄だし、僕にはするべき事があった。
 ベッドの側に置かれたペットボトルと錠剤に気付き、僕はその薬を持って、自分の体を自ら引きずるように部屋を出た。錆び付いたブリキのロボットにでもなった気分だ。全ての動きに身体が抵抗する。
 廊下に出てリビングの方を窺ったが、人の気配はなく、電気もついていない。携帯は多分、壊れたのだろう。この部屋を探しても出てきそうにはないと、僕はそのまま玄関に向かった。
 そこにあったのは、僕の靴だけだった。どうやら家主はいないらしい。
 多少、このまま出て行くことへの躊躇いはあったが、仕方がない。連絡が取れないこの状況では、直接店へと向かうしかないのだ。

 鈍い体を動かし駅に着くと、丁度やって来た電車に乗り込んだ。席は空いていたが、座ると立ち上がる気力がなくなりそうで、そのまま扉に凭れる。そこで漸く、コートを忘れた事に気付いた。
 ジーンズに入れていた札で切符を買いながらも、寒さには気付かなかった自分がなんだかとても馬鹿で、笑えて来る。落ち着いているのか焦っているのか、自分自身でもよくわからないものだ。だが、実際に笑う事は出来ない。
 歩いている時はそうでもなかったが、振動に身を任せていると胸が酷く痛んできた。怪我が酷いのか、それとも薬が切れたのか。自分の体だというのに、一体今どういう状態なのかなど自身では判断が出来ない。皮肉なものだ。
 そんな悪態を吐きながら、薬効のわからない2種類の錠剤を唾で飲み込む。車内では酔っ払った客が大きな声ではしゃいでいた。当たり前だが、態々注意をする者はいない。
 錯角でしかないのだろうが、その酔っ払いの声さえも胸に響くような気がして、僕は腕を組むようにして胸を抱え込み、体を強張らせた。気の持ちようだ、たいした怪我はしていないのだ、弱気になるなど馬鹿らしい、などと何の根拠もない事を頭で繰り返す。
 今自分は仕事に行かなければならないのだ。不安になっている場合でも、痛いと泣いている場合でもない。何が何でも、職場に行かねばならない。
 その事実が、僕を支えた。


 車内で飲んだ薬が効いたのか、痛みに慣れたのか、店に着く頃にはどうにか体の感覚を自分のものとして掴めるようになっていた。これをランナーズハイと言うのだろうか。だるくて苦しいのに、気分はなぜか晴れていた。
 頭がおかしくなったのかもしれないと、何処かで少し思いもするが、気にしてもしょうがない。
 店の裏階段を少し早足で降りる。倉庫を通り抜けキッチンに入ると、扉の音に気付いた早川さんが振り返った。もうキッチンの片付けを始めていたようだ。
「保志!? お前、一体どうしたんだよ?」
 すみませんと軽く頭を下げながら次の扉に向かう僕を、早川さんが側に来て押し止めた。
「おい、大丈夫か? 酷い汗だ」
 その言葉に軽く肩を竦め、走ってきたからと身振りで答える。
「何度も連絡したんだが、電源を切っていたな。何かあったんだろう?」
 心配していたと言う早川さんに深く頭を下げ、着替えてくるとキッチンを後にする。
 ロッカーで着替えている時、腕が上がり難い事に気付いた。どうやら肋骨がいかれているようだと、引き攣る痛みに漸くそれに思い至る。
 男に蹴られたからではなく、階段を転がったのが原因だろう。ならば、自業自得の怪我ということだろうか。
「もうラストオーダーですよ」
 カウンターに入ると、中にいた小林がそう言って笑った。他の同僚も同じように苦笑する。怒っている様子は全くないが、昨日から連続で迷惑をかけた事実に、自分が情けなくなった。
 マスターは知り合いの客を送っていったとかで、今はいないらしい。
 入った最後の注文に、棚の上の酒瓶を痛みに堪えながら取る。
 今の状況では、夕方の襲撃者の事など考える余裕はない。僕はただ体の不調に、恐る恐る肩で大きな息を吐いた。
 だがやはり、鈍い痛みが体を駆け巡る。
「…保志? どうしたんだ?」
 体調が悪いのなら無理をする事はなかったんだ、とカウンターに戻ってきた同僚が僕の顔を覗き込みながら言った。
「本当に顔色が悪いぞ。大丈夫なのか?」
 そこにキッチンから顔を出した早川さんも、声を殺して同調する。僕はそれに大丈夫だからと曖昧に返事を濁し、その場を離れた。
 客の様子を見、まだ片付けをはじめるわけにもいかない事を悟り、手持ち無沙汰となる。だが、戻って遅刻の弁解を話す気にもなれない。
 今は、体のだるさを気にせずにいたかった。自分に起きた事を考えずにいたかった。こんな時は、サックスを吹けばいいのだろう。だが、流石に今夜は無理そうだ。
 客はまだ多く残っていたが、僕はステージに上がりピアノの前に腰掛けた。マスターがいたならば止められたかもしれないが、今は幸いにもいないのだからと、僕は鍵盤に指を乗せる。
 早川さんが物言いたげな視線で僕を見ているのに気付いたが、気付かない振りをした。
 僕のピアノは、サックスとは比べ物にならないくらいに下手である。ただ少し齧っただけであると言う程度にしか弾けない。殆ど鍵盤に触れる事はないのだから当たり前なのだが、それでもある程度弾けるのは、サックスのお陰だろう。楽譜は読める、指は柔軟とはいえないが動く。ただ、技術がない。
 調律をする和音さんの影響で時たま座るぐらいのピアノを、客の前で弾くのは今夜が初めてだった。楽しめる程度でいいのだと僕にサックスの演奏を頼んだマスターだが、ピアノを強要したことはない。マスター自身がたまに弾くし、僕も弾きたいと思うことはなかったからだ。
 だが、今夜はそれを僕は願った。仕事でも何でもなく、ただ何かに気を紛らわせていたかった。
 マスターがいたならば、僕の不純な動機に顔を顰めただろう。客を何だと思っているのかと、怒られるだろう。それを知りつつもこうして弾くのは、裏切りと言うものなのかもしれな。
 そんな事を考えながらも、僕は鍵盤の上で指を躍らせた。
 身体に響かないようスローテンポの曲を選び、ただの音を店に響かせる。
 聞く者にすれば、味気なく虚しいものなのかもしれないだ。

 だが、僕の心は、その一瞬は確かに癒されていた。

2003/07/23
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