# 85

 控え室で待っているように伝えると、男はそれに首を振り、僕の後についてきた。そのままマスターの部屋にまで入り込んでくる。
 マスターは僕を見、その後ろに立つ男を見て僅かに眉を寄せた。だが、何も言わなかった。言える立場ではないのか、関心を示したくないのか、微妙なところだ。なので、あえて僕もそれに従い筑波直純を無視する事にした。
 それに関しては彼も異存がないようで、黙って壁に身を預ける。だが、存在感までは消してはくれない。
「ご苦労さま、保志くん」
 完全に男を無視したマスターは、机の上の紙とペンを手にしながら僕をソファに進めた。そこに腰を降ろすと、彼も前に座る。いつもとは違う、硬い表情だった。
 背後の男に感ける余裕はなくなり、僕も真剣にマスターと向き合う。
「君がここで働きはじめて、7年半か。なら、充分理解しているのだろう。それこそ、今更私が言うことではないほどに」
 マスターは強い視線で僕を見つめてそう切り出した。その目は逸らす事は許されないものだ。
「遅刻についてだが、今後はこのような事がないように。次にまた同じ事があったのなら、こちらとしても考えるので、そのつもりで。
 あと、ピアノを弾いたそうだね。店の雰囲気を損なうとは言わない。僕は、君のピアノも好きだよ。だが、君を特別に扱うつもりはない。他の従業員の手前、ああいう勝手な行動を認めるわけにもいかない。充分に反省しなさい」
 硬い声でそう言ったマスターは、ふと幾分か表情を緩め、どうもしっくりこないと肩を竦めた。
「って言っても、君はもうわかっているのだろうからね。本当に、今後このような事がない様に頼むよ、保志くん。それにしても、まさか、今になって君に説教をするとは」
 参ったよ、とマスターが苦笑する。
 怒られるべきなのは僕だというのに、逆に彼を悩ませてしまったらしく、僕はもう申し訳なさにただ頭を下げるだけだ。
「それで、どうしたんだい?」
 遅刻の理由を聞いてきたマスターに、僕はただ体調が良くなくて休んでいて、うっかり寝過ごしたのだと伝えた。携帯を壊してしまった事も教え、明日にでも新たに契約しておくのでまた番号を知らせるという言葉を僕は紙に記す。
「体は大丈夫なのかい? そう言えば、少し熱があるのかな。顔が赤い」
【大丈夫です、風邪気味なだけです。今夜は本当に申し訳ありませんでした】
「明日は、予定では遅番だったよね」
 その問いに頷き、他の者には言ってあるので開店準備は自分がすると応える。
「そう。なら、よろしく頼むよ。ああ、早川の話は聞いたかい?」
 僕はその問いにも頷きを返した。  ふと、入口の壁に凭れていた男が側に寄ってくる気配を背中で感じたが、振り返らずにマスターを見る。マスターも男の動きに気付いたのだろう、軽く眉を寄せた。だが、それには触れず、同じように僕を見、話を続ける。
「彼の事だ、全く決まっていない話はしないだろう。僕はいい話だと思うよ。よく考えてみなさい。
 それじゃ、遅くまでお疲れ様だったね。また明日――」
「明日は無理だ」
 僕の上から不意に声が落ちてきた。見上げると、筑波直純が不機嫌な顔で僕を睨んでいた。その目が少し横にそれ、直ぐにマスターへ向けられる。
「いい加減な事を…」
 男の低い呟きに、僕はマスターとの会話に記したレポート用紙から、僕の言葉を男に読み取られた事に気付く。
「こいつは暫く休む」
「君は、何を…」
「何が、風邪だ。自分の体調くらいわかっているんだろう、保志。座っているのも辛いんじゃないのか?」
 マスターの驚きを無視し、男は僕を詰った。それは先程僕を怒鳴ったような声ではなく、とても冷たく感じるものだった。
 その変化に眉を寄せつつも、僕は煽られるように勢い良く立ち上がる。いや、立ち上がろうとした。だが、男の言葉を証明するかのように、足には力が入らず、僕の意思に反して僕の体は大きく傾く。
「保志くん!」
 驚いたマスターの顔を見、そして、身体を包む感触に、僕を支えた男を見る。男は「当たり前だ」と冷やかに僕に言葉を落とした。
「肋にひびが入っているんだ、大人しくしていろ」
 再びソファに座らされ、僕は大きく息を吐いた。なんだ、折れてはいなかったのかと、少し安心する。いや、それ以上に、男の態度がわからない。
 僕を支えた腕は、いつものように優しいものだった。だが、僕を見る灰色の目は、ただのものを映しているかのように冷めていた。
 それ程までに僕の発言に怒っているのか。それとも、マスターの手前仕事の顔をしているのか、また別の理由があるのか。僕には全くわからない。一体、何を考えているのだろう。
 先程店に飛び込んできた者とは別人のように男に、僕は眉を寄せた。
「階段から転げたんだからな、体中痛いだろう。無茶をするな」
「階段…? 本当なのかい、保志くん?」
 マスターの言葉に、僕は肩を竦めて笑う。まさかと首を横に振り誤魔化せるほど、僕の体調は万全ではなく、曖昧に答えを濁すぐらいしか出来ない。事実とはいえ隠さずに話す男を少し腹立たしく思う。
 だが、何をしても結局は無駄だというものだろう。7年以上の付き合いだ、マスターは僕の事を良く知っている。
「ま、まさか…。彼を危ない目に合わせているんじゃないだろうね」
 低い声でマスターはそう言い、筑波直純を見据えた。
「そうだとしても、あなたには関係のないことだ。この店ともな」
「しかし…!」
「くどい。あなたに保志との関係を説明する義務は俺にはない。当然、従業員のプライベートを詮索する権利もないないはずだ、野坂さん。
 本来なら、こんな状態なのに気付かず働かせたあなたの非を問い質したいところだが、保志にも落度があったようだし、俺も気が回らなかったんだ、水に流そう。それでも処罰をしたいのならば、保志の体調が戻ってからだ。そうだな、一週間は休むことになるだろう、そう調整してくれ」
「……」
 男の物言いに言葉をなくしたマスターは僕に視線を向けてきた。その目に、僕はゆっくりと首を振り、テーブルに腕を伸ばす。
「じっとしていろ」
 男の言葉を無視して、力の入りにくい手で文字を記した。熱が更に上がった感じがする。
【心配しなくとも、大丈夫です。それに、本当に店とは全く関係ないんです、気にしないで下さい。もちろん、こちらにも迷惑をかけません】
「そんな事じゃなく…」
 気にせずにはいられないのが当たり前だろうマスターに、それでも心配しなくていいのだと僕は繰り返す。確かに、筑波直純と出会うきっかけとなったのはマスターだが、この怪我にも、男との関係にも全く関係はない。心を痛める必要はない。
 本当に申し訳ないのだが…と明日からの休暇を願った僕に、マスターはまだ何やら言いたげな視線を向けてきたが、ゆっくり休んで怪我を治しなさいと承諾してくれた。
 すみませんと頭を下げた僕は、少し悩んだが、もう一度紙にペンを走らせてみる。上手くは言えないし、全てを教える事は出来ないけれど、この事は伝えるべきなのではないかと思ったのだ。
 たった18歳の保証人も何もない喋れない子供を雇ったのだ、何も話した事はないが、僕に何かがあったという事をマスターはわかっていただろう。それでも、この僕を必要とし見続けてきてくれた彼には、この決意を教えた方がいいのではないかと僕は思う。
 たとえ、自己満足でしかなかったとしてもだ。

【過去を、少し清算しようと思っています。ようやく、そういう気分になったんです】

 いつものように軽い笑を漏らした僕に、マスターはもう何も言わずにただ頷いただけだった。
 それがありがたかった。

2003/07/23
Novel  Title  Back  Next