# 86
熱に浮かされた僕の体を冷たい外気に晒したのなら、多分湯気がたつだろう。
本気でそう思うほど、僕の体は熱かった。吐く息により喉が燃え上がりそうでもあるが、何より厄介なのは、目をまともにあけていられない事だろう。熱により眼球が乾くのか、瞬きばかりを繰り返す。
意識も朦朧としはじめるにつれ視力も低下し、あけている意味はないと瞼を閉ざすが、何も見えないというのが何故か落ち着かない。
顔を顰め、熱い息を繰り返し、けれども胸の痛みに喉を震わせ、目を閉じてはあける。そんな自分の状態を客観的に分析し、今なら簡単に捕まえられてしまうだろうと投げ遣りな気分になる。こんな時にこそ、僕をどうにかすればいいのだ、と。
襲撃を仕掛けてきた者達は、もしかしたらそう大掛かりな事をするつもりはなかったのかも知れない。だからこそ、僕は無事だったのだろう。この怪我は単なる自分のヘマだと言えるもの。相手の目的など知らないが、あの後あっさりと身を引いたのもおかしいと言えばおかしいのだ。僕をどうにかしたかったのなら、いくらでもそのチャンスはあった。
ぼんやりとする頭は、けれども休む事を恐れるように色々な事を考える。
矛盾していると思いつつも、その原因に僕は気付いている。きっと、隣にいる筑波直純の態度のせいなのだ。
今ここで考える事を止め目を瞑ってしまっては、僕はもう二度と男を見る事が出来ないような気がする。何処にもそんな根拠などないのだが、何故かそう思ってしまう。
対向車のライトにより光と影を深く刻んだ男の横顔に、僕は熱のせいではなく喉を振るわせた。
体の痛みではなく、ただ単純に、胸が苦しい。心が痛い。
気付いているのだろうに、至近距離で見つめる僕の視線を完全に無視した男と僕の間には、空気ではない別のものが隔たっているかのように感じる。近いのに、とても遠い男の雰囲気に泣きたくなる。
怪我のせいで気弱になっているのか、心も体も狂ってしまったのか。頭でそう考えた途端、僕の視界は潤みはじめた。繰り返す瞬きが、それを頬へと押し流す。
今、この時。この一瞬は。
僕は世界中の誰よりも孤独なのかもしれない。そんな馬鹿な事を考える。
だが、そう思える程に、隣の男が遠かった。
店の前の道路に我物顔で停められていた車は、人通りが途絶えた夜の街でもその輝きを強く放っていた。僕にはわからないが、高級な車である事は間違いないのだろう。
無言で前を歩いていた筑波直純は車に近付くと、後部座席のドアを開け、僕をその中へと促した。
ドアを開き、僕を待つ無表情な男の顔を見た瞬間、唐突に僕は悟った。
僕はこの男がとてつもなく好きなのだと。
ずっと悩み続けてきた事を、何故か朦朧としかけている意識の中で気付く。それがどうしてなのかは、わからない。だが、確かに僕の中には、男への大きな想いが溢れていた。
好きだとか、愛しているとか、もうそんな言葉では間に合わないほどの恋情は、愛だ恋だと口にするのも馬鹿らしいほどの真実だった。
砕けそうになる膝に力を入れ、意地を張るように僕は一歩一歩車に近付きながら、胸の想いに驚くと同時にあっさりと納得し、そして痛みを手に入れた。
気付いた想いは、けれども気付いてはならないものだったのだと悟る。
僕の想いなど、どれほど男に役に立つというのだろうか。きっと、男を惑わすだけだろう、邪魔なだけだろう。
だからこそ、僕はずっと悩んでいたのかもしれない。
この事を知っていたからこそ、頭が僕に想いを捨てるように強制していたのかもしれない。心が勝たないように。
胸の痛みは、少し悲しいものだった。だが、当然の事だとも思い、僕は受け入れる。
気付いた心を捨てるつもりはないが、どうにかして良いものでもない。散々今まで僕の勝手で振り回したのだ。これ以上に何を望むというのだろう。
そう、今夜のように、男を僕のために動かしてはならないのだ。相手は、天川かどうなのかはわからない。だが、どちらにしてもヤクザである男を関わらせるべきではないだろう。また、彼自身落ち着いた状況にはいないと言っているのだ。本来、僕がその周りをうろついて良いものでもない。
今更と言うものだろうが、男にとって自分は足枷になるのではないかと気付く。アキレス腱ではなのかと思い知る。ただ、筑波直純と言う自分に見せる男の顔を見ていた僕は、そんなことにも気付かなかったのだ。
男への想いは、確かに僕の中にある。それを認めた今、この想いを手放すつもりはない。
だがそれ以上に、自分勝手なものでしかなくとも、男を苦しめる事になるのだとしても、僕は男自身を、その全てを手に入れるつもりもない。
自分が生きる世界はここなのだと言い切った男と僕の道は違うのだ。今一時重なっていたとしても、それは直ぐにわかれるだろう。僕は、男の世界に飛び込み、そこを歩んでいくつもりはない。
男の道を否定はしないが、一緒に進めはしない。
逆に、その道を外れてくれと縋りつく事も、僕はしたくはない。
結果はもう、はじめから決まっている事なのだ。運命など大層な事ではなく、わかりきった事だったのだ。僕も筑波直純も大人の男であり、一人の人間だ。それは当然の事。
ただ辛いからと目を背けるには、僕は幼くはない。そう、幼くはないのだ。
この想いを男に言うべきではないのだと、僕は自分の心に気付いた瞬間、そう思い知る。
別れる時罪悪感を抱えるべきなのは、僕の方だ。すまないと誤るのは僕でなければならない。それが、今まで逃げてきた僕の受けるべき罰だろう。
だが、果してそんな風に、僕は演じる事が出来るだろうか。
いや、出来る出来ないではなくしなければならないのだと、僕は自分に言い聞かせた。
しかし。
僕は車に乗り込もうと、体を丸めかけ、それを止めた。
開けられたドアに片手をかけ、もう一方の手でそれを支える男の顔を引き寄せる。
重ねた僕の唇は、微かに震えていた。それは体のせいなのか、心のせいなのか。そんな事はどちらでもいいもので、僕はただ、今は男の温もりが欲しかった。
欲しくて欲しくて、堪らなかった。筑波直純を感じたかった。
だけど。
男は僕のキスを拒みはしなかったが、受け入れもしなかった。
「――痛むのか…?」
いつの間にか見続けていた、少し厚い唇がそう微かに動くのを、僕は暗闇の中で捉えた。
荒く息を吐いたり、殺したりしながらも、眠ることなく視線を投げかけてくる事に対して、体が相当辛いのだろうと考えそう問うのだろう。相変わらず前だけを見続ける男に、見えないことを承知で僕は口を動かす。
――筑波さん。
呼びかけは、音にはならない空しいものだ。だが、もう一度と、僕はその名を口に載せる。
男には届かないことを承知で。
だが…。
「……何だ? ――保志…」
二度目の呼びかけが聞こえたかのようなタイミングで、筑波直純は僕に視線を向けた。
そして、驚いたような表情で僕を見、ブレーキをかける。
「どうしたんだ…?」
左に寄る事もなくそのまま車を車線の真ん中で止めた男は、僕に手を伸ばし涙を拭った。とても優しく。
「そんなに痛いのか? …死にそうか?」
真面目にそう訊いてくる男が、おかしかった。いや、振り向いてくれたことが嬉しかった。だから、僕は大丈夫だと首を振りながらも、口元に笑みを浮かべた。
そんな僕に男は顔を顰め、何か言いたそうに口を開いたがそれを止め、「…そうか」と再び前を向いた。
「うちに帰れば、薬はある。多分、あのヤブ医者もいるだろう。後少しだ、我慢しろ」
話は帰ってからだと低く言い放ち、男は再び僕を拒絶するかのような雰囲気を作った。
怪我の痛みよりも、熱の苦しさよりも。
わからない男の態度が、僕には堪えた。
前を向き運転し続ける男から顔を逸らし、僕は窓の外を見る。
そこに映った自分の顔は、男に嫌われるには充分な、最低な人間のもののように思えた。
好きだと気付き、その思いを胸に抱きながらも、筑波直純の事が全くわからない。
それでも好きだと思う自分は、ただそんな自分に酔っているだけなのかもしれない。
好きな相手の事を何もわからない僕は、ただ一人で恋愛をしているだけではないか。一方的な思いを持っているだけではないか。
そんな事はないと否定する自分を、僕はもってはいなかった。
他人への恋情に気付いた僕は、それ以上に、自分が恋愛をするのに相応しくない人間である事を知った。
男との別れを勝手に決めているのが、いい証拠だ。
2003/07/29