# 98

 急遽貰った3日の有給に、本来の休日2日を加え、計5日間。僕は筑波直純の家で軟禁状態にあった。僕がいるからといって忙しくなくなるわけでもない男にすれば、自分がいない部屋に誰かを置くなど煩わしと思えるのだが、そうでもないらしい。
 帰る度に大人しく部屋に留まっている僕を見、ほっとした表情を浮かべる筑波直純に言える言葉などない。仕方がないかと早々に抵抗は諦め、5日間、僕は殆どの時間を一人ぼんやりと過ごした。考えなければならない事は山のようにあるのかもしれないが、考えようという意思は働かず、実際には考える必要は全く無いのではないかという都合のいい判断を下し呆けていた。
 退屈だからとはいえ、サックスを吹く事も出来なければ、おかしなことに禁断症状も特に現れず。した事と言えば、部屋にあったクラシックのCDを何となく耳に入れていた程度だ。
 そんな事をしているうちに新たな週があけ、慣れたのか回復したのか、体のだるさも消えた、今日。漸く僕は仕事への復帰を筑波直純に伝えた。はじめは首を横に振ったが、それを通せる権利は彼にはなく、最後には渋々頷いた男は、「お前には負けるよ」と弱音のような言葉を吐いた。別に勝ったつもりなど更々なく、何を言っているのかと呆れる僕に、外では気をつけろよと幾つかの注意をしながら、帰って来たのは明け方だというのに昼過ぎに出かけていった。本当に、忙しい男だ。
 そんな男を見送り、少しして僕も部屋を後にした。
 久し振りに自分の住処に帰り、保険証を持って直ぐまた街へ出る。電車に轢かれて木端微塵になったらしい携帯を買いかえた。番号はそのままなので、手続きを済ませると早速貯まっていた幾つかのメールが入ってきた。殆どが藤代からのもので、道端演奏の結果報告やその誘いなどであった。
 返事を打ちながら確認した時刻は、まだ職場に向かうにはかなり早い時間である事を教えていた。
 迷う事無く僕は行き先を決め、足を向ける。

 静かな公園墓地に降る冬の雨は、どこか物悲しいものだった。これが雪になれば、綺麗だなと亡き者に笑いかけられるのかもしれないが、降り始めたばかりの小さな雨粒が姿を変えることはなさそうだ。
 どんよりと重い雲を仰ぎ、僕は小雨に濡れながら、友が眠る場所へと足を進める。天候の関係もあるのだろうが、正月が過ぎたばかりの平日の墓地には、あまり人影はなかった。
 だが。
 目指す先には、人がいた。
 友人の墓の前に座る先客を視界にとらえ、視線を外すように僕は小さな溜息を落とした。ゆっくりと運んでいた足を止め、どうしたものだろうかと一瞬悩む。
 迂闊に近付いては自分が傷付きそうな空気を感じ取ったからか、それともただ面倒だと思ったからか。
 理由は愚か、その答えを出すよりも早く、完全に自分の世界に入り込んでいる空気を纏った男が、僕に気付きチラリと視線を向けてきた。
「…何だ、お前か」
 あの夜から初めて顔を合わせるにも関わらず、最早僕の事など興味がないように、天川司はただそう呟く。そして、倒れるのではないかと思うような不安定さでゆらりと立ち上がり、弟が眠る墓を見下ろし目を閉じた。
 静寂に包まれたその姿は、まるで魂そのもので語り合っているかのような、厳かな儀式のように思えた。僕の目の前でそんな姿を見せる事が意外であり、同時にこの男だからこそ出来る事だとも納得する。
 怒りも悲しみも喜びも。男は全ての感情を自分のものとして晒し出せるのだ。それは彼の能力と言えるのだろう。無防備であっても、不必要なものであっても、他人を傷つけるものであっても。男はあの頃と変わる事なくそれをもち続けている。
 そんな天川司を純粋だと評した友人は、今なおそう言う事が出来るのだろうかと、僕は佇むその姿を見ながら思った。確かに、その言葉は間違ってはいないだろう。だが、評価出来るものでは決してない。少なくとも、僕にとっては。
 気付けば僕は足を踏み出し、静かな兄弟の空間を侵していた。
 傍に立った自分を見る男の視線を感じながら、僕は目を伏せ黙祷を捧げる。邪魔をして悪いが、この男と同じ世にいるのは僕なのだから優先させろ。そんな言葉を友人に語りかけ、僕は目をあけると隣の男を見据えた。
 空から落ちる雫が、髪を濡らし、顔に水滴を浮かべる。流れるそれをそのままに、僕は眉間に皺を寄せる天川の顔を見る。僕は男を怒らせたいのだろうか。浮かんだ疑問をそうではないと直ぐに否定し、では一体何をしようと言うのかと自らに問い掛ける。
 話し合いたいなどと言う事は、絶対にない。
 友人に託された言葉を伝えたいという事も、ない。
 一番近い気がするのは、ただこの男を眺めてみたいと言うものだろうか。友人が見た顔を俺は男に見る事は出来ないだろう。憎まれている自分に微笑みかけるほど器用な男ではなく、また自分も素直にそれを受け取れる人間でもない。しかし、少しはこうする事で天川司という男を見れる気がした。この場なら、知る事が出来そうな気がした。
 思えば、今までそうした個人としての目をこの男に向けたことはない気がする。常に、天川司は友人の兄であった。彼が亡くなっても、僕のその事実は変わる事はなく、また最近では佐久間さんの思いを通してでもこの男を見ていた。裏の社会で生きる者でも、誰かに大事にされている者でも何者でもなく、ただの一人の人間として見る。
 そうして見た天川が、僕の心に響くものを持つ男でも、今までのわだかまりを消し去る事が出来る程の男でもないと言う事は初めからわかっていたし、事実そうであった。だが、僕はそんなものを求めていたわけではない。ただ、つまらない人間だということをそうして確認したかったのかもしれない。何処かで救いを求め存在していた小さな希望を消し去りたかったのかもしれない。
 いや。それよりも。
 迷いを消したかったのかもしれない。失望することで、僕は自分を守りたかったのかもしれない。
「…わかっているんだ、本当は」
 何をわかっていると言うのか。
 僕の顔に何を見たのか、どこか苦しげに視線をはがした天川は、再びその場に屈み込んだ。濡れた地面に膝をつき、頭を垂らす。そして、続きの言葉を口にすることはなく、無言で地面に打ちつけた握り拳の上に頭を乗せた。
「わかっている…」
 雨の中のその姿は、何かを乞うているような、哀れなものだった。
 突然のそれに少し驚きはしたが、それだけだ。悲しみだけでは、どうにもならない。
 天川がたとえ心の中で、この長い間あの友人に対して謝罪をしていたとしても、僕にはそんな事は関係ない。
 罪の意識に耐えられず、ただ自分を守る事だけをしてきたのだろう。
 そんな男に、あの友人の心など見つけられるわけがない。
 彼が命をかけてした告白が無駄に終わるのかもしれない。いや。もう結果は出ているのだろう。意味がなかったのだと。
 僕は、それが許せない。
 だから、この男が嫌いなんだ。
「俺が、悪かったんだ。全て…」
 震える声でもはっきりと言い切った天川は、顔をあげ白い十字架を痛みにゆれる瞳で見た。
 その姿に、同情はしない。
 卑怯だとしても、残酷だとしても。今の僕には男を嫌い続けなければならなかった。自らの心を奮い立たせるためか、それとも痛みを感じない程に傷つけていくためか、胸の中で男を否定する言葉を吐き続ける。そうしなければ、嫌いではなくなりそうで怖かった。
 許せはしないことでも、憎み続けるなど、それは生きていく以上に難しい事だ。人間は無意識に平穏を求め、心の痛みも何もかもを癒そうとする。憎しみを継続させるにはそれなりの力がいるのだが、残念ながら僕にはそれが少ないようだ。
 許せないと思うが、それも、そう思う過去があったというものになりそうな曖昧なもの。嫌いだと自らに教え込んでいなければ、僕は直ぐにでも天川への思いを消してしまいそうだ。嫌いでも好きでもない、どうでもいい存在にしてしまいそうだ。ただ、友人との関係を記憶に留めておけばいいのだと、他の事は切り捨ててしまうだろう。
 だが、今ここでそうしてしまっては、それこそ友人との思い出も消し去ってしまいそうだ。面倒だと投げ出したものの一部だけを覚えておくなど、そんな器用な事は僕には出来そうにない。
 忘れたいとは思わないが、時とともに薄れる記憶。
 それを自らの手で掴んでおくように、僕は男を嫌うのだろう。そこまでわかっていても、冷静に自分を分析する場所と心の場所は違うようで、常に迷いと不安が付き纏ってもいる。
 厄介なものだ。
 次第に色を無くしていく、面白くないただの玩具のような目になっていく天川から視線を逸らし、僕は濡れる墓石に語りかける。

――俺が、悪かったんだ。
 そんな事をいう彼には、何ひとつ、お前の想いは届いていないのだろう。
 だが、こんな男でもなお、お前は好きだと言うのだろう。こんな事を言う男だからこそ愛しいのだと言うのだろう。それが、天川誠という人間なのだろう。
 そんな事は、わかっている。

 しかし、それとは別に、僕の感情も存在する事を忘れないで欲しい。

2003/09/17
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