# 88

 友人の夢を見た。
 ほんの少しの翳りを匂わせながらも、僕に笑顔を向けた彼がゆっくりと遠ざかっていく夢だ。
――じゃあな、翔。
 彼の声が、とても遠くから響いた。
 僕は行くなと叫ぼうとし、声が出ないことに気付く。何故こんな時にと焦りながら、必死で声を出そうとするが、やはり出ない。
 変わりに伸ばした手が、虚しくも空を掴む。
 そこで漸く、焦るばかりだった僕は、友人の姿が消えていることに気付いた。彼が消えた場所で、ただ呆然と立ち尽くす。それ以外に僕が出来る事は、何もなかった。
 立ち尽くした僕は、友人がもう一度姿を現す事などないのだと、何故かそんな確信をもつ。不意に心に生まれたそれは、耐えられないものだった。
 とてつもなく胸が苦しくて、僕はいつの間にか座り込み、その場に突っ伏していた。
 ここに彼はいないのだという事実は、僕を殺すのに充分な効果を持っていたのだろう。
 僕は死を願ったわけではないが、そうなってもかまわないと自分を捨てた。

 夢の中の僕が願ったのは、もう一度友人に会いたいということだけだった。



 額に触れてきた何かに薄目をあけると、それは人間の手だった。僕は考えるよりも早く、その手を勢い良く掴んだ。
「……なんだ、起きたのか。驚かせるなよ」
 僕に落とされたものは、先程夢の中で聞いた幼さを残す声ではなく、確かに綺麗な音ではあるが今はあまり嬉しくない別人の声だった。
 四谷クロウが、僕の目の前にいた。
「どうかしたのか?」
 そう問う男の手を離し、僕はパタリと腕をベッドの上に落とした。少し胸にその振動が伝わり響いたが、薬が効いているのか痛みは起こらない。僕は閉じかける目をどうにか開き、僕を覗き込む男を見つめてみた。
 こうしてみると男の蒼い目は、思っていた以上に薄い。アイスブルーだ。
「おい、俺が聞いている事わかっているのか、お前。何なんだよ、ったく」
 顔を顰めても様になるその美貌は、けれども今は関係ないものだ。まず、何故男がここにいるのかを考えるべきだろう。
「筑波なら、いないぞ。仕事だ」
 僕がこれから考えようとした事を読んだかのように、四谷クロウは言った。
「俺にお前を見ていろと言って、出かけた。あいつ、馬鹿だよな。昨日もそう言って出かけて俺がお前を逃がしたっていうのに、また同じ事を頼むんだからさ。ま、二度目の失敗をするつもりは俺にもないが、別にしても問題にはならない。あいつは、俺を怒りはしても捨てる事はないからさ。お前、逃げだしてもいいぜ」
 そうしたいんだろう、と男は僕を冷やかに見下ろす。
 良く喋る男だ。
 まだ上手く働かない頭では、男が一体何を言いたいのかわからず、右から左にその音を流しながら僕はそう思った。本当に、整った容姿とは違い、人間臭い男だ。ぺらぺらとよく喋るし、その言葉も歳相応のそれだ。ギャップが激しすぎる。
「ほら、さっさと逃げろよ」
 からかうように言い、男は口元を上げた。
 僕が逃げ出したいとはどういう事か。昨日の事を根に持っている口調ではないが、面白くもなかったのかもしれない。
「…おい」
 不意に、考えを巡らし始めた僕の額を、男はパシリと叩いた。小気味よい音が響くが、それよりもその行動に僕は少し目を見開く。何だというのだろう。
「だから、さ。お前、反応を示せよ。面白くない奴だな。それとも、記憶喪失にでもなったのか? 耳でも悪くなったか? お前、俺の声聞こえているんだよな?」
 その問いに、僅かに顎を引き頷くと、「それは良かったよ」と男は肩を竦めた。その後、体の様子を問い、腹が減らない限りは大人しく寝ていろと僕に薬を差し出す。
 医者らしい一面に、自分が看病されている事に漸く気付く。逃げ出すがどうのこうのと言っていたので、この男が本気で監視者なのかと思ったが、そういうわけでもないようだ。
 だが、それでも見張り役には変わりないのだろう。ご大層な事だ。
「ああ、そうだな。寝ていた時の様に、飲ませてやろうか?」
 体を少し起こし、差し出された薬に手を伸ばしかけた僕に、四谷クロウは思い出したようにそう言った。
 男は僕の手を抑えこみ、僕に浮かした体をベッドへと戻させた。
 そして。
 何を考えているのか、僕に用意した水だろうにそれを口にすると、四谷クロウは僕に覆い被さってきた。
 驚く僕の唇にカプセルを押し込み、その隙間を狙うように唇を被せ水を流し込んでくる。そうして、ご丁寧にも小鼻を押さえるので、僕としてはもう飲み込むしかない。
 コクリと異物が喉を流れた。それと同時に、口の端から飲み込めなかった水が頬に伝う。男の指がそれをなぞり、僕の頬を軽く押さえた。
 唇や歯を軽く弄っていた舌が、奥まで入り込んでくる。
 不覚にも、口腔のそれに僕はただただ驚き、まともな反応ひとつ返せなかった。
「…まだ、熱が少し高いな。口の中が熱い」
 唇を離し、男は軽く僕の濡れたそれに指で触れる。
「知っているか? 熱い時は具合がいいんだ。折角だし、銜えてもらおうか。治療代はチャラにしてやるぜ」
 口元だけに笑みを浮かべた男は、そう言いながらベッドに膝をついた。驚きながらも、男が言わんとしている事を僕が察した、その時――
「――変態オヤジ、だな」
「俺がオヤジなら、お前もそうだぜ」
「少なくとも、変態じゃない。お前よりマシだ」
 いつ間に帰ってきたのか、ドアノブに手をかけたままの姿勢で筑波直純が部屋の入口に立っていた。そのままドアを大きく開き、中へと入ってくる。
「起きなくていい」
 僕にチラリと視線を向け男はそう言ったが、僕はそのままベッドの上で上半身を起こした。何が何だかわからないが、よく考えなくとも襲われていたようなこの状態の中で、確かに今更なのかもしれないが寝転んでいたくはないというもの。
「ただのヒビだ、起きても死にはしない」
 どうにか体を起こした僕に非難げな視線を向ける筑波に、四谷クロウはベッドからゆっくりと立ち上がりながらそう言った。それが医者としての診断結果なのか、ただの事実なのかわからないが、どちらにしても僕自身にはあまり興味はなさそうな声だ。
 今したキスも、男の記憶からは既に消えてしまっているのかもしれない。
 ふと、そこで漸く自分の胸がコルセットで固定されている事に僕は気付いた。多分、四谷クロウがしたのだろう。だが、今の彼からは、あまりそれは想像出来ない。男の関心は、ただひとつのことだけにしか向けられていない。
「それより。まさか、心配で仕事の合い間に態々帰ってきた何て言わないだろうな。――筑波」
 軽く笑いながら筑波直純を揶揄した四谷クロウが、不意にその声音を真剣なものに変え男の名を呼んだ。
「…血の匂いがする」
 そう呟くと、素早い動きで筑波直純に近付き、男は彼の上着を剥ぎ取った。
 現れた、青いシャツの胸の辺りが、黒く染まっていた。男の発言とそれが何なのかを理解した途端、僕の鼻も鉄臭い臭いを嗅ぎ取り、吐き気を覚える。
「心配するな、俺のものじゃない。傍に居た奴が刺されて、その時についただけだ」
「…そうか」
 四谷クロウは躊躇うことなくその黒い染みに手を伸ばし、筑波直純の胸を撫で、安心したように小さな息を落とした。
 他人の血が得意ではない僕は、込み上げるものを我慢しようとシーツを掴み、顔を顰める。シャツの色により、その赤が確認出来ないのがせめてもの救いなのだろう。怪我とは違う理由で締め付ける胸で、僕は深い息を吐いた。
 悲しい夢で目覚め、何の意味もないキスを男にされ、他人の血の匂いを嗅ぐとは。何て素晴らしい一日の始まりなのだろうか。多分きっと、この後は僕にとって最高の一日となるのだろう。そうでなければ、割に合わない。
「狙われたのは…?」
「俺じゃない。ちょっとした個人的なトラブルだろう、俺もまだ詳しくはしらない。刺された男は無事だし、刺した男も捕らえたから、気にするな。
 良いものじゃないし着替えに来たんだが、直ぐにまた出る」
 大丈夫だ、と筑波直純は身体に触れる四谷クロウの手を外し、その身を離した。クローゼットから新しいシャツとスーツを取り出し、この話は終わりだというように話題を変える。
「それよりも、クロ。お前、暇だからと言って、そいつで遊ぶな」
「実際暇なんだから、仕方がないだろう。俺に子守りをさせるお前が悪いんだ」
「ああ、そうだな。だから、お前には別の玩具を今用意させている――ああ、もう来たみたいだな」
 筑波直純が言ったように、玄関から人の気配がやって来た。主の名を呼び声をかけながら近付いてくるのは、どうやら岡山のようだ。
「気が利くじゃないか、筑波」
 何の事かわかっているのだろう。男が楽しげに喉を鳴らす。
「借り物だ、食べるなよ」
「努力する」
 そう答えながらも心ここに在らずといった風に、四谷クロウは部屋を出て行った。直ぐに会話を交わしているらしい音が聞こえ、その後岡山が静かに寝室に現れる。
「…筑波さん。今の、誰ですか」
 何故か岡山はぼんやりとしていた。
「友人だ。何かされたか?」
「別に…、ほっぺにチュウ、されただけですけど…」
 どうやら、岡山はあの男の姿そのものにやられてしまっているらしい。意外な事だが、筑波直純の部下であるこの青年はあの医者を知らなかったようだ。
「それは、悪かったな。許してやってくれ。頭がいかれているんだ」
「綺麗な人ですね」
「中身は最悪だ。見に行ってみろ、今頃お前が借りてきたものを食っているぞ」
「えっ!? まさか…」
 ありえないと言う顔をした岡山だが、そうも言い切れないと思ったのか「…嘘ですよね?」と部屋の外の雰囲気を伺いながら、そう呟いた。
「そんな、食うだなんて…。いくら俺でも騙されませんよ」
「お前、何を借りてきたんだ?」
「あ。その、何でもいいと言われたので、子犬を。ウェルシュ・コーギーです。まだ、3ヶ月にもなっていない奴で…めちゃ可愛いです」
「勘がいいな、岡山。あいつの好物だ」
「え…っ!?」
「ご苦労さん。これであの男も少しは大人しくなる、助かった」
 着替えてくるから、もう少し待っていてくれ。
 筑波直純は岡山にそう言うと、僕にチラリと視線を向けたが何も言わずに部屋を出て行った。
 その後ろ姿に、眠りに入る前に見た筑波直純の様子を重ね、僕は溜息を落とす。
 機嫌は全く直っていないらしい。

 悲しい夢よりも、男とのキスよりも、血の匂いよりも。
 筑波直純の態度が、今朝の僕には一番堪えるものだった。

2003/08/12
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