# 84
控え室のロッカーにモップを仕舞い僕が店内に戻ったのは、2時近くの事だった。早川さんが手伝ってくれなかったら、もしかしたら朝までかかっていたのかもしれない。
やり忘れた事はないか確認し、先程頼まれた扉を閉め忘れている事に気付く。
従業員の出入は表でも裏でもいいようになっており、両方の鍵が渡されている。営業時間以外は基本的には出入りが済めば自分で鍵をかけるのが決まりだが、実際にはいい加減なものだ。最終的にはマスターがチェックするとはいえ、誉められたものではない。
僕はうっかりしているなと自分に呆れながら、そちらに足を進めた。そして、ノブに手を伸ばしかけた、その時。
扉が勢いよく開いた。
あと一歩近付いていたらぶつかっていたかもしれない。
「……保志」
そうして突然僕の目の前に現れたのは、筑波直純だった。
その姿よりもいきなり開いた扉に驚いていた僕は、見開いていた目を細める。何だ、この男だったのかと胸を撫で下ろす。
だが、相手は僕の姿に落ち着く事はなかった。
「お前はっ! 一体何を考えているんだっ!」
強く腕を掴まれ、引っ張られた。足で踏ん張ろうとしたが無駄に終わり、僕は男の腕にあっさりと飛び込む。その衝撃に、身体が痛みを訴えた。
だが、熱のせいだろうか、それは呻き声をもらすほどのものでもなく、僕はその痛みをただ受け入れた。僕の体を包む男の腕が、少し心地良く思える。実際には抱かれている感覚などあまりないと言うのに。
「保志…」
僕の名前を呼んだ筑波直純は、暫しの沈黙後、やはり声を荒げ僕を怒った。
「そんな状態で、来てもまともに仕事など出来るはずがないだろうっ! ……おい」
怒鳴り声を浴びせられながらも、僕は何故か笑いが零れてきて押さえられず、肩を揺らせてしまった。何だかとてもおかしくて、堪らない。そんな僕に、戸惑ったような不審気な声が落ちてくる。
「どうしたんだ…?」
顔を覗かれ、何でもないと首を振るが、僕は再び笑いを落とす。
先程慌てふためいて飛び込んできた男の姿が蘇り、笑いを止める事が出来ない。まるで捨てられた子犬が必死になって飼い主を探していたような表情だった。僕を見た顔に、安堵と戸惑いと悲しさと憤りというような、色んな思いが詰まっていた。そして、今度は人間の子供のように、安心したからこそ沸き起こった怒りを僕に向ける。
それは筑波直純が僕をとても心配した証拠だというのはわかったが、それでも僕は笑わずにはいられなかった。何をそんなに慌てているのかと呆れるところもあるが、単純に男が見せた顔がおかしかった。
素直というか、純だというか。ヤクザの男が一般人の僕の前で、取り繕う事もなく表情を変えている事実が堪らなかった。ツボに入るとはこんな事なのだろう。
笑う僕を不機嫌に見据えるその顔も、おかしくて仕方がない。
よく僕が店に来ているとわかったものだ。もしかしたら、他にも色々と探し回ったのかもしれない。
ならば、こんな風に。こんな風にずっと焦っていたのだろうか。この男が…?
それを想像し、僕は馬鹿だなと男に呆れる。自ら出て行ったことなど部屋を見ればわかるだろう。そう慌てることも何もないのだ。
「…笑うな、腹が立つ。…お前は、俺がどれだけ心配したのかわかっていない」
低い声で囁くように言い、男は僕を抱きしめた。
そんな事はない。わかっている。
充分過ぎるくらいわかっていると、僕はそっと上がらない腕の代わりに男のコートの裾を掴んだ。ほんの少し夜気を含み冷たかったそれは、直ぐに僕の手の中に馴染んだ。
わかっているからこそ、笑ってしまったのだと。だからそう怒る事はないだろうと、心の中で男に呼びかける。真剣に僕を心配し、一目は置かれる立場にいるのだろうに、それには似合わず取り乱したその表情が、僕は嬉しかったのだ。だから、つい笑ってしまったのだ。
心配を掛けて悪かったと思っている。呆れはするが、確かに体調が良くないのに勝手に出て行ったら気にするのが普通だろう。謝罪を望むのなら、何度も頭を下げる。本当に悪かったと、男の真剣な表情を前にすればこんな僕だが反省もするというものだ。
だが、それ以上に。
こんな男を見る事が出来た事を僕は嬉しく思ってしまう。助けられておいて勝手に出て行くなどふざけきっていると怒ればよかったのだ。もう知りはしないと、本来なら男が僕に呆れるはずなのだ。なのに、こうして探し出してくれる。心配してくれる。
上手く言えないが、何だか最高な気分だ。笑えて来るのは仕方がない。
わかっているからこそ笑うのだ。
反省するよりも、そう僕は居直るのだから、やはり男が怒るのも当然の事なのかもしれない。
そう考え、僕はまた肩を揺らした。
「…お前って奴は」
だから、笑うなと言っているだろう。
真剣な声でそう言った男に、僕はこんなところでこんな事をしていてもどうにもならないと漸く思い出し、笑いを収め男から体を引く。
「熱があるな」
僕の額に触れながら、筑波直純は言った。
「薬は飲んだのか?」
やはり僕が飲んでもよかった薬だったのだと、気にしていたわけではないがその言葉に少し安心する。
「そうか…」
頷いた僕にそう呟いた男は、僕をじっと見つめて来た。まるで観察でもしているかのようなそれに肩を竦め、僕は扉に鍵をかけ、フロアーの電気を落とす。
店の名に相応しい闇がそこに現れた。
奥へと続く通路からの光も、直ぐに闇に溶けている。床に伸びる僕の影も、男の影も、体半分以上が闇に食われていた。
気持ちいいくらいの闇に、僕は単純に体が軽くなった気がした。暫くその見慣れたはずの闇に目を奪われる。
「…深海、か」
その呟きに振り返ると、男は僕と同じように真っ暗な、闇の奥に目を向けていた。
「まるで、お前みたいだな」
どう言う意味なのか。
問いかけようとした僕を、先に筑波直純が射る。向けられた瞳は、それこそ海の底のように暗かった。微かな光では、男の眼の色までは確認出来ない。
その事実が、少し僕に不安を覚えさせた。
「所詮、深海は闇でしかない。特別な者のための住処であって、侵入者はあっさりと排除される」
忌々しく言うのでも、否定するのでもなく。ただの真実だと言うように男は淡々とした声で言った。
だが、僕をそう言う男の方が、闇のようであった。
そう。目を逸らした瞬間、この闇に溶けてしまいそうな風に。
けれども、それを感じた瞬間、そんな僕を笑うように男は雰囲気を変え光を放つ。
「本当に、お前みたいだよ。保志」
苦笑しながら言った筑波直純は僕の手をとり、強く握った。言葉や表情とは裏腹に、そこには何らかの強さがあるように思えた。
彼が笑っているのは僕なのだろう。だが、それが何故なのか、僕にはわからない。
握り返す事は出来ずに、僕はただ、男を見る。一体今、何を考えそんな発言をしたのだろうか。
僕には、わからない。
だが、この闇をまさに深海だと、そう感じる男の心が心地良かった。僕と同じ事を感じ取ったのが嬉しかった。
たとえ、そこに見たものが全く違ったとしても。
僕が闇に見たのは、安らぎだ。
誰も何も拒絶する事はない、全てを受け入れてくれるような、真の闇。
目の前に広がる闇に、休息を欲している体だからだろうか、僕はそんな救いを見た。
2003/07/23