# 89

 姿を消した筑波直純の事を考えていた僕は、ふと、部屋に何故か重い空気が落ちていることに気付く。
 それは、僕の感情のせいではなく、気まずげに入口で立ち尽くす青年から発せられたものだった。
 岡山は手持ち無沙汰のように頭をかきながら辺りを見回していた。そして、漸く僕に視線を向け小さく笑う。だが、それはどこか無理をしたものだ。
「…怪我したんだってな、大丈夫なのか?」
 何故か視線を泳がせながらそう聞いてくる岡山を、僕はじっと見据えてみた。何をそんなに戸惑っているのか。不可思議な青年の態度に眉を寄せる。
「な、なんだよ…。…ああ、邪魔だよな、俺。そうだよな、うん。ま、大人しく寝ていろよ。じゃあな」
 一人でそう言い、岡山はさっさと部屋から出て行った。遠ざかる足音が何だか滑稽ではあるが、意味がわからなさ過ぎて笑う事は出来ない。一体何なのか…。
 青年がしていたように僕も部屋を見回してみたが、特に変わったものはない。シンプルなこの寝室で目を留める物などあまりなく、僕の疑問は余計に深くなった。だが、呼び戻して態々その意味を問うものでもない。
 数度溜息のような深い息を吐き、僕はベッドから足を下ろした。少しだるい気はしたが、それ以上に筋肉痛で引き攣るような痛みが体を走る。だが、我慢出来ない程ではなく、部屋を出るまでには痛みにも慣れた。
 壁に片手を沿え体を支えながら、ゆっくりと廊下を歩く。階段から転げたのだからそれなりにダメージは受けてはいるが、思った程でもない。だが、それでも気分的に騒ぐ気にはなれず、無意識のうちに体を庇う動きをする。自分で言うのもなんだが、昨夜の自らの行動力には今更ながら感服するくらいだ。人間、視野が狭くなると何をするかわからないというのは本当の事らしい。
 馬鹿でしかないなと昨夜の自分に呆れた僕の耳に、カチャリと今しがた過ぎた扉が開く音が入り、続いて僕の名前が呼ばれた。
「何をしているんだ」
 僕が振り返るよりも早く、筑波直純が僕の傍に立つ。壁に背中を預けその姿を見ると、男の髪は少し濡れているようだったが、きちんと新しい服に身を包んでいた。ワインレッドのシャツは、端正な男に少しの色気を与えており、一瞬目を奪われる。時間的に考えて軽くシャワーを浴びただけなのだろうが、微かに匂うのは、時々嗅ぎ取れる程度につけられた男のコロンだった。
 ゆっくりと風呂に入れないのは当たり前なのだろうが、必要以上に手早く済ませるのはそれだけ急いでいると言う事なのだろう。
「トイレか? それとも腹が減ったのか?」
 ネクタイを結びながらも真っ直ぐと僕を見る男の目は、昨夜のように怒っているものではなかったが優しいものとも違い、どこか淡々としていた。その目を見返し、僕はおどけたように軽く肩を竦める。
 何となく、あのまま一人ベッドで横になっていたくはなかっただけで、起き出した理由は特にはない。岡山やあの男がいるだろうリビングに行こうと思ったのだが、絶対に行きたかったわけでもない。
 だが。
「動き回れるほど、体力は回復していないだろう。寝ていろ」
 正しい意見だと思いつつも、それを聞き入れる気には到底なれそうにもなかった。
 何故か男が冷めた態度をとるのに比例し、僕は軽い態度をとってしまう。多分、その全てを受け入れたら、自分が傷付いてしまいそうな気がするからだろう。冗談に出来るのであれば、流せるのであればそうしたいと思う、僕の逃げ道だ。
 男が眉を寄せたのに対し、僕は唇を上げて笑う。それが更に男の眉間に皺を寄せる事であると知っていても、止められないのだから仕方がない。
 リビングに向かうために僕が踏み出した一歩に、筑波直純は舌打ちを落とした。
「いい加減にしろ、保志。俺に文句があるのなら、後で聞く。言いたい事があるのなら、その時にしてくれ。悪いが今は時間がない」
 大人しく寝ていろ。
 顎で寝室の方を示しながら、男は顔を顰めてそう言った。そして、これ以上は取り合わないとでも言うように、リビングに向かって声をかける。
「岡山、行くぞ」
 はい、と大きな返事を返した後、直ぐに岡山が部屋を飛び出して来た。男と視線を合わせ、軽く頭を下げながら擦れ違い、玄関へ行く。
「クロ。お前も、こいつを頼むが悪さはするなよ」
「態々お前のものをとるほど困っていないさ、俺は。バカ言っていずに、さっさと行け」
 筑波直純の呼びかけにリビングから姿を現した四谷クロウは、犬でも追い払うかのように手を払いながら言った。
「っで、早く帰って来い。飽きたら放って帰るからな、俺は」
「わかっている。じゃあ、頼む」
 筑波直純は振り向き様に傍に立つ僕を視界に入れはしたが言葉をかけることはなく、スタスタと廊下を歩いて行った。直ぐに壁の向こうにその姿は消え、玄関の扉の開閉音が部屋に響く。
 そして、僕の周りには小さな静寂が落ちる。
「…突っ立っていずに、こっちに来るのなら来いよ。寝ているのも退屈だろう」
 声に振り返ると、男は既に部屋の中に姿を消していた。だが、リビングの扉は僕を迎え入れるように開いたままだ。
 引かれるよう僕はそこに近付き、中へと足を踏み入れる。何故か少し緊張した。だが同時に、安心している面もある。今この場に、一人にされなくて良かったと。
「そう警戒しても、あいつに釘を刺されたからな、お前に何かをする気はない」
 部屋に入った僕に、そんな言葉が落ちてきた。
「さっきのキスは、ちょっとからかっただけだ。気にするな」
 そう言われ、漸く全てが納得出来た。多分、この男は筑波直純の帰宅を察していたのだろう。だからこその行動だったのだろう、あれは。僕をからかうなどありえそうにもないが、僕を使って筑波直純をからかうのは充分に考えられる。
 その効果はあまりなかったのだろう。四谷クロウにすれば、僕は使えないものだったのだろう。だから、こんな事を言うのだろう。
「それでも俺が嫌だと言うのなら、喜んで出て行が。どうする?」
 決めてくれよと促しながらも、全く興味なさげな様子の男に僕は軽く笑い、足を進めた。おかしな人間ではあるが、そう変わった者でもないのかもしれない。何故か自分でも良くわからない、そんな評価をくだす。だが、あながち外れでもないだろう。
 嫌いじゃないと、そう思う。確かに僕に向かう感情は少なく、その真意を掴み取る事など出来ないが、筑波直純に向かう男の姿は好ましかった。そして、少し羨ましくも思った。
 同じように育ったという男二人の関係を妬ましく思う程に、いいなと思う。
 ソファに腰掛けた男に近付き、僕は漸く別の存在に気付いた。
「なんだ。犬は嫌いか?」
 男の手の中に、小さな犬がいた。大きな黒い目が僕を捕え、興味を持ったのだろうか、飛びかかりたいようにウズウズとしている。その姿に、一瞬動きを止めた僕に、男はそう問い掛けてきた。
「俺は犬や猫が好きで、あいつはそれを利用してくる。こうして俺に頼み事をする時、貢物としてもってくるんだ。普通、好きだからといってこんな無垢な生き物を与えられてもな。俺だって、こう穢れのない奴を相手にしたら、確かに癒されはするが罪悪感も生まれるというものだ。そうだろう? 人間と違って、一時可愛がって満足出来るもんじゃないからな。
 気が利いているのか単純馬鹿なのか、わからない奴だよ、あいつは」
 お前も災難だな、と子犬を抱き上げながら男は言った。それは玩具のように扱われている子犬に向かって言ったものなのだろうが、何故か僕に向けられたもののようにも聞こえた。
 その勘は、外れてはいなかったらしい。
 男は子犬に指を噛まれながら、僕に視線を向け「そう言えば、お前もそうなんだな」と低く笑った。
「あんな奴を相手しなきゃならないんだから、災難といえば災難だ」
 物好きな奴だと男は僕を笑う。
 あの男は変に真面目で堅物で鬱陶しい。昔からそうだ。そして、馬鹿だ。俺に何度迷惑をかけられても、俺を構う事を止めなかった粋狂な奴だ。絆されやすい、単純な男だ。ま、昔に比べたら、今はそれだけではないけどさ。それでもやはり、馬鹿な奴だ。こうも純粋無垢に育つとは奇跡というよりも、冗談だろうと俺は昔はいつも思っていたな。それが、この歳になってもさほど変わらなっていないんだ。冗談を通り越し、異常だぜ、驚異だ。純なヤクザってどうだよ、おい。怖いね、世も末だ。
 そうここにはいない男を笑い詰った男は、「それでもなぁ…」と子犬の頭を撫でその大きな黒目を見つめながら言った。
「それでも、いい奴だ。馬鹿だが、いい奴だ。大変だろうが、ま、相手をしてやってくれ」
 お前が嫌になるまでは、宜しく頼むよ。
 僕に視線を移してそう言った男は、ぞんざいな態度で人を喰うような者ではなく、筑波直純のただ友人でしかないように見えた。何だか少し、男の本性を垣間見たような気がして、僕は焦りを覚える。
 だが、次の瞬間には、男はその雰囲気を消し去り、唇を引き上げて笑った。
「ま、どうせ頑張った所で短い期間だろうな。あいつの恋愛は重いから、お前なら逃げ出しそうだ。人に執着されたくないって顔しているからな、お前はさ。そして、筑波は執着されなきゃ不安になるタイプだ。好きだと言ったらそれ以上に好きだと言い返されなきゃ、相手を信じきれない臆病者だ。っていうか、自分に自信がなさ過ぎるガキだ。
 苦労だよな、お前も。何故、よりのもよってあんなのを好きになるかね。面倒だろう、俺にはわからない。マゾか? ホント、何で好きになったんだ?」
 僕は、遊ばれているのだろうか…?
 それとも、苛められているのか?
 答えろよ、とソファに凭れ組んだ長い脚のその先を僕に向けて言った男のその言葉は、命令でしかなかった。相手に反論を許さないその威圧感に、けれども僕は心底呆れる。
 自信家というのではないだろうが、何て性格をしているのかこの男は。筑波直純をどうだのこうだの言う前に、自らの性格を改めるべきなのではないのだろうか。
 だが、僕としては別にそれが嫌いなわけではないし、人として正しくはなくとも困るのは僕ではないし、本人も困りそうな精神など持っていそうにもないので、改めた方がいいのではないかと思いはしても伝えはしない。今のところ大した迷惑はかかっていないし、今後も付き合うのかわからない男なのだから、僕が伝えないことにより益々その悪さに磨きがかかっても全く問題ではない。
 むしろ問題なのは、その問いに痛いところをつかれたと、面白くないと思う自分だろう。
「あいつのどこに惚れた?」
 なおもそう聞いてくる男から僕は視線を逸らし、窓の外に目を向けた。


 どこに惚れたのか。
 そう問われ、僕は自分が筑波直純にそれを訊いてみたい衝動にかられる。

 僕は、誰かに惚れられるような、そんな面を果して本当に持っているのだろうか。

2003/08/12
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