# 97
「何だ、あいつに訊いていないのか? 話をしなかったのか?」
男は余った包帯を仕舞いながら、そう言って呆れた。
体を重ねた後、心配する男と一緒にシャワーを浴び、胸の手当てをしてもらうために再びリビングに戻った。料理は出来るようだが、先程言っていたのは謙遜ではないらしく、男は包帯と格闘した。なんだか微笑ましくて笑うと、自分で巻くかと匙を投げられた。それならこのままでいいと僕が開き直ると駄目だと顔を顰め、不器用ながらも何とかずり落ちない程度にコルセットを固定してくれた。効果があるのかどうか怪しいが、大立ち回りをする気はないので、問題もないだろう。
そこで僕はふと思いつき、ひびが入ったと言っていたがどの程度のものなのかと男に訊いてみた。すると、男は顔を軽く顰め、四谷クロウに訊かなかったのかと肩を竦めるながら溜息を吐いた。
今更ながら。彼が主治医であったのかと僕は気付く。
【彼が診てくれたんですか】
「いや、別の奴だ。――って、お前は本当に何も訊いていないのか」
【話はしましたが、特には何も】
そう答えた僕に、男は暫しの沈黙後、「…何の話をしたのか、訊いてもいいか?」と何かを考えているかのような顔で聞いてきた。
【正確には、彼が話すのを僕は聞いていただけで、会話はあまり交わしていません。彼はあなたの話をしていた。僕が何も話さないので、共通となる話題はあなたしかないから時間つぶしに話しただけだそうです】
「そうか。どうせ、悪口でも言っていたんだろう。…別に、苛められたわけじゃないんだな?」
【全く】
「それなら、いい」
【彼はよく僕の面倒を見てくれました】
「俺にそう言えと言ったんだろう、あいつが」
良くわかるものだなと僕が驚くと、「いつものことだ」と男は湿った髪をかきあげながら立ち上がった。キッチンに向かい、コーヒーをセットする。
「あいつに訊かなかったのは、知らないと思ったからか? それとも、興味がないのか、逆に心当たりがあるのか」
キッチンとリビングの仕切りの壁に凭れ、床に座る僕に男は強い視線を投げかけてきた。何を指しての言葉か、考えなければわからないものではない。
僕は、直ぐに首を左右に振った。だが、それではどれを否定したのかわからないのだろう、男の眉が寄る。
【四谷さんに訊かなかったのは、考え付かなかったから。別に、興味がないわけじゃない。ただ、昨日は思いつかなかった。怪我の事も、同じ】
僕がそう記す間に、男は近付き上から僕の手元を見下ろしていた。
「思いつかなかった、か…。……まあ、それはもういい事だ」
昨日の話をしても仕方がないと男は溜息交じりに言う。思いつかなかったのは、一緒にいたのが四谷クロウだからだろう。彼自身に中てられたというのも多少はある筈だ。僕のせいばかりではない。確かに、熱により思考が思うほど働かなかったのも、事実ではあるのだが。
だが、彼も彼だと、少し腹立たしい気もした。四谷クロウは何故、何も言わなかったのだろうか。そう考え、彼の場合だからこそ、僕に興味がないだとか、彼だからこそのものだったのだろうと納得もする。実に、あの男らしい。
「お前、駅の階段から転げ落ちたのは覚えているな?」
その言葉に頷く僕を見、男はキッチンへと戻っていく。
「たまたま、その転げ落ちたところにあいつが出くわした。本当に偶然だ。でも、それで助かった。そうじゃなきゃ一体どうなっていたか」
そうして話しはじめた男の話は、少し信じられないものだった。
あの男達は、気を失った僕を知り合いだと言ったらしい。それを、四谷クロウも知り合いだと言い切り、逆に男達を追い払ったとの事だ。僕の事を覚えていたのも凄いが、全く状況を知らないのにそんなハッタリをかましたとは驚きだ。もし、本当に彼らが僕の知人であったのなら、彼の方こそ悪者なのに。何より凄いのは、プロであるのだろう渋る男達を言いくるめ、騒ぎを訊きつけてきた警官までも脅して僕の身柄を守ったということだ。
どんな脅しをしたのかは知らないが、気を失った僕を知り合いの病院まで運ぶ事は大変な事であっただろう。そんな面倒をあの男が引き受けるとは、事実だったとしてもそう簡単には信じられない。
「俺のところに連絡が来たのは、かなり経ってからだ。第一声が、『保志翔を拾ったが、どうする?』だ。何を言っているんだと呆れ、話を訊いて血の気が引いた。だが、仕事を放り出すわけもいかず、漸く帰ってみればお前はいない。なのにあいつは、『コンビニから帰ってきたら、いなくなっていた。元気になったから帰ったんだろう』だ」
お前達二人、揃って俺を苛めているんじゃないかと本気で思ったよ。
苦笑しながらそう言った男は、キッチンからふたつのコーヒーを手にして戻ってきた。ひとつを僕に手渡し、自分の分はテーブルに置く。そうして、僕と並ぶように床に座り、取り出した携帯で何処かに電話をかけた。先にメールが来ていたのだろう、その返事をしている。
常に忙しい男だと、短い会話を交わす姿を眺めながら僕は思った。通話を終えた筑波直純は、コーヒーを啜る僕に「悪いな」と謝罪を入れ会話を再開する。
「お前の怪我は、大したことはないそうだ。肋骨にひびが入っているのは事実だが、そのうちくっつく。ま、折れ易くなっているんだろうから、安静にしていろ。後は、打ち身がある程度だ。頭は異常なし。たんこぶひとつない。逆に頭を庇って腕は痣と擦り傷が多いがな」
セックス中は自分の身体になど関心が向かなかったが、その後シャワーを浴びた時に見た腕や脚の青痣を思い出す。痛いだろうと、子供が悪戯をするように男はそこを押し、顔を顰める僕を笑っていたのはつい先程のことだ。
ひとり気恥ずかしさを覚え、僕はカップの中に視線を泳がせる。
そんな僕の動揺には気付かず、筑波直純は幾分声を低めて聞いてきた。
「それで。心当たりは?」
【ありません】
僕の答えに「そうか…」と男は返事し、けれども考え込むような沈黙を作る。また、佐久間さんの仕業だと思っているのだろうかと、僕は訊ねてみた。だが。
「……今回は、違うような気がする。探りを入れたが、佐久間も天川も心当たりはなさそうだった」
佐久間はともかく、天川はあんな演技は出来ない。
一体天川がどんな反応を見せたのかは知らないがそれには僕も同感だ。あの男は嘘ひとつまともにつけはしない。
「何より、天川はお前の事よりも、他に気掛かりがあるようだった。天川ではないだろう。佐久間という可能性もなくはないが…」
【違うと思います、彼は】
「……また、根拠のない自信を」
【確かに勘でしかないが、僕の勘は良く当たる】
そう言った僕に、「それは凄いな」と、全く凄いとは思っていなさそうな投げ遣り口調で男は溜息交じりに応えた。軽い冗談だというのに、こうも呆れられては、少し遣る瀬無い気がする。だが、態々取り繕うほどのものでもない。
男の言葉に肩を竦め、僕は残りのコーヒーを飲み干した。
「しかし。そうとなれば、余計に謎が深まるだけだ。一体、誰に狙われているんだ、お前は」
男の言葉に、僕は首を傾げる。そんなこと、知るわけがない。あの時捕まっていればわかったのかもしれないが、そこまでしてわかりたいものでもない。
「もっと危機感を持て」
持ったところで、回避出来るものではないと思うのだが。
「捕まってからじゃ遅いんだぞ」
【なんだか、僕は厄介な事になっているみたいだ】
「…何を今更認識しているんだ。みたい、じゃないだろう。なっているんだ」
大きな溜息を零した男は、「俺は心配をしているんだ」と何故か悲しげに言う。
「突然奪い取られるなんて…二度と御免だ」
独り言のように呟いたそれは、心配だとか、一緒にいたいだとか、好きだとか。今まで送られた言葉以上に、男の本心であるように思えた。
二度と御免だという言葉は、前例があってこそのもの。
その時の苦痛を思い出してのその言葉は、僕以上に想うものが男にはあるのだということを、ありありと僕に教えた。僕を失うことではなく、何かを失うことによる苦しみを男は恐れているのだろう。過去と同じ痛みをしたくはないということなのだろう。
男の本音は、メインは僕ではなく、過去の人と現在の自分自身なのだ。
それを責めようとは思わない。僕にもその感情は覚えのあるものだ。
だが、それでも。
それでも僕は、身勝手な事に少し悲しく思った。
2003/09/08