# 90

「あいつのどこに惚れた?」

 予想でしかない自分の判断を疑うことなく問い掛けてくる男に、確かなものである心の熱を感じながら、僕は小さく首を振る。寝すぎたのか、体調のせいなのか、少し眩暈がした。
 友人である男の言う言葉は、確かに一理ある。僕は今まで、男の想いをそう感じていた事はないとは言えないし、男が僕に求めるものも間違ってはいない。しかし、そんな事は僕も、そして筑波直純もわかっていることだろう。何度も擦れ違ってきたのだ、それこそ今更というもので、それは単なる事実でしかない。
 そこに、僕は押さえ切れない強い思いをひとつ加えた。ならば、僕と男の関係は変わっていくだろう。だが、それがどこに向かうのか、僕はもう知っている。いや、この心に気付いた瞬間に決めた。
 僕が願うのは、男の傍に居続けることではなく、ただその場所に立つことも出来るという曖昧なものだ。男が寄るなと言えば、近寄れなくなる。僕が嫌だと思えば、その空席は消滅する。そんな、一人の人間としての意志が働く場所でいい。絶対や永遠などいらないし、契約や馴れ合いも必要ない。僕の想いはそれで、筑波直純の想いはこの男が言うように違うものだ。けれど、僕もあの男も、多分、自らのそれを譲る事はないだろう。
 譲ってしまったら、僕らは僕らでなくなるような気がする。
「好きなんだろう、筑波の事が」
 冬の柔らかな陽射しが僕には少し眩しく、窓の外の景色を覚えこむ前に目を閉じる。だからだろうか、瞼の裏に、不機嫌な筑波直純の顔が浮かんだ。
 僕が漸く気付いたこの心は、多分邪魔なものでしかない。
 恋人だという言葉で男を縛りたくないし、自分も縛られる気はない。依存は楽なのだろうが、負担を受けるのは筑波直純なのだ。それがわかっていて、寄りかかれるわけがないし、その気もない。
 僕にとってこの想いは、僕という人間があってこそ成立するもので、筑波直純ただ一人を僕の全てにするわけではない。彼を守りたいという思いと、実際にその行動に出るかどうかは別問題だ。ひとつの想いだけで、世界が回っているのではないのだ。好きだと言うこの思いと、自分の何もかもを男に与えるかどうかは、全くもって関係のないことなのだ。
 僕の中にあるのは男への愛情であって、打算をするものではない。この思いを使って何かをしようなどとは思わない。
 そう。好きだからこそ、それを返してもらおうとか、自分を見続けてもらおうとかいうのは、単なるエゴでしかない。僕は、僕という人間と筑波直純と言う人間を粗末に扱うつもりはない。
 僕が欲しいのは、筑波直純の人生でも、その心でもない。
 僕は目を開け、テーブルに視線を落とし、もう一度小さく頭を横に振る。どこが好きだというわけではなく、筑波直純が好きなのだ。どこか一部分だけに好意を持ったのならば、それこそ男自身のことについて考える事はなかっただろう。ただ自分の欲望を満たすだけで僕は満足しただろう。
 しかし、そうではないのだ。僕は、一人の人間を、その全てを好きだと思うのだ。厄介な事に。
 短い沈黙後、男は「つまらない奴だな」と呆れた声で言った。
「あいつはあんなにお前に惚れているんだ、わかっているんだろう。健気だよな、馬鹿すぎるくらいに。犬ころと変わらない。真っ直ぐすぎて、それに応える程の思いを持っていないこっちとしては、罪悪感が浮かぶというものだよな」
 そう言いながら、男は子犬を床へとおろし、僕の方へ押しやってきた。子犬はどうしたものかと一度男を振り仰いだが、直ぐに僕の足にじゃれ付きにくる。遊んでというように僕のスリッパを噛み、脱げたそれに引きずられるように床に寝転がった。
「本当は好きでも何でもなく、愛情を向けられるからそう錯覚しているだけなんじゃないか。
 卑屈だとしか言えないけどさ、そんな風に思った事はないか、お前? 俺はありまくりだ。いつでも思う。自分はそれを何故必要としているのか、何に対してもわからなくなる。欲しいと思う気持ちが純粋なものなのかどうなのか。基本的に俺は、ひとつの事だけで考えられない。色んな周りの状況や思惑や、それこそ見返りなど全てを頭に入れて考える。お前も、そうだろう? 違うとは言わせないぜ、大抵の人間はそうだろう。
 だが、筑波は例外だ。あいつは、例えばAに対してBの答えを持ち、Bに対してAの答えを持つ。俺達みたいに、Aがあり、その仮定で他のCやDをくっつけて、Bという答えを出すんじゃない。良く言えば素直で、悪く言えば単純。
 そんな奴に惚れられたお前は、どうなんだ。互いの感情を天秤にかけ比べてみたりしないのか? 俺はただそれを聞いてみたいだけだ。お前があいつを利用してようとどうだろうと、別に怒りはしないぜ、そう構えるなよ。気に入ったところはあるんだろう、どこが好きになったのか教えろよ」
 早速スリッパに飽きた子犬が体を起こし、男の方に戻っていくその姿を追いながら、僕も男へと視線を向ける。意外にまともと言うか繊細と言うか、そんな発言をした男は、僕の目を捕らえニコリと笑った。
 胡散臭さ全開だ。
 喩え心の中でそれを溜めていたとしても、僕なんかに自分の思いを話したりしないだろう、この男は。つい言ってしまったの「つい」は、この男には存在しない。
 疑いが顔に出たのか、僕の顔を見ていた男が、不意に顔を顰め、「何て顔するんだか」と肩を竦めた。次に表した表情は、男らしいふてぶてしいものだった。それでも絵になるのだから、僕の眉間には更に皺がよるというものだ。この男の前で気を抜けば、僕など簡単に食われてしまうのだろう。僕は男の低い笑いにそれを思い知る。
「ったく、折角優しく説明してやっているのに、愛想がないな。理解を示している間に言いやがれって言うんだよ、全く。
 何でお前みたいな奴が筑波に惚れるか、そもそもそれが間違っているって言うんだ。お前がそうならなきゃ、筑波だって諦めただろう。どうせ適当な態度を取ってきたんだろうお前。…何故わかるかって顔だな。お前も馬鹿かよ、わかるに決まっているだろう。お前がヤクザな男を誑かす奴に見えるかよ。それよりも、相手の想いに何を言っているんだかと笑いながら取り合わずに来て、気付けばこうなってしまっていたって言う方がありえることだろう。そして、逃げるに逃げられず、ズルズルとってか? 冗談じゃないぜ。お前にとってはたかだか一時の色恋かもしれないがな、あいつにとっては違う。お前、簡単に考えすぎていないか? 相手はあの男なんだぞ」
 信じられないものを相手にするような軽蔑を隠すことなく示しながら言った男は、僕を見据えて警告ではない、忠告をした。
「別にお前があいつを騙しているとは思っていない。自覚しているのかどうなのかは知らないが、好きなんだろう、あいつの事を。でもなぁ、ただの恋愛だという認識なら、悪い事は言わない、さっさと出て行け。筑波には上手く言っといてやる。あいつを選ぶのなら、生半可な気持ちじゃ務まらない、その態度は改めた方が身のためだぞ。何が何でも死物狂いであいつの傍にいるという覚悟を示し続けなきゃ、お前、痛い目見るぞ。声意外のものも失いたいのか?」
 筑波直純から相談を受けたのか、話を聞いての見解か。それとも先程の彼と僕とのぎこちないやり取りを見ていての判断か。何故男がこんな事を言うのかはわからないが、外れているとも言い切れないそれは、少し僕には衝撃的であった。
 不機嫌にソファに寄りかかる男と筑波直純の関係の深さを見せ付けられたようで、言われた内容よりもまず、小さな嫉妬が浮かぶ。だが、その瞬間には、それを感じた自分への嫌悪が沸き起こる。
 友人がどんな想いを抱いているのか、それを考え思いやり、部外者だとわかりつつ口を出す。そんな似合わない行動を取るこの男が、正直、羨ましい。筑波直純をそれほど大事にしていることが。そして、同じように思われている事を疑わないところが、羨ましくて仕方がない。
 以前筑波直純をそう思ったように、僕は四谷クロウにも同じ思いを持った。自分には築けない関係を持つ二人を妬ましく思い、今はいない友人を哀れに思う。
 もし、こんな僕ではなく、もっと他人を思いやれるような者が彼の傍にいたのなら、そんな者を友人としていたのなら、彼はもっと救われたのではないだろうか。僕ではない、もっと分かり合える者がいたのなら、死を選ぶことはなかったのではないだろうか。
 考えても仕方がない、意味などない、友人に対しても最低な発言だとわかりつつも、それでも僕はそんな事を考えてしまった。本当に、最低だと思いながら。
 体の不調のせいだと言い訳するには、少し無理があるだろう。だが、思わず涙腺が緩んだのは、そのせいだということにしたい。
 僕はぼやけた視界を片手で覆い、ソファの背に体を預けた。掌で目元を擦り、天井を見上げる。白いそれが今直ぐ落ちてきて僕を潰してくれないだろうかと願うが、生憎そんな気配は全くなかった。何もかもに苛立ってしまうと、僕はいつもの癖で考える事を放棄し、深い呼吸を繰り返す。
 堪らなく、惨めな気がした。だが、哀れむほど、僕は可哀相な者ではない。むしろ、こんな僕に付き合わされる周りの方が被害者だろう。
 職場の同僚やマスターの事を考え、筑波直純の事を考える。
 彼が怒るのも、当然だ。
「ったく。何なんだかな、お前は。喋れないからと言って、意思がないわけじゃないだろう、示せよ。俺を無視するなんて上等だぜ」
 男の愚痴のようなその声は、けれども先程までとは色を変えた、どこか楽しげなものであった。顔を戻そうとし、先に立ち上がった男に額を叩かれ押される。仰け反った胸が少し痛み顔を顰めると、男はそんな僕を笑った。
「腹が減った。俺は飯にする」
 お前の分も作ってやるよ、と男はキッチンへと入っていった。その後を、小さな犬がついて行く。
 正直、男の言おうとしている事の半分も、僕は理解していない気がする。ただ、四谷クロウは筑波直純を気にかけているというのが、充分すぎるくらいに思い知らされたという事だけで、他の言葉は言葉でしかない。
 何故好きになったのか、男のどこが好きなのか。その答えをただ単純に聞いてみたいというのではなく、四谷クロウの意図は他にあったのだろう。答えはおろか、まともに反応を返さなかった僕に彼が何を見たのか、僕にはわからない。
 キッチンに立った男の背中からは、僕に対する感情は何なのか、果して僕にどんな評価を下したのか、全く何も窺えなかった。
 同様に。

 僕も多少思うところはありはするが、四谷クロウと言う人物をどう考えるべきなのか、何一つわからなかった。

2003/08/12
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