# 100

 久し振りに職場に顔を出すと、店の前に早川さんが居た。早番だった彼は、普段は調理場に篭っている事が多いのに今日は珍しく表の用意をしており、そのまま店の中に入ろうとした僕に呆れ顔を見せる。何だろうと思いつつも、遅刻になってしまうのでまずは店内に入ろうと片手を上げて挨拶を交わし通り過ぎようとしたのだが、僕は見事にその腕を取られ階段に引き込まれていた。
 未だにしとしとと降り続く小雨から漸く逃れられたが、目の前の早川さんの表情にそんな事を考えている場合ではないのかもしれないと気付く。今回の事で怒っているのだろう事を察するのは、他人の感情に鈍感な僕でも簡単な事だ。マスター同様、この人もまた、僕の事を心配し気にかけてくれている。
 スミマセンでしたと、一言謝っておくべきなのだろうと僕は思いつく。自分ではすっかり、先日の事を過去の出来事にしてしまったが、今日が復帰の職場ではそうもいかないのだろう。
 天川との一件に心が占められているのか、いつもと同じように店に来た自分に少し呆れながら、僕は早川さんの手を腕から外し、軽く頭を下げた。心配させて悪かったと、目で語りかける。
「…お前、いつから外に居るんだ。ずぶ濡れじゃないか」
 ハンカチを取り出し、早川さんは僕の顔にそれをあてた。視線を外に向け、細かい雨に目を細める。
「傘ぐらい買えよ、馬鹿。体はもういいのか?」
 早川さんの手からハンカチを受け取り濡れた顔を拭いながら、大丈夫だと頷く。突然の雨だと言うわけではないが、小雨だからだろう、歩道を歩く人々の半数が傘をさしていない。なので、僕も目立つ事はなく濡れながらここまで歩いて来た。だが、こうも水分を吸っている者はやはり他にはいないだろう。長く雨に当たったせいで、黒色なので見た目はわからないが、コートは重くなっている。
「それに。なんだ、これは」
 溜息をつきながら、早川さんは払いきれずに薄っすらとコートに型が残っている胸の靴跡を指先で触れ、その冷たさにギョッと目を見開いた。いつもどこか余裕を持って人と接する彼のそんな顔をはじめて見、何となく得をした気分になる。常にからかわれ続けている小林に言えば、羨ましがられるのかもしれない。
「ったくお前は…、一体何をしているんだか。さっさと着替えて来い。服、ロッカーに仕舞わずに乾かせよ」
 その言葉に押され、僕は表から店の中に入った。濡れているので掃除をしている者に悪いと思ったのだが、幸いな事にまだフロアの用意は始まっていない。
 ロッカールームに居た同僚は、ずぶ濡れで入って来た僕に「雨、きつくなったのか?」と眉を寄せた。先日の失態とその為にかけた迷惑を詫びると、気にするなよと肩を竦める。
「それよりも。俺、今週でここを辞める事になった。月末の締日までと思っていたんだが、次の仕事先がなるべく早くきて欲しいって言われてさ。バタバタして悪いが、マスターも了承してくれたし。ま、後数日だけど、最後まで気を抜かずにやるから、よろしく頼むよ」
 髪きちんと乾かして来いよ、と少し気まずげながらも笑顔を見せ軽口を叩くと、彼は部屋を出て行った。パタンとドアが閉まる音に、先に抜けて悪いなと謝罪するような沈黙が落ちてくる。
 その空気に僕は小さく溜息を吐き、ロッカーを開けて重いコートを脱いだ。
 同い年と言う事と物事に拘らないその性格からか、彼は僕に対し始めから気さくに話し掛けてくれた。僕はこんな性格なので、意気の良い彼とは何度か衝突した事もあるが、揉め事を後に引きずるタイプではなく、それなりに上手くやって来た。そんな気の良い同僚から、退職の言葉を聞くのは正直寂しい。
 いや。何より、今回のそれはただの退職ではなく、一人また一人と店員が去っていく度にこの店が終わりに近付いているということなのだから、寂しいという一言ではこの感情は表せないのだろう。そして、それをわかりつつも最後まで付き合わずに抜ける事に罪悪を感じる事実が、悲しい。
 彼にとっては生きていく上では当然の選択だ。また、感情面を通し最後まで居続けようとする僕も、当然と言えば当然の事。ただ、結果が決まっているその変えようのなさが、虚しく、遣り切れないと感じずにはいられない。このままこの店で働き続けたいという一番望むものは得られないのだ、その次を皆探さなくてはならない。そして、同僚達はもう、探している。
 堪らないなと嘆息しながら、僕は湿った感じがする体をタオルで拭き、白いシャツに袖を通した。そして、先日言われた早川さんの誘いを思い出す。
 今はまだ、僕には未来は見えそうにはない。
 見なくてはいけないのだろう、考えなくてはいけないのだろうが、どうしてもそれが出来そうになかった。ただの逃げか甘えか。現実問題として、無職になってしまったら困る事は目に見えている。直ぐに生きられない程生活に困るわけではなく、特に娯楽にお金を使わない今の生活と同じ程度ならば、一年位は貯金でどうにかなるだろう。しかし、僕の場合その間に新たな職を見つけ出せるのか、あやしいものだ。
 だが。
 最終的には、早川さんの言葉に甘えるのだろうと思いつつも、今はまだ何も決めたくはなかった。決めた途端に、僕の中からこの店が奪われそうな気がしてならない。
 壁に掛けたコートの汚れを見ながら、天川の事を思い出す。今頃、あの男は何を考えているのだろうか、と。僕を蹴りつけて置けばよかったと後悔しているのか、自らの発言に嫌気がさしているのか、それとも僕の事など何も思い出していないのだろうか。
 僕は、失ったものの大きさに良く気付いていないのかもしれないと、ふと思った。天川があれほど苦しむのは、大切なものをなくしたと、その事実を受け入れているからなのかもしれない。そう考えると、静かに友人の死を納得した自分は、未だそれを理解しきれていないのではないかと馬鹿な事を考える。
 上手く言葉に出来ないそれを数瞬思いつめ、だからと言ってそれがどうしたんだと、僕は踵を返し職場に向かった。
 もうすぐ僕は、大切なこの職葉を失う。そして、あの筑波直純をも手放す時が来るのだろう。
 今考えなくても、いつか何かがわかるのかもしれないと、昼に目にした天川の悔恨の表情を瞼から消し去る。
 そうしなければ、彼に同調しそうで、少し怖かった。

 与えられた消えないコートの印は、天川と同じ、裏切り者の烙印であるように思えてならない。



 忙しくしている人物なので、今夜から出勤すると言った僕の発言に眉を寄せながらも、「なら、迎えに行く」と応えたその言葉は嬉しかったが全く信じていなかった。なので、少しは信じるべきだったのかもしれないと、その姿を認め僕は内心で笑う。
 筑波直純は、閉店間際に一人、約束通り店へとやって来た。端整な顔に疲労を浮かべた男は、青いライトの下ではどこか果敢なげにも見え、僕はヒヤリとする。だが、真っ直ぐと僕の居るカウンターに来て静かに椅子に座った姿からは、危うげな雰囲気はない。逆に顔に浮かぶ深い影に、ドキリと僕の胸は高鳴る。
 疲れた男を色っぽいと感じる自分をおかしいと思わない事もないが、事実なのだから仕方がない。
「車で来たから、酒はいらない。コーヒーでも貰おうか」
 珍しく煙草に火をつけながら、筑波直純は言った。僕を待つための、ただの時間つぶしなのだろう。メニューを見もせずに頼む男の傍からそれを取り、僕は適当にノンアルコールのホットカクテルを傍に居たマスターに頼む。男の注文を聞いていたのだろう、一瞬怪訝な顔をするが、何も言わずに頷き準備を始めた。
 心配を掛けているのだろうが、プライベートな事だと察ししているマスターは、僕と男の事に口を挟む事を控えているらしく、僕自身訊かれない事を態々吹聴する趣味はないのでそのままにしている。恋愛らしいものをしているなど、男との関係を僕の口から誰かに言う事などありはしないのだろうが、心配はないのだとマスターには一度きちんと言うべきなのだろうかと僕は考えてみる。だが、未だに答えは出ない。
 出来上がったカクテルを受け取り、また今度だといつものように小さな問題だとそれを流し、僕は筑波直純の前に白濁した液体の入るグラスを出した。何だと問い掛けながらも口をつけた男の目が、美味しいと細められた事に満足する。
「演奏、したのか?」
 灰皿に指先で灰を落としながら掛けられた問いに、僕は首を振り時計を見た。後もう少しで閉店だ。
【今日はやめておけと言われたので】
「だろうな」
 当たり前だと軽く笑う男に、僕も口の端を上げて笑いを返す。  今日は開店前にサックスには触れなかったので仕方がないが、問題がないようなら明日は吹くつもりだ。マスターにも言ってある。だが、正直その自信はない。練習をし、感覚を取り戻せたらの話であって、この数日の影響がどれだけあるかわからない。多少は指の動きが鈍くなっているのは覚悟していなければならないだろう。
「もの欲しそうな顔をしているぞ」
 気付けばステージに顔を向けていた僕は、そんな男の言葉に、自分が少し飢えている事に気付いた。
 人に気付かされるのもどうかと言うものだろうが、そんな自分自身の感情を少し新鮮に思う、僕がいる。

2003/09/24
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