# 92

「お前も、熱を上げたくないのなら来いよ」
 広がり始めた闇に目を凝らす僕に、そんな声が掛かる。太陽が沈んだ途端一気に気温が下がりだす外は、確かに僕から体温を奪っているようであった。冬の夜の始まりは、どこか幻想的であるのとは別に、厳しいものだ。清んだ空気は、痛みを伴う。
 素直にその言葉に従い、部屋に戻り窓に鍵をかけた僕に、四谷クロウは「タイムリミットだ」と僕に言ってきた。何の事かと思わず首を傾げると、僕の傍に立ち夜鏡となったガラスの向こうに一瞬目を凝らした男は、コツンとその窓を軽く叩き笑う。
「迎えが着たんだよ。だから、俺は帰る」
 早く戻れといったのに、相変わらず仕事熱心な男だ。
 窓ガラスの向こうに男は何を見ようとしたのか。未だに佇んでいるだろう電話相手なのか、それとも友人である男の帰宅を望んでの事なのか、僕にはわからなかった。
 当たり前だ。笑みに隠されたこの男の真意を見抜けるほどの力が僕にあるのであれば、何も迷う事などひとつもないのだろう。それ程までに器用であるのならば、僕は今こんなところにはいないだろう。そう思うと、自分の不器用さも鈍感さも、捨てたものではないのかもしれないとふと思う。
 何もわからないが、目の前の男のどこか投げやりでいて切実なものでもあるかのような不思議な笑みを、僕は好ましく思った。そこに見たただの人間らしさが、僕には必要なもののように思える。多分わからない事があるのは、そう悪いことではないのだろう。
 四谷クロウはコートに袖を通しながら、「俺はきちんとお前の面倒を見たからな」とそんな念を押してきた。
「俺の相手は出来なくとも、あいつの相手は出来るんだろう、お前。なら、ちゃんとそうあいつに言っておけよ」
 男が羽織ったコートはブランド物なのだろう。日本人離れした体形の男には似合っており、ラフなシャツ姿とは違い、威厳を醸し出すようでもあった。何だか、白衣よりも様になっている。黒いコートは、軍服のように男を精悍に見せる。
「廊下を走れるくらいに元気になったんだ。それもこれも、俺の手厚い看病のお陰だと、筑波に熱く語っておけ」
 その姿に目を奪われた僕をかまう事などなく、四谷クロウはそう口にして笑う。
 確かに看病してもらったのだろうが、この男がそれを筑波直純に報告してくれと言うのは何だか意外だった。別に部下と上司の関係ではなく、まして何を言われても堪えそうにない人間がこんな事を気にするとは。いや、相手に気にさせようというのだろうか。
 しかし。
 そう考えた僕を見抜き呆れたかのように、「別に、あいつに恩を売るんじゃないぜ」と男は肩を竦めた。
 なら、何故。そう目で問いかける僕に、男は自分で考えろと髪をかきあげる。ほつれた長い髪が数本、光を受け金色に輝く。
 何か飲み物を貰っていこうと、キッチンに入った男を眺め、僕は紙とペンを探した。小さなボトルワインを手にキッチンを出てきた四谷クロウに、文字を記したメモ帳を差し出す。
「別に、どうでもない」
 僕の事が嫌いなのかとの問いに、男は好きでも嫌いでもないとそう答えた。嫌いな僕だからこそ、適当にいい加減な返事をしてあしらっているのかと思ったのだが、そうでもないようだ。
「なるほど。お前との会話はこうするのか。面倒だな」
 僕が再び文字を記すのを見ながら、男はそう言った。だが、面倒だが嫌ではないらしく、急かす事も無視する事もなく、じっと僕の言葉を待つ。
【あなたが言う言葉を考えるが、わからない。でも、筑波さんの事が大切で、だから僕が邪魔なのだと思えば、意味は理解出来なくとも納得出来る気がする】
 何故かどれだけ待たせてもこの男は起こりそうにはないと思ったが、それでも急いで書き綴った僕の言葉は、子供じみたものだった。慌てたからなのか、その頭しか僕にはないからなのか、それとも本当にわからないからかなのか。どれにしても、男にとっては僕はこの程度の人間だと思うものとなったのだろうと、言葉をかけた自分が何だか情けなく、馬鹿らしくなった。
 だが、意外にも、男は相変わらずの口調だが、真面目に返事を返してくれた。
「俺がお前に妬いているとでも言うのか? 言っておくが、俺と筑波はそんな関係じゃない。確かに繋がってはいるが、その絆が深いかどうかはわからないものだ。俺達は同じように親に捨てられたが、全く同じ捨てられ方をしたわけじゃない。同じ育ち方をしたわけじゃない。見ての通り、似た境遇でも、全く別々の人格が出来あがった。あいつがどう思っているかは知らないが、俺はあいつを鬱陶しいと感じた事もあれば、実際喧嘩をした事もあるし、だました事もある。確かに兄弟のように育ったし、仲がいいが、常にその繋がりを確認しあっているわけでもない。俺達は互いの幼馴染という立場以外にも色んなものをもっているんだ。あいつとの関係はそんな単純なものじゃない。嫉妬なんてな、お前の事は関係なく、常にし続けていて、同時に関係ないとも切っている。そんなもんだ。
 あいつを大切だから、お前を苛める、とは。軽く見られたもんだな、俺も」
 男はそう言ったが、しかし、そう考えるのが普通だろう。別に何だかんだと次々に言われるのが不快ではないが、言われる意味が理解しきれないと言うのは気になって仕方がない。ならば何故、男は僕をこう扱うのだろうか。
 それを伝えると、男はふと真面目な顔になり、「おかしいのか?」と首を傾げた。その反応に、僕は驚く。
「俺は誰に対してもこんなんだ。いや、確かに、筑波がお前と恋人関係だというから、気にしているのも事実だ。しかし、だからと言って特別お前に対してきつく当たっているつもりもないが。お前は、そう思ったのか?
 だったら悪かったな。だが、全てを真剣に聞くお前も悪い。適当に言っている事ぐらいわかるだろう。だったら、お前も適当に流しておけよ。っていうか、お前はそうしているんだとばかり思っていた。聞いていないようでいて、聞いていたんだな。考えているのかいないのか、わかりにくいな、お前。損だな、それは。もっと表に出せよ。
 いいか。俺とお前との共通は、筑波しかない。お前は俺自身に対しては興味を示しそうにない、そう俺は思った。それならば、俺は筑波を使ってお前とコミュニケーションを取るしかないだろう。別にお前はとらなくともいいと言いたいところだろうがな、俺は暇だったんだよ。見張っていろと言われても、見ているだけじゃ飽きるだろう。反応を返さないお前でも、目の前に人間がいるんだ。喋って何が悪い」
 言っておくが、俺がおかしいんじゃない。お前が馬鹿なんだ。そう言った四谷クロウはふと、何かを気付いた表情をし、ニヤリと笑った。
「お前さ。もしかして、俺に妬いていたのか? いいね、それ。その反応は新鮮だ。憎まれる事はあっても、嫉妬される事はないね、あまり。面白いのかもしれないな、お前。でも、お門違いもいいところだな。
 俺と筑波の関係はな、確かにクールじゃない。だけど、ドライなんだ」
 わかったか。
 筑波直純との関係をそう表現した男は、「じゃあな。これも貰っていく」と足に絡んでいた子犬を抱き上げ部屋を出て行った。

 わかったかと言われても、よくわからない。
 彼らの関係も、男が僕に対して思うその心も、やはり全てがわからない。
――ふざけるのが好きな人間なんだ、気にするな。
 いつだったか、筑波直純があの男の事をそう言った。
 それは、廃ビルでの開業のことではなく、四谷クロウそのものの事を言ったのだろう。今になって漸くその意味を悟る。
 どこからどこまでがふざけているのか、からかっているのかわからない。あの見目ならばその口から零れた事を全て真実だと錯覚してしまいそうになる。だからこそ、気をつけろ、なのだろう。言葉そのものだけを判断出来るのであれば、自分自身でこの男は気をつけなければならないと悟る事が出来る。だが、四谷クロウが相手ならばそれも難しい。
 あの忠告にはそこまでの意味があったのだと、少し遅いのかもしれないが僕は気付き、小さく笑った。

 多分、そんな男に一番悩まされたのは、付き合いの長い筑波直純本人なのかもしれない。

2003/08/18
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