# 94

 冷えた水で薬を飲む。体が火照っているのだろうか、その冷たさが落ちて行くのをリアルに感じた。
「どうした? 寒いのか?」
 無意識にその流れを追うように、胸から腹へと手を滑らせた僕に気付き、筑波直純は問い掛けてくる。
「それとも、痛むのか?」
 大丈夫だと首を振り、僕は小さな笑みを口元に浮かべた。
「それならいいが。無理せずに、辛くなったら言えよ」
 向こうへ行こう、と僕を促しながら男は席をたつ。キッチンからリビングへと場所を変え、男はなおも「無理はするな」と僕に言った。
 ソファに座った男の足元に腰を下ろし、テーブルの上で僕は文字を記す。
【もう、怒っていないんですか】
 何が、とは訊き返しはしなかった。僕が指すものを汲取り、男は眉間に皺を寄せ短い沈黙を作って言った。
「……別に、お前に怒っていたわけじゃない」
 そうですか、とはいかない返答に、僕は短い息を落とす。別に怒っているわけでも、謝罪の言葉が欲しいわけでもない。ただ、男の不機嫌が僕に向かっていたのはやはり事実で、それを隠そうとする男の真意が掴めず息を吐く。
 昨日の昼から今朝までの間で、男に何があったのかなどわからない。全てを知りたいとも思わない。ただ、この変化を納得するには材料が少なすぎる。僕に対する労りがどこからくるのか、知りたかった。
「確かに、そう思われる態度を取っているのを自覚していて、弁解も何もしなかったのは、悪かったと思う。すまない」
 こんな言葉を聞きたいわけではない。
 僕は、怒ってなどいない。確かにあの態度に悲しくなったが、それは僕自身のことだ。男のあの態度がどこから来たのか、今の態度はどこからのものか知りたいだけだ。この優しさは偽りではないだろう。だが、それと同じようにあの苛立ちも本物だったはずだ。
 筑波直純の事を知りたいと思う。向けられるものを全て理解出来はしないだろうが、それでもその理由を知っておきたいと思う。善意も悪意も、僕に対して何をどう思っているのかを。
 あまり自覚はないが、怒らせたのだろう自分が怒っていないのかと聞くなど、失礼なものなのだろう。だがどれだけそうであっても、今は聞かねばならないと僕は思った。僕は男の苛立ちの理由を知っておくべきだと思った。
 普段は落ち着いた男のその変化を、憶測だけで量りきるのは無理な事なのだ。ならば、訊くしかない。
【僕に、怒っていた】
 言葉にするまでは単なる疑問だったものが、大きな意味を持って僕の中で膨れ上がる。僕はその勢いのまま筑波直純を見つめ、もう一度そう問うた。
「いや、違う。違うんだ、保志」
 僕の目を静かに見つめ返し、小さく首を振る。
「俺が怒っていたのは、苛立っていたのは、自分に対してだ」
 それは、既に出された、結論のような答えだった。見つめた男の瞳は、何かを諦めたような、納得したような、どこか色のないものだった。
 本心は、もっと別のところにあったのではないか。その答えを出す前、あなたは一体何を考えていたのだろう。
 僕は男に問い掛ける。
 男の怒りを前にしたのは、一昨日の事だ。あれから、僕は熱に倒れていたが、男には十分考える時間があったのだろう、結論を出す程に。だとすれば、今更ながらの問い掛けなのかもしれない。
 けれど、僕とて引くことは出来なかった。
【僕の何に、あなたは怒った?】
「保志…」
【あの時は、僕を憎く思ったのでしょう?】
 そうではなかったと言うのなら、そうなのかと素直に頷く方が、僕にとってもいい事なのかもしれない。だが、何故かそうは出来ず、男と向き合えば向き合うだけ、あの時の態度が気になった。知らずにはいられない、そんな焦りが胸を襲う。
 これは、好きだからこそなのだろうかと、ふと頭の中で冷静な部分が思いつく。ただの知り合いならば、このままで終わったのかもしれない。筑波直純だからこそ、好きな相手だからこそ、自分に対しての態度がこんなにも気になるのだろうか。
 そこは気に入らないから直せと注意されても、僕は多分直せられないだろう。それがわかっていても、聞きたいのだ。言葉が欲しいのだ。
 男が飲み込んだ言葉が。
「…参ったよ」
 僕の視線に瞼を伏せ、筑波直純は溜息交じりに言った。
「漸く自分の中で折り合いをつけたと思ったらこれだ。お前、ホント、ズレてるよ」
 これが自覚しての事だったら、怒れるんだけどな。
 苦い笑いを落とし、男は髪をかきあげながら肩を竦める。そして、「確かに、お前に対しても怒りは持ったさ」と言葉を紡ぎ始めた。
 僕は、何故か少し緊張を覚える。
「非力というか、頼りにならないというか。そんな風に自分が劣る人間だったのなら、わかることだ。だが、俺は、確かにどれほどの力があるのかわからないし、証明のしようもないが、少しは力のある存在だと思っている。役に立つかはともかく、はじめから何もないと判断されるほどの能無しだとは思っていない」
 何が言いたいのか、よくわからなかった。
 だから、その後に続いた言葉も、直ぐには理解できなかった。
「だからこそ、悔しかったんだ。お前が全く自分に頼らない事が。いや、その選択肢すらお前の中に存在しない事が、悔しくてたまらない。今でもそう思っている。情けないというよりも、そんな自分が惨めでやるせない」
 折り合いをつけたというその感情を湧きあがらせたのだろうか、男は膝の上で拳を強く握った。自分が訊きだそうとしたことなのに、その姿に少し後悔を覚える。僕は決して、もう一度こうして、同じように男の心を痛めたかったわけではない。
「前回もそうだが、今回もそうだ。襲撃に関しては、お前も予測はしていなかったのだろう。何故俺を呼ばないのかなんて、無茶は言わない。だが、お前は俺が目の前に居ても、呼ばないんだ。存在を否定する事はない。俺という人間は見ている。けど、それだけだ。
 なあ、保志。俺はそんなに頼りにならないか?」
 そんな事は、考えた事などない。頼りないなど、一度も思ったことはない。僕は迷うことなく首を横に振った。しかし、同時に頼りになるとか、頼ろうとかそんな考えを持ったこともないことに気付く。だが、それはこの男だから特別だというわけではなく、僕の性格上、それを意識せずにきたのだと思う。
 奢っているわけではない。確かに、僕は誰かに支えられて歩いてきているのだろう。一人でここまできたわけではない。だが、助けて欲しいと縋りついたわけでも、どうにかして欲しいと願ったわけでもなく、人と人との関わりの中での事だ。自分に恩を返す力も何もないのはわかっているので、無償でそれを請うなど、僕の中には存在しないものなのだ。僕はそれが当然と思っている。
 だが、この男だからこそ、と思ったこともないとは言い切れない。そう。これ以上男の足枷になりたくはないとあの時僕は確かに思った。
 それが男を苦しめたというのだろうか…?
「お前がまた襲われて怪我をしたと聞いた時、俺がどんな気持ちだったかわかるか、保志。そのお前が、突然部屋から居なくなったと知ったときの気持ちは? 別に、哀れめと言っているわけでも、考慮しろと言っているわけでもない。ただ、お前にはその考えがなかったという事実が、俺には受け入れ難いんだ。お前が、悪いわけじゃない…。…って、何を言っても責めているにしか聞こえないか、お前には」
 筑波直純はふうっと長く息を吐き、小さく苦笑した。けれども、直ぐに表情を引き締める。
「責めているわけじゃない。だが、折角の機会だ、訊いてくれ。
 不安を胸に抱えながら店に行けば、しろっと仕事をしている。飛び込んだ俺を、一人慌てて何をしているのかというように呆れるように見、そして笑う。心配するこっちを気にせずに、仕事の段取りを決める。確かに、そんなお前に苛立った。腹が立って、全てが気に入らなく思った。だがな、それを維持させるだけの反応をお前は返さないんだ。お前に苛立っても無駄なのだと悟ったら、俺はその怒りを自分に向けるしかなかった。
 何を考えているのか突然キスをしてくる。少しは俺の気持ちを汲取ったのかと思えば、次の瞬間には伸ばした手を払う。お前が何を考えているのか分からない。分からない自分の無能さが嫌になる。そんな俺だからこそ、お前は頼らないのだろうか。何一つ口にしないのか。そう思うと切りがない。役に立たない自分自身に腹が立つ。
 堂堂巡りだよ。そんな風に考えても、結局自分を納得させるだけの答えは見つからず、お前と接してまた同じような憤りを感じる。
 馬鹿だろう。そう、自分でも馬鹿だと思うさ。だが、そんな感情を上手くコントロールは出来ない。それは、お前のせいではなく、俺に問題があるんだろう。だからさ、別にお前に怒っていたわけじゃない。これはもう、俺の性格が原因ってだけだ。我が儘な子供みたいだな、自己中で、情けない奴だ、俺は。自分でも、出来た人間だとは思っていない。それこそ、クロに言わせれば、俺は馬鹿で不器用なのに身の丈に合わない考えを持って自滅している奴なんだとさ。半分以上はあいつの憎まれ口だと思っていたが、そうでもないのかもしれないな。
 俺はそんな男だ。どうだ、呆れたか?」
 自嘲気味な笑みを落とす男の本心は、果してこれが全てなのか。多分、違うのであろう。
 簡単に怒りを自分に向け、それを納得するなど、人間そうできることではない。まして、昨日の今日でこんな風に話す事など出来ないはずだ。それが出来る男は、今なお怒りを隠しているのか、それとも、こうした事に慣れているのか。どちらだろうかと、僕は静かな男の顔を見た。
 そこに、苦痛はなく、けれども寂しさを見る。
 守ってやりたいと、手を伸ばし抱きしめたいと思うようなものではなく、それはただの現実であるかのように男の一部であった。孤児であるこの男は、何かあるごとに自分の感情に一人で区切りをつけ、その足で一歩一歩ここまで歩いて来たのだろう。静かな強さは、けれども切なさを匂わせる。
 折り合いをつけるために唇を噛み締め、そこから溢れ出した血を男は舐めて生きてきたのだ。どれだけ理不尽な事でも納得しなければ生きていけない現実を、一人で歩いてきたのだろう。
 呆れたかと問われれば、これ以上に呆れた事はない。
 何故、自らをこうも傷つけられるのだろうか。
 僕ならば決して選ばないそれを簡単に選ぶ筑波直純がとても不思議で、けれどもわかるような気もした。この男に似た少年を、僕は知っている。
 あの亡き友も、そしてこの男も、呆れるくらいに純粋だ。
 僕には到底真似など出来ないくらいに、脆く、けれども強い。汚れを寄せ付けないそれは、甘美な魅力で人を魅了するが、自らには何の益もないのだろう。
 この世は、そんな柔らかすぎる人間には生き難い場所だろうと、僕は目の前の男を見ながら思った。自分を傷つけて得る生は、ただ流されるままに生きてきた僕には眩しく、そして果敢なげに映る。

 僕には何が出来るのだろうか。
 この男のために、もう少し出来る事があるのではないだろうか。

 今すぐ、僕はその応えが欲しいと思った。

2003/08/30
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