# 103
あの日、筑波直純は店に現れなかった。
あれから特に何も会話をせずに別れた。約束などしなかった。だから、特別な事ではないのだと思った。思おうとした。だが、あの部屋での生活に慣れてしまった僕は、帰りついた自分の部屋で、違和感に包まれた。何かが、僕の知らないところで蠢いており、いつか襲い掛かってくるのではないだろうかという漠然とした不安まで覚えた。
ひと目で見渡たせられる、狭い部屋。そこに落ちる空気を、ベッドの中で夜明けを待ちながら、忘れかけてしまった自らの身体に覚えさせる。
昼間のやり取りのせいか、僕の心のせいか。それとも、感じた男の気持ちのせいか。原因は沢山ありそうで、その実何もない、曖昧な胸の動悸と共に眠りについたのは、一体いつの事だったのだろうか。気付けば陽は高く上っており、時間的には眠ったのだろうが余計に疲れた感じがする体を起こし、僕は新たな一日を迎えた。
そして。
煙草を一本吸い終わる前に、昨夜のわだかまりを過去へと流した。僕にはそれしか出来なかった。
しかし。その次の日も、次の日も。男は現れず、再び僕は少し頭を使うはめになり、不安を見る。
この沈黙が何を意味するのか。そこに光りがあるようには絶対に思えず、かといって絶望が口を開けて待っていたとしても逃げる方法が自分にあるわけでもないと、早々に考える事を放棄する。そんな、微妙な繰り返しの中で変わらずにいるのは、自分からは動きはしないという決心だった。
何もわからないのに、そんな事を決めている自分を少し傲慢だと思わない事もないが、曖昧な感情のまま男のところへ出向くのは躊躇われた。顔を見せないのは何故なのか。そんな質問をしたい訳ではなく、たとえ明確な答えを貰っても僕は何ひとつ変わらないだろう。会いたくなかっただとか気まずかっただとか言われれば、そうかと思うだけだし、忙しかったと言われれば、出向いた事を軽率だったと教えられるだけの事。
ならば連絡すればいいのだろうが、云う言葉がない。
そこで漸く、自分が常に受身であるのだと言う事に僕は気付く。だが、それが悪い事だとは思えない。相手もそれを僕だと理解しているだろう。僕が会いに行かない事はわかっているだろう。わかっているからこそ、彼もまた動かない。この事態は、男が望んだ事なのだ。
そう思うと、いつもの自分とは違う行動は出来なかった。
何処かへ、と。
何処かへ行きたいと願っていた男は、本当に何処かへ行ってしまったのかもしれない。行こうとしているのかもしれない。
考えすぎて、待ちすぎて。はたして自分が本当に男の訪問を望んでいるのかすらわからなくなった僕は、そんないい加減な事を考える事で、迷うのを止めた。自分は行けないと言う結論を出しているのなら、考える理由も何も必要はない。それで終わりなのだと、終止符を打つだけの事。
漸くそれを決めたのは、男と別れて三日目の仕事帰りの道での事だった。
仕事に復帰してから初めての休日は、珍しく朝から雪が降り続いていた。だが、その割には陽射しが強く、晴れまの雪は積もる事なく直ぐに溶けていく。地面に濡れ模様を描くだけだ。
気温ばかりが低い外を歩きながら、キラリと光る雪に目を奪われるのは一瞬の事で、余所見をしていては人波みに飲まれてしまう。危うくぶつかりかけた肩を引きながら、僕は適当な場所で歩道の端により足を休めた。周りを見回し、知った顔がいない事を確認し、自分が立つ場所をメールで教える。その後は手持ち無沙汰に、僕は街の様子をぼんやりと眺めていた。
暇だ、昼飯一緒に食おう。
そんな短いメールで呼び出しておいて、遅れてくるとは相変わらず彼らしいと思いながら、頭では別の事を考える。いるはずもないのに、そうわかっているのに、何故か僕は歩道を行く人の中に筑波直純の姿を求めていた。そんな自分に気付き、心底呆れ返る。
あの別れだ、気にするなという方が無理だというものだろうが、それにしても考えすぎだ。いつの間にか、彼の存在が日常になっている事に、傍に居ない事をどこか寂しく感じる自分に嫌悪すら抱く。もしこれが、彼ではなく自ら顔を合さないようにしたのなら、僕は気にも掛けなかっただろう。ただ忙しくて会えないだけだと知っていたのなら、何も思わなかっただろう。
自信というものがあるわけではないが、そうだったのなら、僕は僕の中の男を見失ってはいないと思う。そう、こうして不安を覚えるのは、自分の中の筑波直純が揺らいでいるからなのだろう。あの時の男に向けた言葉が、今になって間違っていたのではないかと気付く。本心であり事実であったが、ただ自分のために紡いだ言葉のようにも思える。
自分でも知ってはいたが、なんて僕は自己中心的な人間なのだろうか。苦笑すら落ちないそれは、長年付き合ってきただけに、わかっていても捨てられるものではない。厄介だ。自分の欠点を好意的に受け止める人間など、最低と言うべきものなのだろう。
そこまで思い、視界の中に待ち人を捕らえた僕は、考える事を早々に放棄した。自己中な上に無気力とは、救い様がない。別に救われたいわけではないので、自分としては全く問題はないのだが。
「くそっ! 寒すぎるぜ」
背中を僅かに丸める格好で近付いてきた藤代は、開口一番そんな悪態を吐いた。僕に言われてもどうしようもなく、ただ肩を竦めると、「おはよう。悪いな、こんな寒い日に呼び出して」と漸く挨拶をくれる。
「とりあえず、何処かに入ろうぜ。このままじゃ、絶対凍る」
堪らないなとぼやく藤代の耳は、真っ赤になっていた。何だか子供みたいだと、僕は密かに笑う。
「お前、寒くないの? 平気な顔してるぞ」
神経、大丈夫か?
生真面目な顔で僕を見そう言った藤代に、軽く眉を上げてそんなことはないさと抗議し、ポケットに入れていた手を彼の頬に押し当てた。怪訝な顔を一瞬見せ、僕の手をとった藤代が「俺より冷たいじゃんか」と呆れた声を出す。
「お前って、冷え性って感じだよな」
それはどう言う意味だ。
「でもって、鈍くて、そんな自分に気付かない。いや、冷たいなら冷たいままでいい、問題ないって感じ?」
その意見はともかく、お前の話し方は問題ありだろう。
女子高生のように語尾を上げる藤代の首を、僕は冷え切った手で軽く絞めた。冷たいと、暴れるその身体に蹴りを入れる。
「クールなくせに手が早いというか、時々ガキのようにじゃれ付きにくるよな、お前」
なんかあったのか?
適当に店に入り、室内の暖かさに体を伸ばしたところで、藤代は何気なくそう言った。そんな事で、何かあったのだろうかと思う彼に呆れ、同時にその無自覚な鋭さに驚きもする。
何もないと首を振りながら、僕はじゃれ付いているのだろうかと、藤代の適当に吐いただけなのだろう言葉を少し考えた。確かに、じゃれ付いているわけではないが、それに似た感情があったのかも知れない、と。
何故だか、妙に身体のどこかがこそばゆくなるのを覚えた。
夕方から用事があるのだという藤代は、僕も仕事だと思っていたようで、何時頃ステージに上がるのかと聞いてきた。今夜は休みだと伝えると、残念だと笑う。僕の演奏などいつも聞いているのだろうにおかしな奴だと思うと、田舎から二人の妹が遊びに来ているとの事だった。
それならば、僕とこんな事をしていていて良いのかと聞くと、「普通はそうだよな」と肩を竦める。
「俺が折角休みだって言うのに、あいつらは二人で遊びに行ったんだよ。折角の東京に兄貴は邪魔だってな。なのに、夕食はエスコートしろだ。ったく、ピーチクパーチク煩いの何のって」
俺はこの後、大変なんだ。
そう言って嘆く藤代は、けれども言葉程嫌がってはいない。常に元気な彼の妹達と、その彼女達の兄貴としての藤代の姿を想像し、賑やかな兄妹なのだろうと僕は軽く笑った。目敏くも、それを認めた藤代は、「お前はあいつらのパワフルさを知らないから笑えるんだ。同情でいいから、哀れんでくれよ」と情けない声を出す。
「折角だから、お前の店に連れて行こうと思ったんだけどなあ。ま、場違いになるからな、お前が休みなら、止めておこう」
高い食事を奢らされるんだ、酒は安い店にしておこう。
うどんを啜りながら言う藤代は、少しいつもと違うように見え、何だか微笑ましかった。だが同時に、彼が今胸に抱く感情は、兄弟が居ない僕には一生味わえない事なのだろうと思うと、少し不公平な気がした。
何を思っているのか、これでは単なる餓鬼だ。そう思いつつ、知っている別の兄弟に思いを飛ばす。
天川も、誠も。
もう少し恵まれた、平穏な環境にいたのなら。藤代のような誰が見ても微笑ましい兄弟であったのかもしれない。少なくとも、彼らの間にはいがみ合いはなく、互いを思い合っていたのだから、良い兄弟であっただろう。
名ばかりの家族という柵に、その血にあの二人が縛られていなかったのなら。
全てが違っていたのかもしれない。
昼食を摂り外に出ると、雪はやんでいたが空は曇っていた。照りつけていた陽射しがない分、幾分か気温が下がったように思え、僕は北風に首を竦める。
とても寒い冬の日に、一日中寒い外で過ごしたのは、もう昔の事だ。それなのに。
痛いくらいの風に、僕は友人との時を、昨日の事のようにリアルに胸の中で思い出した。
特別な事は何もない一日だったが、あの日が一番、傍に居る彼の温もりを僕は感じとっていたのかもしれない。
2003/10/01