# 99

 守ってやれなかった。
 こいつには俺しかいなかったのに、助けてやれなかった。
 俺はこいつから逃げたんだ。裏切ったんだ。そんな俺を、恨んでいないはずがない。
「何故…。何故、お前は……、俺を殺さなかったんだ…」
 自ら死ぬのではなく、憎い俺を殺せばよかったんだ。
 力の抜けた声が紡ぐ天川の言葉は、いつの間にか僕にではなく弟に向けられていた。生気を無くしたかのように座り込んだ男の上に、強さを増した雨が落ちる。
 それは隣に立つ僕も同じであったが、天川に打ちつける雨の方が、傷を抉り痛みを覚えさせる力を持っているかのように思えた。だが、汚れた都会の雨が似合うのは、苦汁をなめている天川ではなく、それを冷めた目で見下ろす自分である事は間違いないだろう。
 たっぷりと水気を含んだ短い髪をかきあげると、溢れた水が耳から首へとつたった。
「俺を殺せばよかったんだ」
 先の言葉より、僅かに力を持った声が、足元から響く。その言葉に、僕は長い溜息を落とした。
 確かにこの男は弱いのだろう。こうする事で、自分を責める事で救いを求めているのだろう。だが、だからといって全てが許されるわけではない。今の僕がしていることに比べたら子供のような純粋さのものであっても、力を持つ男がすることではない。
 人の事は言えないのだろうが。僕と違い権力を持つ男の自らへの甘さは、卑怯としか言えない。嫌悪するには充分であろう。
 あからさまな溜息に加え僕は舌打ちをし、それを聞き取り見上げてきた男を蔑む目で見下ろした。
 天川の顔に苦渋が浮かんだのは一瞬の事で、目が醒めたように、瞳に憎しみを混ぜる。単純だなと、その姿に冷めた思いを抱き、同時に僕は天川が見ている自分に嫌気がさした。自分でも、どれが本当の自分なのか見失いそうな気がし、更に嫌悪する。
「お前も、そう思っているんだろう。俺が全て悪かったのだと」
 思っているさ。当たり前だろう。
 現に、あなたが悪かったんだ。もう少しでも、強さがあれば。あの少年の事を思う余裕があれば。あんな事にはなりはしなかった。
 僕はそんな思いを込め、けれども睨む事はなく冷たい視線を向けた。
 こんな男に感情を向ける事自体、馬鹿馬鹿しいというように。
「…なんだ、その目は」
 天川が立ち上がり、怒りを込めた瞳で僕を捕えた。
「馬鹿にしているのか。哀れな、情けない奴だと? お前にしらけきった目を向けられたくはないな。お前こそ、…何もわかっていない」
 その言葉の敵意に、心は揺さぶられはしなかったが、含まれた真意にゆれた。お前こそと僕を詰るこの男は、自身の無能さに思いあたったのか。それとも僕の考えすぎか。
 小さな動揺を隠すように、少し視線を外す。だが、それは天川の癪に触れてしまったようだ。
「お前のせいで、こいつが死んだわけじゃない! ただの連れだったお前に、そんな影響力はないのは初めからわかっていたさ! そう、ただの連れだ…。だが、それでも! あの場にお前はいたんだ。お前は、こいつを見殺しにしたんだ!!」
 それはどんな言い訳をしても、事実でしかない。
 激しさを見せて言い切った男は、素早い動きで僕の襟首を掴んできた。
「原因は、俺にあったのは自覚している。お前も知っているんだろう、こいつと俺の関係を。知っていて、笑っていたんだろう。汚いと、最低だと、嫌悪していたんだろう! 違うといえるか!?」
 歪んだ男の顔は、泣き出しそうな子供のようなものであった。
「友人の振りをして、本当は誠をのことをそう思っていたんだろう。だから…! だから、何もしなかったんじゃないのか? 目の前で死ぬあいつを、今みたいな目で見ていたんだろう。止めもしなかったんだろう」
 幼子のように。
 溢れ出す感情を整理する事も、制御する事もなく捲し立てた天川は、弾き飛ばすように僕から手を離した。勢いで地面に腰をついた僕を見下ろし、更に低くいい放つ。
「それが、どうだ。そのお前も、今はヤクザのイロだ、お笑いだな。お前ホモだったのか、最高だな。…いや、最低か。胸糞悪い。
 そう言えば、襲われたんだってな。筑波が飛び込んできて、俺と秀を疑っていた。馬鹿だな、あいつ。どうせお前が何かしたんだろう」
 怪我をした事さえ知っているのだろうか、天川の視線が僕の胸に落ちる。そして。
 天川はゆっくりと片脚を持ち上げ、僕の胸の上に置いた。
「誠が死んだのは、お前のせいだ」
 先程の脆い目とは打って変わっての強い眼差しを、僕はただ見返す。少しでも動けば、乗せられた足に力が加わるであろう事はわかった。
「お前が、殺したんだ」
 以前も言われた言葉。同じように、否定はしない。だが、今回はそこに含まれるものは少し違っていた。
「俺は、一生お前を憎む。何があったとしても、あの場にいながら手を差し出しもしなかったお前を、許せるわけがない。お前にとっては、俺の恨みなど痛くも痒くもないんだろう。だが、それでも…、俺はお前を殺したいくらいに憎んでいる事を、忘れるな」
 そう言い危害を加える事はせず静かに足を引いた男は、自分の言葉を噛み締めるように、ゆっくりとその場を後にする。
 はっきりと落とされた言葉は、けれども懺悔のように聞こえた。忘れないでくれと、懇願しているかのように、僕には聞こえた。
 天川が立っていた空間を見、地面を睨み、降る雨を眺め、傍に立つ友人を見つめる。濡れた墓石の前に、苦笑する彼の顔を僕は見た。
 雨ではない、少し温かい水が、僕の目から溢れる。
 わかっているのだ、僕も。
 ただの事実と受け入れてきた全てのものが、ここに来て理解出来るものへとなったのは、僕にとっては幸運な事なのかまたは逆の事なのか。筑波直純を好きになり、ただそうだとわかっていただけの友人の感情を、更に深く見えるようになった。そして、天川のこともまた、その心中を少しは理解出来るようになった。
 納得は出来なくとも、わかってしまうのだ。堪らない。
 天川と僕は、少し似ている。僕も天川も、互いに理解はしていても納得は出来ずに憎みあう。それを支えにしようと言う天川と、何もかもを悟った風にしながらも結局はそこにしがみ付いているだけの自分。どちらも卑怯者に変わりはない。
 だが、その罪は僕の方が大きいのだろう。
 天川司をそうしているのは、この僕なのだから。
 事実でもなく、嘘でもない、見殺しにしたというその真実を男に伝えないのは、僕自身が恨まれたがっているからなのだろう。自分が勝手に憎むことに罪悪感を覚え、同じように憎んでもらおうとその心を利用しているのかもしれない。
 体を支えていた腕に痛みを覚え、僕はそのまま地面に寝転がった。冷たい雨が、僕に降りかかる。
 なあ、誠。僕は、どうしてこんな人間なのだろうか。
 最低だとわかりつつも、善処しようとは思わない。自分を傷つけるだけならまだしも、他人にまでそれを与え、疑問にも思わない。苦しんでも、それを一瞬後に消し去るずるさを持っている。
 あの頃、お前と一緒にいた自分と、今の自分がどれほど違うのかはわからない。だが、恋をしたというその事実を加えた僕は、変わっていないはずがないのだろう。
 今、この時、お前と出会えていたのなら。僕は死を選ぶお前に何かを与える事が出来ただろうか。
 喪失に苦しむ彼にも、何か出来ていただろうか。長い間それを無視し、あれほどまでの苦しみを抱えさせる事になったのは、やはり僕のせいだろう。
 こんな僕を、お前は恨んでいるのだろうか。

 問い掛けに返る応えはなく、僕はそのまま目を閉じた。
 自分のとってきた行動に後悔はないが、それはもう簡単に起き上がれないほど重く、僕の体に巻きつき縛りつけている。

2003/09/17
Novel  Title  Back  Next