# 83
マスターの穏やかな性格からだろう、店にはこれといった規則はない。校則のような、馬鹿げた理不尽なものはもちろんの事、多少の失敗も羽目を外した態度も許される。
知り合いの客と一緒になって雑談をしても、彼は全く嫌な顔をしない。無理な仕事を押し付けもしない。何よりも、対等に付き合ってくれる。理想の上司と言えるだろう。
だがそれは、こちらが誠意を見せてこそのものだ。
店に勤め出す時に必ず言われる言葉がある。常識をもって一人の大人として行動をするように、というものだ。自分の行動の全てに責任を持てとマスターは言う。
そんな彼は、無断欠勤や無断遅刻にはとても厳しい。やむを得ずそうなってしまった場合でも、必ず連絡を入れる。当然のこと過ぎてそうだと言うには抵抗もあるが、あげるならばこれが唯一この店の規則なのだろう。
勤務開始時間の直前での欠勤や遅刻の連絡であっても、特にマスターは怒りはしない。だが、事後となると態度は一変する。連絡が入るまでの間、同僚に迷惑と心配をかけた事をわかっているのかと、いつもの笑顔を消しさり、眉を寄せて低い声で怒る。
何度かその表情を見た事があるが、他人に向けられたものであっても、胸にくるものがあった。怖いというのではなく、申し訳ないと自分が情けなくなるのだ。普段自分を見守っていてくれるその人を裏切ってしまった気になるのだ。
この世の中、連絡が出来ない事態に陥る事はそうありはしない。一分でも、一秒でも、時間に間に合わない時やそうなってしまった時は、早く連絡を入れる。それは難しいことではない。急用が入ったとしても、連絡など十秒もかからずに終わる。
そう。ついうっかりしたとしても、思い出した時点で連絡を入れるのがマナーだ。
なのに、今夜、そのミスを自分が犯してしまったのだ。
堪らない。
仕方がなかったと言える面もあるが、判断ミスをしたのも確かだ。店に向かう途中、店の電話番号を覚えていなかったとはいえ、調べる事は可能だったはずだ。駅員に頼めば、代わりに連絡を入れてもらう事も出来ただろう。
それを思いつかず、ただ時間だけを使い、僕は無意味に必死になってここへ来た。
何をそんなに焦っていたのかと、今なら自分の愚かさがわかる。
一人きりの店内で、僕はモップに凭れて大きな溜息を落とした。
迷惑をかけたのならば、それを償わなくてはならい。
無断遅刻をした場合、その日の閉店後の片付けと翌日の開店前の準備は、その者に任される事になっている。特にはっきりとそう決まっているわけではなく、重すぎる罰だと思えば、他の者が手を出しても咎められはしない。
年末に一人、バイトの青年が店を辞めた。なので、今働いているのはマスターを除いて5人。バイトが2人と、正社員が3人。その5人をふたつにわけ、勤務時間はローテーションで組まれている。店の営業時間は午後5時半から深夜1時までで、早番は開店の30分前から閉店時間まで、遅番は開店時間から閉店の30分後までとなっている。
その普段は二人か三人でする閉店後の仕事を、今日は僕一人ですることになった。手伝おうと言ってくれ者もいたが、それは断った。殆ど無断欠勤に近い僕には、この罰では軽いだろうと思ったからだ。
一人で黙々と掃除をしていたが、あまり能率が上がらない。早くも薬が切れたのか、身体が痛み、頭がぼんやりとしてきた。
「保志」
だるさの中で拾った音に、僕は後ろを振り返る。そこには早川さんが立っていた。もう帰ったのだと思ったが、まだ制服のままだ。
「どうだ、捗っているか?」
そう僕に声を掛け、早川さんは椅子をテーブルに上げはじめた。手伝ってくれようとする彼に、僕は首を振る。
「ちょっと話があってな、その間だけだ。手持ち無沙汰なんだよ、気にするな」
手を動かしながらでいいから聞いてくれ、と早川さんはひょいひょいと椅子を上げていく。
「実はな、今もマスターに聞いてもらっていたんだが…。店を持とうと思っている」
その言葉に顔を上げると、手を止めるなよと目で笑われた。モップを動かしながら、僕は早川さんの言葉に耳を傾ける。
「まだいい物件も見つかっていないし、準備や何やらを考えれば一体いつになることかわからないが、やろうと思っている。いい機会だと。
この店が終わるのは、正直寂しいが、俺ももう30を越えたんだ、早くはないだろう。この機会を逃せば、次にいつ踏み出せるかわからないしな」
いつかは自分の店を持ってみたいものだと言っていたのは知っているが、まさかそこまで考えていたとは。正直僕は驚き、そして何だか寂しくなった。僕と同じように、最後までこの店で働くと言っていたが、それでもやはり、もう次のステージを見ているのだ。考えているのだ。
僕だけが、この場に留まり続けようとしている弱い人間なのかもしれないと、痛みが襲う頭で考える。いや、調子が悪いから卑屈になるのだろうか。
いつの間にかまた手を止めていた僕に、早川さんが言葉を繋げた。
「保志、それでだな。まだ何も決まっていない状態で無責任なんだが…。俺が店を持ったら、そこで働かないか? 本当にまだ、確かな事は言えないから、今直ぐ返事をくれと言うんじゃない。お前も今後の事を考えていかなければならないだろう。そこに、こういう選択肢もあるんだと、考えておいてくれ」
カタンと最後の椅子を上げ、早川さんは大きく息を吐いた。
「ま、そうなった時はさ。もう少し、カクテルを上達してもらわないとならないがな」
お前さ、センスはあるんだから練習しろよ。
からかうようにいそう言った早川さんは、僕の側へとやって来て僕の頭に手を置いた。
「風邪でもひいたんだろう、気をつけろよ。本当に一人で大丈夫か?」
視線を落とし、僕はゆっくりと首を振る。早川さんはポンポンと子供にするように僕の頭を軽く叩き、「キッチンの片付けは終わったし、ゴミも出したからな」と避けたその手をひらひらと振り店の出入口へと向かった。
僕がぼんやりとしている間に、殆どの片付けを終えてくれたらしい。
「悪いが、鍵閉めておいてくれ。じゃ、お前もそれ早く終わらせて帰れよ」
閉めていた鍵を開けながら言い、扉を開けたところで、「マスターは部屋にいるから挨拶をしろよ」と苦笑した。それに頷き返すと、片手を上げて早川さんは体を外へと滑らせた。パタンと閉まった扉に、僕は息を重ねる。
ふと、彼が制服のまま何も持たずに返った事に気付き、僕は小さく口元に笑みを浮かべた。今頃、寒いと腕を擦りながら、駐車場に向かって走っているのだろう。制服といっても普段着と変わるものではないからと、彼はよくその格好のままでやって来る。店で支給されるものとは違うシャツを着ている時もある。だが、それでもやはり、冬の夜にあの格好はないだろうに。
色々と気がつくし、凝り性でもあるのに、結構いい加減で適当な性格だ。人をからかうのが好きなのに、とても面倒見が良い。
早川さんとの付き合いはもう長い。確かに、気もあっている。だが、まさか店に誘われるとは思ってもみなかった。それほど親密と言うわけではなく、仕事だけの付き合いでしかない。単純に誘われるほど、僕は技術を持っているわけでもない。
そう、早川さんは僕を、こんな僕を気にかけてくれたのだろう。
この不況の中で、ハンディを持ち、まともな学歴もない自分には新たな職を探すのは難しい事だ。確かに僕にとっては願ってもない話である。だが、それに甘えていいのだろうかとも思う。
僕は人気のない店を見回し、今度は切ない息を落とした。
そう、切ない。まさに今の心境はそう言うものなのだろう。
この店がなくなるという事は、マスターや早川さん、他の同僚達との別れを意味することなのだ。この仕事だけではなく、彼らとの関係も終わってしまうということなのだ。
寂しいと。
ただ単純にそう思う。
けれど、それを素直に口に出来る術を僕は持ってはおらず。
その思いは心の中に留まり、燻るしかないのだ。
2003/07/23