# 95

 筑波直純が僕に不安を抱くのは、多分どんなに努力しようと、僕が僕である限りかわらないだろう。彼が望むのなら、僕は何度も好きだと言おう。だが、それではきっと男は満足しない。
 僕は僕である限り、その言葉に男と同じ熱を混ぜる事は出来ない。そうして、その温度差が男を更に苦しめる材料の一つとなるのだ。
――好きだと言ったらそれ以上に好きだと言い返されなきゃ、相手を信じきれない臆病者だ。っていうか、自分に自信がなさ過ぎるガキだ。
 昨日、四谷クロウはそう言った。きっとこれは、単なるからかいの言葉ではなく真実だろう。筑波直純を好きだと思う。僕に好意を抱いているというのも、何故そうなったのかと言う疑問は未だにあるが、信じられるものだ。だが。
 僕は、保志翔という男は、筑波直純の恋愛相手には似合わないというのも疑うなき事実だと思う。相手を信じさせる事も出来ない僕に、正直、筑波直純は少し荷が重い。
 昨日の四谷クロウが言った事を思い出せば、その全てを言い当てているように思える。
――お前なら逃げ出しそうだ。
 確かに、自覚はないが、何度もそうしたのだろう僕は。そして、また同じ事をするかも知れない。
――本当は好きでも何でもなく、愛情を向けられるからそう錯覚しているだけなんじゃないか。
 そんなことはない、とは言い切れない言葉。
――互いの感情を天秤にかけ比べてみたりしないのか?
 そう、している。温度差に苦しむ筑波直純同様、僕もその差を意識せずにはいられない。どこで折りあいをつけて良いのか、均等にならなければならないのか、それさえもわからずただ天秤を睨みつけるだけだ。
――何でお前みたいな奴が筑波に惚れるか、そもそもそれが間違っているって言うんだ。お前がそうならなきゃ、筑波だって諦めただろう。
 好きだという感情を持ったことに、後悔はない。だが。やはり、僕が間違っていたのだろうか。僕が悪いのだろうか。
――何が何でも死物狂いであいつの傍にいるという覚悟を示し続けなきゃ、お前、痛い目見るぞ。声意外のものも失いたいのか?
 ただ。ただ自分が痛い目を見ればいいのなら、こうも悩まないだろう。自分の行動によって、知らずに男を傷つけている事が、僕は悲しくてたまらない。確かに、それは僕の罰なのだろう。失うものがなんであろうと、差し出す覚悟はある。
 四谷クロウの言葉は、口調こそ違えぞ、全て僕の胸にあるものだ。迷いも怒りも、何もかも。
 しかし、それでも。何を目の前に突きつけられようとも、僕は筑波直純への想いを変えられない。
 ただ、自分の事だけに精一杯なこんな僕が、一体男に対して何を与えられるというのだろうか。出来る事など、何もないのかもしれない。僕は与えられてばかりで、返すことも出来ない人間なのだ。
 何故。本当に男はこんな僕を好きになったのだろうか。


「この歳になれば、恋愛なんて始める前からある程度見えるものだろう。こいつとはただの付き合いで終わるだとか、結婚まで考えられるとか。それこそ、老後を想像出来るだとかさ。適齢期の恋愛だと最初から結婚だけで見る者もいるだろうし、逆に若い時はそこまで考えない。それなりに色々と経験してきて、やっとなのか、もうなのかはわからないが、俺も30だ。少しは人生が見えてもおかしくはないということなんだろうな」
 落ちた沈黙を気にすることなく、男は突然そう言って笑った。だが、正直僕には全くわからないものだ。呆れるかと言う先の質問とは関係の見えない話題に、首を傾げる。
 だからどうだと言うのだろう。
 何を言っているのだかと少し怪訝な顔をした僕に、男は小さく肩を竦めた。
【それが?】
「ああ。それでも、例外はあるというわけだ。お前はあらゆる意味で例外だ」
 だから、どういう事なのか。
 更に眉間に皺を寄せる僕は、男はただ話題を変えようとしているのかと思った。自分が嫌になったというその告白に対し、結局まともな返事を返さない僕に、今度こそ男はほとほと呆れ果てたのかもしれないと。
 だが、そうではなかった。真摯過ぎるその言葉は、先の言葉同様、僕を想う彼の真実であった。
「お前の事を、女として扱っているつもりはないが、絶対にないとも言い切れない。女としか恋愛をした事がないから、頭ではそう思っていても、心がついていかない時があるのは事実だ。だが、俺は女が欲しいわけじゃない。俺が欲しいのは、お前なんだ、保志。それを忘れないでいて欲しい。
 俺は、お前とずっと一緒にいたい。傍にいて欲しい。可能ならば、結婚したいぐらいだ。――って。そう驚くなよ、失礼だな」
 …結婚?
 何を言ったのか一瞬わからず、わかると同時に僕は目を剥き男を見た。苦笑した筑波直純がそう言って僕の頬を撫でてくるのに反応できず、ただただその顔を見る。口元を綻ばせる男に、ただの軽口なのだろうと僕は判断した。だが、それでもその単語が会話に出てきた驚きは消えはしない。
「本気でプロポーズしたら、一目散に逃げそうだな、お前」
 …そんなことはない。
 何が楽しいのか、僕の様子に筑波直純は喉を鳴らした。これはもしかして、からかわれているのだろうか…?
「だがな、保志。残念ながら、嘘でもないぞ。ヤクザ家業についているんだ。一般的な同性愛者のように世間に認められたいなどという考えは端から俺にはない。だが、そんな俺でもそう考えるくらい、お前が好きなんだ。紙切れ一枚のちゃちな契約でも、お前を縛れるのならそれを利用したい」
 どうしようもないくらいに好きなんだ、と筑波直純は笑いながらも瞳に力を入れた。
「それこそ餓鬼のように、同じ思いを返して欲しいと我が儘を言いたいくらいだ」
【僕も、好きですよ】
「そうだろうな。そうでなきゃ、お前は他人とこんな関係にならないだろう。わかっている」
【自信家だ】
「いや、自信なんてないさ。…お前とは、その一瞬、一瞬だ。今は、ま、いい感じだが、次の瞬間はわからない」
 捉えどころがなさ過ぎる。お前が一体何を考えているのか、頭をこじ開けてみてみたいよ。
 同じように茶化すような口調でそう言いながらも、真剣に、そして辛そうに、男は笑った。
 頭をこじ開けてわかるのならば、僕は自らメスを握るだろう。
 男の言葉に僕は軽く笑い、そしてペンを走らせた。上手い言葉も出ないし、説明も出来ないが、今この一瞬は確かにある言葉を記す。
【あなたは、恋愛はある程度はじめから見えるものだと言ったが、僕にはわからない】
 そう。そう言った男には果して僕との関係が、未来が、どんな風に見えたのだろうか。僕がそうあるべきだと思ったように、直ぐ先に終結を見たのか、それともいつまでも続くと見たのか。終わるならば、それは一体どのようにして終わるのか。続くならば、何がそうさせるのか。一体何をどこまで、その頭に描く事が出来たのだろう。
【僕は、そもそも恋愛が何なのかわからない。あなたの事を、好きだと思う。それだけではあなたは不安だとしても、今の僕にはそれ以上言えはしない。思いがないわけではない。ただ、僕自身それがどの程度の大きさなのかわからない】
「……どういう事だ?」
【上手くは言えませんが、僕には自分の中にあるあなたへの思いを量る術がない。確かに、恋愛感情を僕という人間が持っているのならば、間違いなくそれはあなたへのものだと思う。今、そうなのだと思えるのはそれだけだ。だけど、それがどの程度のものなのか。僕が持ち得る感情以上に膨らんだものなのか、それとも、まだまだ膨らむ余裕があるのか。今の想いがどれくらいの大きさなのか、比べるための対象物が僕にはない。
 初めてなんです。こんな気持ちを持ったのも、こんな考えを持ったのも。正直、わからなくて自分でも戸惑う。本当に恋情なのかと自ら問い掛ける事もある。だが、僕も。あなたの側にいたいと思うし、好きだと思う。それは、確かなものだと思っている】
「…思う、か。そうだとは言い切らないのか?」
【そこまでは、わからない】
 僕の返答に、頼りがないなと、けれどもどこか嬉しそうに筑波直純は笑った。
「なあ、いつになったら気付きそうだ?」
 僕は、首を傾げる。
【終わったら、気付くのかもしれない】
「酷いな。でも、お前らしいよ」
 そう言った彼の目は、とても優しかった。僕の全てを受け入れているかのようで、打っても響かないところさえ理解されているようで、罪悪感が心に浮かぶ。多分きっと、それは無理をしての事なのだ。僕が彼にそうさせているのだ。
 同じように僕も好きだと、愛しているのだと単純にそのまま同じ想いで返したのなら、この男は喜ぶであろう。でも、僕にはそれが出来ない。この心を伝える事は出来る。好きなのだと。しかし、わからないと言ったのも本当のことなのだ。その迷いのまま、それらしい言葉を返しても全く意味がない。表に出した途端、きっと味気ないものに変わるだろう。
【怒りましたか?】
「何故? 何故そう思う」
 静かな声に、僕は少し視線を落とした。この男は悩んできたのだから、僕が言った好きだという言葉を単純に取っていただけでないと言うのはわかる。けれど、僕はそれでも、もっと早くこうした胸のうちを明かすべきだったのだろう。隠していたいと思ったわけでも、まして騙すわけでもないかったが、言葉が足らなさ過ぎたのは事実だ。
【あなたの言葉を、僕は上手く受け取れていない。いつも理解しきれていない気がする】
「そんなことはないさ。恋愛に限らず、他人との関係はそんな事ばかりだろう。気にすることじゃない」
【面倒だとは、手間がかかるとは思わないんですか?】
 さらりと認める男に、僕は思わずそう訊いた。もし自分ならば、さっさと見限っているだろう。記した文字を見ながら、そうじゃないかと確信する。こんな僕の相手など、面倒でないはずがないのだ。
 しかし、男はそれには答えず、低く笑った。
「恋愛は初めて、か。なるほどな」
 その言葉に、僕は顔を上げる。
「お前の気持ちもわからなくはないと言うことだ。俺も、初めての思いに戸惑った経験があるということさ。誰でもあるだろう。だが、初恋なんて、大抵戸惑っている間に終わる。子供の頃の事だから、単純な考えしか出来ないし、相手を思いやるにも限度がある。だが、お前は違う。社会でそれなりの経験をした大人だ。他人との関係の築き方も知っているからこそ、自分の思いだけで突っ走るには難しい、子供と違って色々な柵がある。考えも深い、その分戸惑う事も多いだろう。まして、他人の恋愛にもあまり接した事はないんだろう、お前?」
 僕は、確かにそうだと頷いた。それと同時に、よくわかるものだと少し感心もする。
「なら、わからなくて当然だな。小さい頃なら感情なんてころころ変わるものだが、その歳じゃ難しい。俺は初めて恋をしてそうこうしている間に、いつの間にかまたもっと好きな奴が出来てと、そん感じに自然に覚えていった。頭なんて要らなかった。確かに、これが本気の恋だというのをしたのは高校を出てからだが、結局は小さい頃のそんな経験があったからこそのものなんだろう。今この歳で初恋をするのは、考えてみるだけでも大変そうだ」
 俺も上手くは言えないから役にはたたないな。
 そう言った筑波直純の言葉は確かに、僕には何となくわかるという程度で、自分では遅い初恋だからこそ戸惑っているのかどうなのかはわからない。だが、わかると言ってくれた男の言葉が、単純に嬉しかった。
 子供のように、もっと全てを簡単に考え、男を求めたならば。僕は楽になれるのかもしれない。
 だが、それはやはり出来ないことだ。やはり僕はもう大人であり、25の男として、30の男の立場やその人生を考えなければならないとそう思う。
 けれど、少しだけ。
 今は少し、それを忘れたく思った。何も考えずに、甘えてみたくなった。子供のように。
 男の膝に頭を寄せると、筑波直純は何も言わずに優しく髪を撫でてくれた。
 暫くそのままでいると、「…保志」と名前を呼ばれ、僕は顔を上げる。
 促されるままに、引き上げられるような形でソファに座ると、筑波直純は僕にキスをした。ただ重ね合わせるだけの、柔らかいキスを。
 そして。

 少し掠れた声で、男は言葉を紡いだ。
 お前が欲しい、と。

2003/09/08
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