# 87
「ああ、何だ、無事だったんじゃないか」
リビングのソファで一人酒を傾けていたのは、筑波直純が信頼しているのだというあの医者だった。確か、名前は、四谷クロウ。本人を前にすると違和感がありありと漂う日本風の名前だが、男自身変なのであっていないこともないのかもしれない。
四谷クロウは僕をチラリと眺め、軽く肩を竦めた。
「ま、顔色は良くないが、これじゃあ心配損だな、筑波」
ニヤリと楽しげに笑うその笑みは、他の者がやれば嫌なものであるのだろうに、この男がすればそれだけで絵になるというものだ。たとえ、どんな格好をしていようとも。
男はだらしなくソファに座り、低いテーブルに脚をのせていた。彼の生い立ちを少しばかり知っている者ならば、やはり生まれ育った環境が環境だからと詰りそうだが、男のその仕草には品があった。
男の生まれながらの気品を疑う術はどこにもない。誰もが魅了され、心酔するだろう。そんな者を馬鹿だと確かに思ても、この男の場合は仕方がないと納得してしまう。
全てが男による計算されたものであるのかも知れないと言うのに、仕草のひとつひとつに心が奪われる。
虜になった者達の数を知ったとしても驚く事はないだろう。こんな人間は厄介な生き物でしかない。それをわかっていても止められず溺れていく者達は、一体どうすればそこから救われるのだろうか。
四谷クロウは、この世の闇なのかもしれない。
自分の力だけで立ってもいられない体を壁に凭れさせながら、部屋の主に声を掛ける綺麗な男を、僕はそんな風に思った。
喩えそこには至福が待っているとしても、僕はこの男に溺れたくはない。溺れたら、僕は僕という人間を失いそうだ。
「保志」
ふと名前を呼ばれ、呆けかけていた事を知る。
そんな僕を軽く笑う四谷クロウの顔から視線を泳がせ、僕の名を呼んだ声の主を見る。
筑波直純は依然として、これ以上に機嫌が悪くなる事はないのかもしれないと思わせるような顰め面をして僕を睨んでいた。その視線に促され、僕は壁から体を起こす。
だが、足は動かない。
「手を貸してやれよ、筑波」
「……」
車を降りる時差し出された手を僕は断った。それを知りからかうかのような男の言葉に、筑波直純は眉を寄せる。多分、僕と友人である男に対して、面白くないと舌打ちしたいところなのだろう。ぴくりとその頬が引き攣ったように見えた。
僕はそれをもう一度確認しようと男を見据える事はなく、そっと目を閉じた。しかし、視界を閉ざしたとたんに平衡感覚を失い、慌てて目をあける。
あけたそこには、当たり前だが変わらず男の鋭い視線があった。それに臆したわけではなく、ただ少しふらつき、壁に再び凭れる。
「貸してやらないのか?」
「……」
再びからかうように、四谷クロウがそう男に問う。
男が怒っている事は、僕にも充分にわかった。だからこそ、助けを借りる事はしなかった。僕に怒っているのだ、その僕に手を貸すのは不本意だろうし、僕としても申し訳ない。だから、意地になってここまで自力で歩いてきた。
だが、限界なのかもしれない。
手を貸して欲しいと僕が望めば、今ここで頼んだら、男はどうするだろうか。
荒くなる息を肩でつきながら、僕は男の目を見、そんな事をふと考えついた。それをする気はないが、もし、そうしたのなら…。
男は今更と怒るのだろうか、渋々助けてくれるのだろうか。それとも、ただ呆れるのだろうか。
何にしろ、間違いなく軽蔑されるだろう。
いや、今も充分にされている。
出て行ったのは僕なのだから、これ以上迷惑をかけたくはないというのは本心だ。だが、正直、何故ここまで怒られなければならないのか、何故男がこうも怒っているのかが僕にはわからない。わからないからこそ、余計にそんな僕を男は責めているのかもしれない。だが、やはり理解できないものは仕方がない。
確かに心配は掛けたが、僕とて一人前の社会人であるつもりだ。どんな状況でも仕事を優先させようと考えるのは不自然ではないはずだ。いつも忙しなく働く男ならば、僕の状況を納得はしなくとも理解はしてくれると思っていたが、どうやらそうではないらしい。
男が僕に向ける視線は、僕を非難していた。
こんな風に硬い態度を取られると、とても困ってしまう。僕と違い喋れるのだから、もっと喋って欲しいものだと、少しずれた視点で僕は悪態を吐く。そして、そんな自分に疲れを覚える。
散漫し始めた頭は、ただただ休息を欲しているのに、それが出来ないというのはかなり辛い。
「おいおい。迎えに行って、喧嘩でもしたのかよ」
馬鹿だなと詰る四谷クロウに、「煩い、黙れ」と筑波直純は低い言葉を落とした。
「ったく、仕方がないな。お前が手を貸さないのなら、俺が貸しましょう」
軽く喉を鳴らしながら男はソファから立ち上がり、「客室でいいんだろう?」と不機嫌な男の様子を全く気にとめずに訊く。慣れているようだ。
「別に、俺はその辺に転がしてもいいけど」
ただ歩いているだけなのに、その足運びが優雅に感じるのだから始末が悪い。話す声も、体の奥底まで響くトーンで胸を高鳴らせる。まるで、催眠術を掛けられているかのようだ。
近付いてくる男をそう分析しながら、僕はただ立ち続けた。もう、頭も体も、膝を折る事自体出来ないらしい。
ふと、何故か自分の姿がこの部屋にはいないような、一緒にいる彼らにも見えていないようなそんな錯覚に陥り、茫然と二人の男の姿を僕はただ視界に映す。
僕だけが浮いた、邪魔な存在であるかのようだ。彼らの姿が、とても遠く感じる。
まるで、スクリーンの向こうであるかのように、流れる時さえ違う気がする。
僕の時を刻むのは、忙しなく動く自らの心音だけ。
「どうするんだ?」
「……寝室へ」
「最低だな」
「…熱が出てきたようだ、診てやってくれ」
「ああ、そうだな。これは間違いなく熱だ。態々診察の必要もない」
解熱剤を飲ませればいい、と四谷クロウは低く笑いながら、僕の前に立った。俯き加減の僕の目に、僕より幾分か背が高い男の喉仏が揺れる様子が入ってくる。
近付いてきた男の片手が、僕の顎を捕え、僕に上を向かせた。白い肌に、蒼い瞳に、薄茶色の髪。男の豊かな表情やぞんざいな言葉を知っていても、マネキンのように整っているばかりで人間味がないように思えてしまう。異色の容姿。
その男のもうひとつの片手が、僕の胸を緩く撫でる。
だが、その感触は全くなかった。映画と言うよりも、夢の中のようだ。
僕が夢の住人なのか、彼らがそうなのか。
本物は一体誰なのか…。
「それよりもさ、筑波」
確かに僕を見ているのに、僕の存在を無視しているような、見えていないかのような目をして男は言う。
「まずは、治す気があるのかどうなのか聞かなければならないんじゃないのか?」
それとも、逃げられるのが趣味なのか、お前は。
僕にゆっくりと顔を近づけながら、男は唇の端を引き上げて笑った。その表情に、一匹の猫を思い出す。そう、まるで、チェシャ猫だ。
「お前の趣味は、俺には理解出来ないからな。どうなんだよ。また逃げ出されるために捕まえてきたのか?
そうじゃないのなら、それなりの事はしないと駄目だろう。逃げ出されないようにしないと、なあ、筑波」
笑う男の唇の隙間から見えたのは、白い歯ではなく、紅い舌だった。
その紅が僕に食らいつくかのように近付いて来るのを僕は眺めた。
だが。
近付いてきていたそれがその後どうなったのか、僕は知らない。
僕は、四谷クロウの口元の笑みを目に入れた後、抗い続けていた闇に飛び込んだ。
男の問いに筑波直純が何と答えたのか、僕は知らない。
2003/07/29