# 102
「彼を、愛していた、か。…いや、それは今でもか」
質問なのか、確信しての発言なのかわからない微妙なその言葉を、僕はそのまま受け取りかけ、理解した瞬間ギョッとなった。何を言っているのかと、隣の筑波直純を振り仰ぐが、言った本人は静かに墓石を見つめている。自分の発言が異常だとは気付いていないらしい。友人同士での間には、本来存在しない言葉だというのに。
「お前の心には、常に彼がいるんだな」
嫉妬をしても、無駄なんだろう。
真面目に馬鹿げた発言をする男に、僕はもう脱力するばかりで、一体何をどう言えばいいのかわからなかった。何故そんな事を、何処をどうやって考え付いたのだろうか。その思考回路に、脱帽する。一生掛かっても、僕にはそんな突飛な考えは出来ないだろう。
ひとつ、殴ってやろうかと思い付き、けれどもその瞬間笑い声を聞いた気がし、僕は友人に振り返った。彼が、面白い人だと笑っているように思えた。
お前が死んでいなければ、僕はこの男と会わなかったのかも知れない。お前との事がなければ、天川や佐久間さんとの事がなければ、この男とこんな関係に発展しなかっただろう。だが、それでも…。
こうして向き合うのではなく、生きている友人に筑波直純の事を紹介したかったと思うのは、矛盾しているのだろうか。
友人に語りかけるようにそう思った途端、胸の中で何かがストンと落ちた気がした。
ああ、そうだ。男の言う通りなのかもしれないなと、友人に笑いかけ、そんな自分に苦笑を落とす。
今にして思えば、恋をしていなかったのが不思議なくらいに、僕は友人の事が好きだったのだ。かけがえのない存在だという認識を持ちつつも、その心地良さに満足して終わっていたのは、僕が子供だったからなのかもしれない。誰かに恋情を抱ける程の大人に成長していたのなら、あの男に惚れているのをわかっていても、叶わない恋をしたのかもしれない。だが、今となっては、全ては憶測でしかない。
その当時は、確かに僕は常に傍にいる友人に好意を抱いてはいたが、それ以上でも以下でもなかった。あの時は、あれで充分だったのだ。誰よりも自分の傍にいるのが彼であると言うその事実に満足していた。
今、恋心を覚えた僕ならば、確かに友人に恋愛感情を持ったかもしれない。その可能性はなくはない。だが、彼はもういないのだ。好きだったのかと問われれば、応えは確かにイエスだ。けれども、恋と言う意味でならば、違う。愛しいと言う感情をその時は意識していなかったが、抱いていたのかもしれない。しかし、愛していたわけではない。
今も心に居るのかと問われれば、これもイエスだ。その死に嘆いているわけでも、思い出に縋っているわけでもなく、記憶として僕の中に彼はおり、いつまでも友であるその事実を持ち続けている。だが、常にその存在を主張し続けているわけでもない。日常の中にいるだけで、何かをする度に思い出しているわけではない。僕は、友人のいない今を生きているのだから、それは無理な話だ。
その今、僕の隣に居るのは自分なのだという事を、この男は認識していないのだろうかと、僕は呆れと共に少し切ない感情を覚えた。何を言っているのかと、向けられる言葉に訂正を入れるのは簡単だ。だが、男の思いを気付いたと同時に生まれた憶測が、僕にそれを出来なくさせる。
僕の中に居る友人を自分以上に大きな存在と見たのは、不安や嫉妬などからではなく、男の中にもまたそれと似たものがあるからではないのだろうか。本気で結婚を考えたと言う、組に入りその中で生きていくと決意させたと言う女性の姿が、筑波直純の向こうに揺らいだ気がした。
男が僕に投げかけた言葉は、実は自分自身に向けてのものだったのかもしれない。
失ったその女性を今でも思い続けているのだろうか。男の心は彼女が占めているのだろうか。だからこそ、僕も同じではないのかと、そんな目を向けるのか。
思いついたその考えに、一瞬狂気に似た感情を持つが、それは直ぐに消え去る。憎しみは誰に向けられてのものなのか、今なお男に愛される名前も知らない女にか、そんな状態で自分を好きだと言う男にか、それとも何も気付かずに男を好きになった愚かな自分にか、それすらもわからないうちに消滅する。残ったのは、不器用な男がここに居ると言う認識のみ。だからどうだとは、何も考え付かない。
筑波直純が心で誰を思おうと、裏切りだとは感じないし、それを否定しようとも思わない。そうなのかと納得するだけで、それ以上のものはない。自分が好きな男の姿が、たとえ一瞬一瞬変わり続けても、僕はその度に全てを受け入れるのだろう。嫌いになったと告げられても、あっさりと理解し、納得してしまいそうだ。
男の全てを優先するだとか、そんな甲斐甲斐しい事ではない。僕が相手の意思を覆そうという意欲を持っていないだけの事なのだろう。自分にとって残念な事ならば、仕方がないと諦める。伝えられたものは決定事項だと捕らえ、そこに僕の意見挟んだところでどうにもならないと考える。
だが、だからと言って自分の意思を曲げるような事もせず、ならばこうしようとさっさと別の方向を見いだすのが僕だ。そんな僕を、悪い癖だと言いつつもお前らしいと良く笑っていた友人は、果して呆れていたのか本気で好感を抱いていたのか。もっと僕に悪あがきが出来るくらいの意欲があれば、友人があの時自らに向けた銃口に手を伸ばす事が出来たのかもしれない。
何もしなかったと詰った天川の声が耳奥に蘇る。確かに、僕は何もしなかった。あの時僕に出来る事はなかった。それを知っていて、友人はあんな事をしたのかもしれないと思うのは、卑怯だろうか。
何も出来なかったのは、僕ではなく天川本人ではないかと思うのは、責任転換なのだろうか。
あの時、彼を引きとめる言葉ひとつ出なかったのは、天川に何もなかったからではないか。
「保志…」
名前を呼ばれ、我にかえる。先の言葉に対し何も言わない僕の態度を、男はどう受け止めたのだろうか。そこからは全く読み取れない横顔を少し眺め、僕は身体ごと男に向き直った。
「もし…」
躊躇いがちに、言葉が落ちる。
「もしも、このまま俺と一緒に何処かへ行って暮らそうと、俺がそう言ったら…」
お前は一緒に来るか?
その言葉までは続けず、男は口を閉ざした。
「……いや、何でもない」
呟きを振り切るように僕に振り返り、「俺は、もういい。お前は気の済むまでいればいい。…車で待っている」と言うと、ゆっくりと踵を返し歩き始める。
何をそんなに不安になっているのだろうか。弱気な発言に、けれども本心は何処にも見えず、僕の応えなど初めから必要としていなかったようにも思えた。ただ、口にしただけなのだろう。だが、そうしてしまう何かが、男の胸にあるのも確か。
言わなければ、何もわからない。僕には、何を言えばいいのか、言葉がない。迷う男に適当な言葉を言っても、届きはしないだろう。
けれど。何故、僕に対し、そんな面を見せたのか。そんな事を言ったのか。考えなければならないのかもしれない。
僕は遠ざかる男を、友人を振り返りもせずに追いかけた。後ろから、変わったなと笑い声が聞こえたのに対し、こんな僕でも変わるだけの月日が立ったのだと、心で返す。いや、月日ではなく、それだけのものを得たという事なのだろう。
綺麗に並べられた歩道のレンガの模様に目を落とし、男の背中に視線を上げる。彼へと続く道を小走りにかけながら、今この一瞬は僕達の道は確かに重なり合っているのだろうと実感する。だが、その先までは、わからない。
携帯を出し、画面に文字を打ち込み、追いついた男に突きつける。
【僕とあなたは、同じ道を歩いてはいない】
目を見開き、足を止めた男は、苦虫を噛み潰したような顔をし、言った。
「俺とは、歩けないと言う事か」
その言葉に、首を振る。そう言う意味ではないと。だが、男はそんな僕をわからないと余計に顔を顰めた。
「俺には、お前の言いたい事がわからない」
今はこれ以上話しても無駄だと言うように、そう言い捨てると歩みを再開する。
上手く説明出来る言葉も、男が紡ぐ同じテンポで応える方法もない僕は、その意思を受け入れるしかなかった。
僕は、あなたの足枷になるつもりはない。
男の背中にそう語りかけ、堪らないなと空を見る。この遣り切れない感情を処理出来るのは自分以外にはなく、その事実が虚しく思える。
もし本当に、このまま何処かに行ったなら、男が後悔をするのは目に見えている。立ち止まるのならいい。振り返るのも戻るのも、必要ならば僕はしてもいいと思う。それが自分の道ならば。
だが、男が言ったのは、その道から外れる事だ。僕と一緒に新たな道を歩こうと言うのでもなく、道を歩きたくはないと、逃げようと言っているようなものだ。
僕ならそれも、いいのかもしれない。たとえそうして立ったのが、底のない沼地の淵だろうと断崖だろうと後悔はしないだろうし、戻りたくなったら恥も何もなくあっさりと戻るだろう。だが、男は違う。彼の性格から考えれば、何故あの時そうしたのかと悩むだろう。そして、その理由は、僕にある。
危ない仕事が不安を呼んでいるのか何なのかはわからないが、僕の存在がなければ男はそんな考えを持たなかっただろう。以前、はっきりと言った男の言葉を思い出す。
――俺は、自分にどんな結果が待っていようとも、何処へだろうと行く。それが今、俺が生きている世界だ。退くつもりはない。
たとえ、それで平穏を得られるとしても、僕は男からは何も奪いたくはない。
足枷には、なりたくはない。
ただ、それだけなのだ。
2003/09/24