# 93

 四谷クロウが出て行った後、僕はぼんやりとリビングで過ごし、筑波直純の帰宅を待った。だが、彼は一向に戻らず、少し辛いという程度にだるくなった体を持て余した僕は、男に会う事を諦めてベッドに沈み込む事にする。あまり空腹感はなく、ミネラルウォーターを飲み、解熱剤か痛み止めなのか、それとも抗生物質なのか何だかわからない薬をとりあえず飲み部屋を後にした。
 暗い廊下をそのまま歩くと、ふと喪失感にかられ、訳もなく寂しくなった。
 人並以上に体力があるわけではないが、体は丈夫な僕は、殆ど風邪などひかない。病気にもならない。だからだろう、一度気付いた寂しさが、胸に堪えた。
 体が弱っている時だからこそ、心もそうなってしまっているのだろう。ただそれだけだと普段なら一蹴出来るのだろうが、他人の広い部屋では、筑波直純のこの部屋では、今の僕にはそれは難しかった。
 先月風邪をひいた時は、寂しさを考える余裕も、またその必要もなかった。ただ佐久間さんに世話になったというだけで、それ以上でも以下でもなかった。しかし、今は…。
 想い人の部屋で、その人物がなく、また最後に接した彼の態度を考えると、色んな想いが複雑に絡まりあい、それが最終に行き着くところは寂しいというところであり、救いようがないように思えた。
 暗がりの中、玄関まで行き、暫らく無機質な冷たい扉を眺める。
 出て行きたい、この部屋から立ち去りたい衝動にかられた。だが、体力的に無理だと自ら直ぐに否定する。何より、ここで姿を消しては、あの男はそれこそ僕に愛想を尽かすだろう。
 男を怒らせたくはないし、態々失望されたくもない。だが、それはひとつの選択であり、自分が感じるほど悪いものではないのかもしれないとも思う。男の難しい顔を見たくないのならばそれは有効であり、男にとっても苛立つ僕の顔など見たくないのかもしれない。
 しかし、僕は出て行くという選択を切り捨て、寝室へと引き返しベッドで横になった。
 体がもたないと下した判断は、ただのいい訳でしかないのだと自分でもわかっている。だが、それは本当なのだと自分で自分を騙すように、僕は眠りについた。

 少し、不思議な夜だった。
 自分が自分であって、そうではないような。纏まらない考えも、それから適当に逃げる姿も、落ちる闇の底も、ベッドに沈みこむ身体の感覚も。何もかもが、少しいつもと違うような、けれどもそれを当たり前だと受け入れる、おかしな夜だった。


 充分な睡眠で自然に目が覚めた時、僕の中には昨夜の続きで、まだ不思議な感覚が残っていた。ゆっくりと見渡した部屋は、眠る前のそれと変わらず、ただカーテン越しの光りで濃い闇が去ったというだけのもの。けれども、いつものように他人の、男の気配を感じる事はなく、慣れ親しんだ自分の部屋のような気がした。本当に、おかしなことなのだが。
 ベッドに体を起こし、意識が散漫しているからだろうかと、ボケているのかと僕は自らに溜息を落とす。体はコルセットが巻かれた胸に多少の違和感はあるが、他には問題はないと、寝室を後にした。用を足し、洗面をしてリビングに向かう。
 居間への扉を開け、人の気配を感じた。死角になっているキッチンから、小さな音が響いてくる。
「ああ、起きたか。体はどうだ?」
 顔を覗かせると、僕に気付いた筑波直純がそう声をかけてきた。昨日の別れ際のような、特に怒った様子も苛立った様子もなく、淡々と言った男は直ぐに背中をむけシンクに向かう。鼻を擽るいい香りに、漸く男が料理中なのだと僕は気付いた。
「食欲は、あるか? なくても粥ぐらいなら食べられるだろう」
 それとも、病人と言うわけじゃないし、もっと重いものの方が良かったか?
 カチッとガスを止めながら、筑波直純はそう言い僕に振り返った。
「薬、飲むのなら食べなきゃ駄目だろう。座れよ」
 味の保障はしないぞと言いながら、座った僕の前に出してくれたのは、男が作ったらしい卵粥だった。進められるがままにレンゲをとり、僕は口に運ぶ。当たり前だが美味しいと驚くものではない予想通りの味だが、けれども柔らかく温かいそれは、ほっと落ち着くものだった。子供の頃に食べた記憶などないと言うのに、素朴な粥は何故か懐かしいものでもあった。
 男は先に朝食をとったのだろう。コーヒーを入れ席に着きながらも、それを口に運ぶ事はあまりなく、食事をする僕を眺めていた。
 食べ終えたところで、男が口を開く。
「俺は1時過ぎに帰ってきたんだが、あいつはもういなかった。いつ帰ったのか知っているか?」
【夕方、6時頃】
 テーブルに指先で記した僕の応えに、男は軽く眉を寄せた。
「何だ、そんなに早くに帰ったのか」
【聞いていない?】
「ああ。態々連絡するほど律儀な奴じゃないからな。こっちは昨夜から連絡をとろうとしているが、未だ電話に出ないくらいだ。犬をどうしたか聞きたかったんだが。知っているか?」
【彼が貰うと、持っていきました】
「やっぱりそうか。…ったく、自分は飼わないくせに、いい加減な奴だ」
 言葉ほどには怒りも何も込めず、逆に呆れたように男は肩を竦める。そして、携帯を取り出し、電話を一本かけた。相手は岡山のようで、犬を借りた店への対応を頼んでいる。
 僕はその間に席を立ち、リビングから紙とペンを取りキッチンへと戻った。他にも用があったのだろう、内容は憶測も出来ない会話を交わす筑波直純が、僕の行動を目で追っている。そのまま席に着いてもなお、その視線は僕を捕えていた。
 怒っているわけでも、監視しているわけでもないのだろう。多分、ただ見ているだけなのだろう。だが、僕としては妙な感じだ。それは、男への想いを自覚したからか。
 電話で話す男から視線を逸らし、けれどもその声を耳でとらえながら、僕は小さな息をひとつ落とした。なんだか、気まずいというか、落ち着かないというか。本当に妙な感覚だ。
 一昨日の夜に唐突に気付いた感情は、やはり怪我による熱のせいか、襲われそうになった恐怖で不安になったからなのかもしれないと、それらしい理由を探している自分に気付き、再び溜息を落とす。また、僕は堂堂巡りをはじめようというのだろうか。
 そのつもりはない。だが、一昨日ほどの決心もない。
 好きなのだと思う。いや、確かに恋情を抱いているだろう。それは間違いなく、もう誤魔化す事は出来ないものだ。
 テーブルに乗る、空になった小さな土鍋に、僕は目を細める。
【ごちそうさまでした。美味しかったです。ありがとうございます】
 確かに心にある言葉なのに、けれども物足りない思いが僕を襲う。本当に伝えたいのは、こんな言葉ではないのかもしれない。
 電話を終えた筑波直純が、僕の手元のそれに気付き「ああ、お粗末さま」と応える。
「全部喰ったな。食欲があるという事はいい事だ。一杯喰って安静にしていたら、直ぐに治るさ、心配するな」
 そう言い、男は目を細めて笑った。
 やはり、どうしようもないほどに惚れているのだと、その笑みに思い知る。

 胸から溢れ出しそうなほど、その想いは僕の中で膨らんだ。

2003/08/30
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