# 101
当然のように筑波直純と共に彼の部屋に帰り、そこで眠りにつく事に疑問を持たない自分に、今はもうただただ呆れるばかりだ。人間の慣れとは怖いものだと、他人事のように思う。それと同時に点る、危険信号にも気付かない振りをする。
今の空間が心地良いと思うのは、逃げている自分を直視していないからだろうか。
男との生活に慣れてしまっては、失った時に自分が寂しくなるのだろうとわかりつつも、手放す事は出来ない。だが、なくすからこそ、今は欲しいのだとも言えるだろう。温かさを知らなければ寒さにも気付かないだろうが、僕は寒くなるとわかっていても、温かさを欲しいと思う。
彼とも関係も、あの友人との関係もそんなものだったように思う。心地良いその存在が、その時の全てだった。誰のものであるか、彼が何故ここにいるか、誰を思っているか。それは事実だとしても、あの一緒に居るその一瞬には関係のないものだった。
今がよければいいのだと、この一瞬が大切だなどと言うのは子供なのだろうかと思いながらも、未だに僕はそれを止められない。自分で思う程、僕は大人ではないらしい。だが、子供でもないのだろう。だからこそ、考えてしまう。
色々な事を。
「ヤニ臭い、だってさ」
朝早くから出かけた筑波直純は、昼前に帰って来て開口一番そんな事を言って笑った。リビングには顔を出さなかったが、誰かを伴っての帰宅だったのは確かなようで、「今来ていた奴が、煙草の匂いに顔を顰めていた」と先の言葉を説明をする。
気配を察したので出て行かなかったのだが、男の話からその人物も僕に気付いたと言うのがわかり、大人しくしている意味はなかったらしいと悟る。最も、別に挨拶を交わしたいわけではく、何より危険な人物を男がこの部屋に入れるわけもないのだろうで、僕が気をまわす事もないのだろう。
【すみませんね。あなたも気になりますか】
嫌味を言われながらも、口に加えた煙草を消す事はなく、僕は紙に記し男にメモ用紙を投げた。何故か機嫌よく笑う男は、受け取ったそれに更なる笑みを加える。
「別に、怒ってない。福島は煙草が苦手だからな、敏感なんだろう。俺は気にならない」
と言うか、嬉しいね。
そう言いながら近付き、僕の口からまだ長い煙草を抜き取り数度吸い込み灰を落とすと、再び咥えさせるように戻してくる。唇に触れるそれに薄く口を開くと、幾分か短くなった煙草のフィルターがそこに入り込む。
「煙草の匂いがつく程、お前がここにいると言う事だ。なかなかいいものじゃないか、なあ」
何が嬉しいのかと疑問に思った僕に、そんな言葉が落ちる。同意を求められても、僕としては応えようがない。雰囲気でも何でもなく、煙草という物質的なもので僕の存在を感じ喜ばれても、ある意味では少し虚しいようにも思うのだが。
しかし、僕が男自身の匂いを感じ取るように、男が僕のそれを感じ取るのは難しいのであろうと、何となく自分でも思う。影が薄いと言う事はありえないのだろうが、とらえ所がないのは事実だろう。
「ま、そんな事より。昼飯、食べに出ないか?」
珍しく真面目に考えた僕の思考を打ち切るように、男は顎を動かし僕を促した。
「ついでというんじゃないが。その後、行きたいところがある」
付き合って欲しい、と男は部屋を横切りながら言う。ほんの少し、空気の入れ替えのために開けていた窓を閉めるその背中を眺め、僕は煙草を灰皿に押し付けて立ち上がった。
コートを着ながら廊下を歩く僕の後ろに、男の足音が続く。
「…何処にか、訊かないのか」
硬い真面目なその声に、僕は振り返った。特に僕はそう意識していなかったのだが、男にとっては色々考えての発言だったのだろうか。意外にも、緊張した顔色をそこに見る。
付き合って欲しいと言うのならば、時間に余裕がある僕は、オッケイと頷くのが当然の答えなのだ。何処になど、行けばわかる事である。それとも、訊けば躊躇うような、そんな場所なのだろうか。
何なのだろうかと疑問を現す僕に、男は静かに言った。
「天川誠の墓参りだ」
一瞬、言葉が理解出来なかった。
「俺が行くのは、嫌か? 二人では、行きたくはないか?」
僅かに眉を寄せてのその問いに、何故そう思うのかと僕は首を横に振る。墓参りなど、別に自由にすればいい。まして、天川司に断るのならまだしも、僕に問う事はないだろう。
何の問題はないと首を振る僕を、けれども男は何かを見極めるように真っ直ぐと見ていた。
その視線の意味を、僕はこの後、知る。
友人の、墓の前で。
昼食を摂り筑波直純が向かったのは、本当に友人の墓だった。誰かに訊いたのか態々調べていたのか、僕に道を訪ねる事もなく公園墓地へと進む。沈黙が落ちる車内から通り過ぎる景色を眺め、僕は気付かれないように小さな溜息を落とした。
隣の男が何を考えているのか、いつも以上にわからない。
車を降りた後も迷わずに進む男の後を追い、仕方がないなと隣に並び、目的の墓を目指す。昨日と違い、冬の陽射しが照る墓地はちらほらと人影があった。花束を抱える人と擦れ違い、相も変わらず何も持ってこなかった自分に気付く。
花など持って来ても、あの友人なら、「お前にそんな事は似合わない」と笑うだろう。だが、気持ちの問題であるので、次に来る時は何か持ってこようか。一体、次がいつの事なのか全く予想もつかないのだが、そんな事を考える僕をチラリと男は横目で見、ポツリと言った。
「…楽しそうだな」
そんなつもりはないのだが、そうなのかもしれない。
ただ言われた言葉を単純に受け取り口角を少し上げた僕は、けれども隣の男の声がからかうでも、呆れるでもないものだったことに気付き、改めて顔を見る。真っ直ぐと前を見る横顔は、思った以上に硬かった。
嫌ならば来なければいいのにと思うが、そこにあるのはそんな単純な感情ではないのかもしれない。何をしにここに来たのか。墓参りだけではないのだろうと、僕は隠された男の真実に再び小さく息を吐いた。
筑波直純と天川誠とは、直接の接点はないはずだ。天川司を通してはあるだろうが、友人は天川家の仕事になど首を突っ込んでなどいなかっただろうし、筑波直純からも聞いた事はない。男にとっては、天川誠はただの仕事相手の弟と言うものだろう。天川とは同じ年ということもあり仕事以外でも付き合っているのかもしれないが、あまり良い関係には思えない。その弟に思い入れなどないだろう。
ここに来た理由は、やはり僕の友人だからだろうか。そう考え、けれどもそれもいまいちしっくりはこないなと、僕は軽く眉を寄せた。冬の冷たい風が、頬を刺す。
僕の友人であったという事実は確かにあるが、僕は男に彼の事を話した事はあまりなく、こうして墓参りに来るようなものではないはずだ。
本当に訳がわからない。
僕の頭にあるのはその疑問ばかりで、だから今の状況がどうだというものはなかった。男と並んで友人が眠る墓の前に立っても、何も思わない。綺麗に十字を切る男の姿に、育ったのが教会の孤児院だと言っていた事を思い出し、その慣れた手つきに納得していた。
だが、そんな僕とは違い、男は色々と考えているらしい。神妙な表情を墓石に向け、少し緊迫した雰囲気を作り出す。
その空気から逃れるように、僕は視線を外し空を見上げた。灰水色の空で白く光る太陽に、僅かに目を細め、そのまま瞼を落とす。傍らで膝をついた男の存在を、僕はその一瞬、消し去った。
「…好きだったのか?」
足元から這い上がってきた問いを噛み砕くのに少しの時間を要し、僕はゆっくりと上げていた視線を落とす。屈んだまま僕を見上げた男の目に、空の太陽を見つけ、僕は目を細めた。
僕はその時、一体どんな顔を男に見せたのだろうか。男は何をそこに見たのだろうか。
筑波直純は眉を寄せ「そうか…」と何も言わない僕に対し呟くと、僕から視線を逸らし、ゆっくりと立ち上がった。
その横顔に、先程までの硬さが消えた事に気付き、僕は消えたそれが緊張であった事を知る。
2003/09/24