# 91

 四谷クロウが作ったカルボナーラをどうにか胃の中に入れ込んだが、気を抜くと逆流しそうでもある。カリカリに焼けたベーコンはともかく、生クリームが胸につかえ、正直、未だ食道付近にそれらが詰まっていそうな気さえする。
 食べろよと強制してきたのは、医師として栄養の補給を考えたのではなく、単なる嫌がらせなかもしれない。せめてもの救いは、料理が口にあったと言うことだろうが、それもこの気分ではあまり慰めにはならない。
「薬、飲めよ」
 一人前とは考えられない大量のパスタをペロリと食べきった男が、苦しむ僕に気付き、テーブルを叩きながら言った。だが、今の僕はとてもではないが、小さな錠剤だとしても口に含む事は出来そうにない。
 もう少し胃が落ち着いてからだと、僕は片手を上げて軽く首を振った。その答えに男は喉を鳴らし、「何だ、また飲ませて欲しいのか」と片頬を上げた。席を立ち、コップに水を汲む。
 冗談じゃないと僕は椅子を引き立ちあがろうとした。だが、その動きに体の中身が付いて来られなかったのか、臓器がグニャリと歪んだ。いや、そんな気がしただけに過ぎないのだろうが、胃そのものが出口を求めて競りあがってくるような感覚を味わう。
 一瞬、異物を飲んだカエルになった気がし、何だか笑えた。だが、それを実行できる余裕はなく、僕は硬直した身体にスイッチを入れ、一目散にトイレを目指した。近くのシンクではなく、離れたトイレを目指す余裕が自分の中に果して本当に存在するのか。バタバタと駆けながら、頭の隅でそんな問いを自らする。咄嗟の判断は、ただ、四谷クロウに近付くのは賢くないというところからきただけなのだろう。
 何にしても、今の僕に当てはまる言葉は、馬鹿と言うもの以外にはない。何を考えようが、何をしようが、結局はそこに行き着くだけだ。
 それでも結果的には途中で失態を晒す事はなく、胃を空っぽにしてキッチンに戻った僕を向かえたのは、高い犬の鳴き声と男の笑い声だった。目に飛び込んで来た光景に、脱力感が僕に襲い掛かかる。
 本当に、何なのだろうか、この男は。
 食器を洗おうとしているのだろう四谷クロウは、それから脱線し、小犬と遊んでいた。泡まみれのスポンジを片手に、もう一方の手でシャボン玉を作り出しているその姿は、子供のようであると言うような微笑ましさは何処にもなかった。モデル以上の容姿を持つ三十路男が、キッチンで子犬をからかって遊んでいるのだ。異様でしかないだろう。
 飛び散る泡もなんのその、はしゃぐ男と子犬のその空間に足を踏み入れたい人物などここにはなく、僕は見なかった振りをするかのようにリビングに戻りソファに腰を降ろした。
「おい、薬」
 目敏く僕が戻った事に気付いた男が早速そう声を掛けてくるが、それに反応を返す気にはなれず、そのままソファに寝転がる。
 低い視界に、大して見るものはなく、僕はそのまま目を閉じた。鼻の奥が自分の吐瀉物の臭いを覚えており、闇の中で広がる。頭がグラリと揺れる感じがした。気分が、悪い。
「お前、吐いたら食った意味がないだろう。もう一度何か胃に入れて、薬飲めよ」
 足音と共に、男の声が近付く。
「それとも、そのままくたばるつもりか?」
 雑な声とは違う、どこか繊細な感じがする指が、僕の頬を滑り首で止まった。キャンと耳につく鳴き声が足元から上がり、思わず眉を寄せる。頭に響くというよりも、脳を直接刺激してくるかのようだ。頭痛が起こる。
「無駄だ、こいつは相手はしてくれないぞ」
 僕ではなく小犬に向かっての言葉なのだろう。小さな苦笑とともに、男の手が僕から離れた。
「別にお前の勝手だが、そこで寝て転げ落ちても俺を恨むなよ」
 四谷クロウのそんなからかう声を聞いた次の瞬間には、何もかもが鬱陶しくなった僕は自ら意識を切り離し、闇の中に飛び込んだ。
 夢も見ないほどの、何もない闇の世界へと。



 眠るのが一瞬ならば目覚めるのもそのようで、僕は覚醒と同時に瞼を開き、目に飛び込んできた物体に頭を仰け反らせた。しかし、直ぐにソファの背に当たりその反動で戻ってしまい、それに鼻先を掠めてしまう。
 力の入らない指で鼻の頭を擦り、口から少し重い息を吐き出す。
 何だってこんなところにいるのだろうかと、頭の横で眠っている子犬に呆れながら、僕は体を起こした。その振動で、子犬の耳がぴくぴくと動く。目をあけた子犬は鳴き声を上げソファから降りると、一目散に窓へと駆けていった。
 犬には詳しくないが、ペットブームだと言うくらいの事は知っており、クリリとした黒目に短い足のこの洋犬は多分人気があるものなのだろう。僕が思う以上に高価なものであるのかも知れない。ただの犬にしか見えないのだが、見るものにとってはそうではないのだろう。
 何気にその小さな姿を追い、そこで背を向ける男の姿を僕はとらえた。カリカリと窓ガラスをかきながらキャンキャンと吠える子犬に気付かないのか、ベランダに出ている四谷クロウはピクリとも動かない。
 何故か引き寄せられるようにそこに近付き、僕は窓を開けた。そこで漸く、男は少し振り返り、口元を引き上げた。
「やっと起きたか」
 それが僕への呼びかけなのか、足元の子犬へのものなのかはわからなかったが、何らかの思いを含んだ言葉でもないさらりとしたものだった。
 頷きを返す事も何もせず、そのまま僕はベランダへと出た。素足に伝わるコンクリートの冷たさは心地良く、気にはならない。直ぐに視線を外へと戻した男の隣に僕は並び、同じように景色を眺める。
 思った以上に眠っていたようで、空は赤く染まっていた。冬の夕焼けは、一気に僕に空気の冷たさを覚えさせたが、部屋に引き返すのは何だか惜しくてその場に佇む。沈むのではなく、霞みの向こうに消えていくかのような太陽は、寝起きの僕には少し眩しく、目を細めた。更にぼやけ視界一杯に広がった太陽の朱色を温かく感じる。
 ふと鼻を擽る香りに、ベランダから出された男の手に、短くなった煙草があるのに気付いた。僕の視線に気付いたのか、男はそれを壁でもみ消し下へと落とすと、新たな煙草を口に咥える。そして、取り出した箱ごと、僕に煙草を渡してきた。
 怪我人ではあるのだが、慎まなければならないわけでもなく、遠慮なく僕は一本拝借し差し出された火を貰う。
「気分はどうだ。最悪?」
 その問いに首を横に振ると、「それは良かった」とどうでもよさ気に男は言った。そして、ふと視線を凝らすように眉を寄せ、小さな舌打ちをする。
 何事かと男の視線を追ったが、特に変わった様子はない。側のマンションの小さな公園に人影が見える程度で、細い裏道にも、下に広がる駐車場にもこれといったものはなかった。
 四谷クロウは突然携帯を取り出すと、何処かに電話をはじめた。
 相手が出たのだろう、口に咥えた煙草を指に移し、「いつからいるんだ、お前」と低い声で言葉を紡ぐ。
「先程とは、具体的に何時なんだよ。ったく、暇人が。どんな面してんだ、顔見せろ」
 男のその言葉の数瞬後、バタンと下の駐車場から扉の閉まる音が聞こえた。暗くなりよくわからないが、車を降りた人物は何故かこちらを見ているようだった。
「見えんな。上がって来いよ」
 四谷クロウの言葉に横を振り返ると、男は真っ直ぐと今僕が見ていた一点に視線を向けていた。どうやら、話の相手はあの人物らしいと気付く。だが、どんな関係なのかまではわからず、「心配せずとも、筑波はいない。だから、来いよ」と言い通話を切る男に、ただ眉を寄せる。
 今の言葉からして、この部屋の主である筑波直純とは良い関係にいない人物なのだろう。そんな人間が、何故このマンションの駐車場にいるのか、四谷クロウは何を考えているのか。
 訊いてみたいという好奇心ではなく、訊かなければ自分が不利になるような気がして、失礼を承知で不躾な質問をしようと僕は男に手を伸ばしかけた。だが、四谷クロウはそれを気付かなかったかのように自然に交わした。
「寒くなったな。戻るか」
 そう言うと、ベランダを動き回っていた犬を捕まえ、部屋の中に戻る。僕が不審に思ったのは承知しているのだろうに、何も言わない。それが男の答えなのだろうと、僕は伸ばしかけた腕を元に戻した。室内に戻った男の背から、駐車場の人物に視線を移す。
 暗闇の中でその人物がそのまま立っている事は捕らえられたが、どんな風貌をしているかまではやはりわからなかった。
 多分男だとは思うが、自信はない。

 電球が切れたのだろうか、公園に立つ電灯のひとつがパッと光を消し、闇を広げた。

2003/08/18
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