# 104

 昼食後は、楽器屋を何件か回り時間を潰した。
 その一軒で、一日体験入学との文字に二人揃って惹かれたわけではないが、暇そうにしているようだったので飛び入りで音楽教室に乱入し、一時間ほどバイオリンと格闘した。ギコギコと鋸のような音しか出せずに早々に諦めた藤代は、気さくな講師を拝み倒し、他の楽器を手当たり次第に吹き始め、最後は結局トランペットを鳴らしていた。
 こういう無鉄砲な知人も時にはメリットであり、迷惑だろうに年配の講師の男は、僕にも同じように楽器に触れさせてくれた。あまりない機会なので、断る事もせずそれを受ける。店内の一角に、防音ガラス張りに設置された狭いスペースは、いつの間にか二人の遊び場と化していた。
 フルートに挑戦したが、音は鳴るが息が上がり演奏どころではない。その点、息漏れすることはないホルンやトランペットといった管楽器では、簡単なものは吹けた。だが、力みすぎるのか口元が直ぐに痛くなる。一番しっくりきたのは、やはりクラリネットだった。
 予定していた時間をオーバーし、無茶な要求をして手を煩わせたというのに、講師の男は嫌な顔ひとつしなかった。さすが、客商売といった所なのだろうが、単純に楽器が好きというのもあるのだろう。僕達のような今時の若い者が音楽に興味を持っている事が嬉しいのだと、交わす会話の中から滲み出ていた。
 ひやかし半分で入ったところでの思わぬ発見に、僕と藤代は笑いあった。迷惑になるのだろうとわかりつつも、またこの店に来ようと、あわよくば遊ばせて貰おうと二人して考える。残念ながら、それを誡める者は僕達の回りにはない。
 当初の目的のバイオリンは肩が凝るばかりであったが、いい経験にはなったのだろう。少なくとも、弦楽器は自分には似合わないという見解は得られたのだから。
 そんな馬鹿騒ぎを終えた後、電話で妹達に呼び出された藤代と別れ、僕は近くの駅に向かった。

 ホームの柱の影で風を避けぼんやりとしていた僕は、電車の発車ベルに我に返り、閉まりかけた扉に慌てて駆け出した。後一歩でも離れた場所に立っていたのなら危なかっただろう。一本ぐらい遅らせても問題はないのだが、乗れるのならそれに越した事はない。
 ギリギリのところで車内に飛び乗った自分に向かう車掌の非難めいた視線を流し、僕はホームに目を向ける。
 僕と違い、乗り損ねたのだろう。ゆっくりと動き出した電車を恨めしげに見ながら、携帯電話を耳にあてる男とガラス越しに一瞬目を合すが、直ぐに車窓には灰色の街が流れはじめる。
 眺めた空はこのまま雨が降りそうな感じだが、天気予報では晴れてくるのだと言っていた。本当だろうかと出掛けに見たそれを訝しむが、結果はそのうちわかる事だ。

 乗り換えの駅で、買い物を忘れていた事に気付き、僕は改札を抜けた。駅ビルのCDショップに入り、先日発売された和音さんのCDを購入する。特典だとかでポスターがついていたが、レジで渡されそうになったそれを当然ながら断った。男の知人の写真を部屋の壁に飾る趣味はないし、帰宅ラッシュの電車で帰る身では邪魔でもある。
 早々と駅構内に戻る下りのエスカレーターの上で、僕は不意に後ろから呼びかけられた。
「保志くん」
 声から誰なのかはわかったが、振り返り認めたその姿に少し驚く。タッタッと自ら歩き距離を詰めてきたのは、佐久間さんだった。後ろを気にし、歩いて降りる者をいない事を確認して僕の隣に並ぶ。
「今から仕事に行くのかい?」
 そう訊く佐久間さんは、仕事帰りなのだろう。ほんの少し疲れた表情ながらも、ビシッと感じの良いスーツを着、腕にコートを下げていた。その姿は、医者と言うよりもエリートサラリーマンと言ったところだろうか。そう思いながら質問に対し首を振ると、「休みかい?」と付け加えられ、僕はその言葉に頷きを返した。
「そうか。なら、ちょっと付き合ってくれないかな」
 続けてもう一階分のエスカレーターを並んで降りながら、佐久間さんは言う。
「夕食、奢るよ。どう?」
 ニコリと笑うその表情に苦笑を返し、構わないと僕は再び頷いた。だが、奢ってもらう理由はないので、自分の分は自分で払うと忘れずに付け加える。
「別に良いのに、遠慮しなくても。僕の方が給料は貰っていると思うんだけどな、多分」
 多分ではなく、絶対であろう。だが、だからと言って奢られる理由にはならないと首を振る僕を、佐久間さんは楽しげに茶化した。
「もしかしてさ、保志くん。警戒してる? でも、餌で釣られるタイプじゃないよね、君は」
 別に、そう言うつもりもないのだが。
 肩を竦める僕を見る目は、子供を相手にしているかのように優しげで、少し居心地が悪い。何だか、これではまるで、僕が我が儘を言っているような感じだ。
 そんな僕を知りながらも微笑みを消さない佐久間さんは、後ろから上がる足音に気付き、足を使って先にエスカレーターを降りる。僕が降りるのを待つ間に脱いでいたコートを着込み、傍に並んだところで駅から外へと促した。スマートな所作をする人だと思ってはいたが、改めてそれを実感する。
 外はやはり冷たい北風が吹き、陽が落ちた事で寒さを増してはいたが、現金なもので隣に彼が居るからだろう、僕はそれをあまり感じなかった。
「隣のホテルでね、シンポジュームがあったんだ」
 一度病院によって帰ろうと思っていたんだけど、折角保志君にあったんだから止めておこう。
 何処まで本気なのか、ふざける佐久間さんと並んで歩道を歩く。食事は何処にしようかとの問いに、先程のからかいに乗るように僕もふざけた応えを返した。
【財布が寂しくならない程度の店でなら、どこでも】
「オッケイ。リーズナブルな値段で、なかなか食べ応えのあるドイツの田舎料理の店があるんだけど、そこにしようか。結構いけるんだよね。ああ、でも。まだ、お腹は空いていないかな。そうだね、時間があるし、歩いて行くかい?」
 ここからこのペースで歩けば30分程のところにある店の場所を告げ、佐久間さんは歩道橋に足をかける。問題はないので、僕もそれに続き階段を上った。
 帰宅ラッシュの駅に向かう人達なのだろう。歩道橋の上にはサラリーマンの姿が目立つ。帰る前にまだあとひと踏ん張りしなければならないその顔は、けれども既に疲れ気味だった。ぶつからないように体を逸らして、そんな彼らと擦れ違う。駅に向かう人波に逆らう形なので、並んで歩くのは無理だと判断し、僕は佐久間さんから一歩下がった。
 外は暗くなり始めているが、空はまだ微かに赤い色をしている。覆っていた雲が取れたのだろう。太陽は沈んでしまっているが、もしかしたら夕焼けだったのかもしれない、そんな名残が残る空をビルの隙間に見る。
 不意に、コートに入れている携帯電話が震えた。
 空から視線を外し冷えた手で取り出すと、メールだと思ったそれは、筑波直純からの電話の着信を知らせていた。驚き思わず立ち止まった僕は、それを数瞬眺め、迷っていても仕方がないと通話を受ける。相手は、僕から言葉を得られないのを承知の上でかけているのだから。
 いや、迷ったのは、この五日間の沈黙に終止符を打つ事を躊躇ったからなのかもしれない。
『…もしもし。保志だな?』
 久し振りに聞いたその声は、喋れない相手に対しての電話だからと言う以上に、硬い声であるように思えた。いや、不機嫌と言うべきだろうか。だが、それが気になったところで、問う術は僕にはない。言葉の代わりに、コツコツと通話口を叩いて応える。
 後ろの気配がなくなったのに気付いたのか。数歩先から佐久間さんが戻ってくるのを眺めながら、一体何なのだろうかという思いを抱えて僕は男の言葉を聞いた。
『外だな、そこは。何処に居る? いや、それはいいか…』
 そこが何処だろうと同じ事だと、男は呟く。どこか傲慢な雰囲気をそこに感じた。焦っていると言うよりも、その雰囲気は強い意思によって支配されていると言った感じだ。あまり見たことはなかった、ヤクザと呼ばれる人間をそこに見る。
 その声から眉を寄せた僕を知ってかしら知らずか、筑波直純はまるで部下の一人に命令するかのように、言葉を繋いだ。
『さっさと自分のマンションに戻れ。用があってもだ。いいな、保志?』
 突然の事に、たとえ喋れたとしても僕は何も返せはしなかっただろう。
『今晩は、仕事は休みだろう。早く帰れ』
 反抗期の子供ではないのだ。男の言葉に反発したいわけではない。
 だが、僕は、無条件で彼に従わねば成らないわけでもない。僕には、僕という人格がある。
 そのところをわかっているのだろうかと思ってしまうような、普段の男らしからぬ口調に、僕は顔を顰めた。何故、こんな言葉を吐くのか、それを考えねばならないのかも知れないが、今の状況にその術はない。それは電話をしている男にもわかっているだろう。
 それなのに、命令を口にするだけの男は、それが可能だと思っているのか。それとも、考える余裕がないのか。

 こんな訳のわからない一方的な事態を想像していなかった僕は、男の言葉を頭に回し続けるだけで、答えなど考える事は出来なかった。

2003/10/01
Novel  Title  Back  Next