# 105

 僕の変化を不審に思ったのか、佐久間さんが眉を寄せ、少し心配そうな表情を見せた。僕は、何でもないと、無意識に近い感覚で軽く首を振る。だが、その嘘は直ぐにばれるものだと、自分でも良くわかった。
 何でもないわけがない。僕は何ひとつわからないのだ。自分が男の態度を受け止めているのか動揺しているのかさえわからない。
『帰ったら、誰が来ても部屋には入れるな。いあや、帰る途中もだ。知り合いがいても無視しろ。間違っても話し込んだりするなよ、早く帰るんだ。お前の部屋が、一番安全だ。
 今、岡山を向かわせている。見張られているのが気になるのなら、あいつを部屋に入れても良いが、そうでないのなら一人で大人しくしていろ』
 他の知り合いは絶対に駄目だと、僅かに力む声で男は言う。部屋が安全とは、外は危険だという事か? 意味がわからない。第一何故、岡山が来る? 彼に僕を見張らせるつもりなのか? 本当に訳がわからない。
 聞こえているのか、との問い掛けに反応は示さずに、僕は携帯を耳から外してボタンをひとつ押し、スピーカー通話に切り替えた。軽く眉を上げた佐久間さんに、話し掛けるよう指で携帯を示す。
『保志、聞いているのか? 直ぐに帰るんだ、わかったな?』
 相変わらず説明はする気のない零れたその声に、佐久間さんは僕を見つめた。僕はそれに頷きを返す。
「…筑波くん、だよね? 僕、佐久間だけど」
 何かあったのかい?
 おかしな展開に、苦笑交じりに問い掛けた佐久間さんの声に、通話の向こうで息を飲んだのが感じられた。それはそうだろう。何があったのか、何を考えているのかは知らないが、僕に向けた命令はもう実行不可能なのだとわかったのだから。
『佐久間…。お前、何故保志と居るんだ? ……保志と換われ』
 押し殺したその声に、眉を寄せたのは僕だけで、佐久間さんは変わらずに飄々とした言葉を紡いだ。
「心配しなくとも、保志くんも聞いているよ。さっき、偶然会ったんだ。それで食事をしに行こうと言っていたところなんだけど、どうかしたのかい? 何だか慌てているね」
『本当に偶然なのか、怪しいもんだな。妙な事は考えるなよ、佐久間』
「酷いなぁ。僕は別に何も企んでなんかいないよ。――でも、君はそうじゃないみたいだね」
『……何のことだ』
「別に、何も。ただ、保志くんに帰れというのは何故なのかなと思ってさ」
『お前には、関係のないことだ』
「そう? それが本当なら、いいんだけどね。最近、司と会っているみたいだし、僕はてっきり…」
 そう言い、そこで言葉を切った佐久間さんは、欄干に持たれてクスリと笑った。
『てっきり、なんだ』
 誘導されるように、男が問う。佐久間さんは仰け反るように顔をあげて空を見上げ、体を戻した後、僕の持つ携帯に視線を落として言った。
「てっきり筑波くんは、保志くんをやめて司に乗り換えたのかと思ったよ」
『…ふざけた事を抜かすな』
「ふざけているかな。保志くんは、どう思う?」
 普段は佐久間さんが一方的にからかっているように見える、二人の関係。だが、今の佐久間さんは、電話の向こうの男同様に真剣な目をしていた。声はいつもの調子なので筑波直純は気付いていないだろう。僕だけにわかるその空気の変化に、僕は視線を落とし短い息をひとつ吐いた。何だか、嫌な予感がする。
 今の佐久間さんと同じ目をしていた人間を、僕は知っている。
「あはは。溜息吐いてるよ、保志くんは」
『保志、さっき言った通りだ。今直ぐ実行しろ』
 佐久間さんの軽口を無視し、男は僕に語りかけた。今直ぐに、自分の部屋に帰れと。
 だが、そんな事は出来るわけがないし、しなければならない理由も僕にはない。何より、目の前には佐久間さんがいるのだ。あの時の友人と同じ空気を纏った。
「否、だって。筑波くん、一体何を頼んだんだい?」
 静かに首を振った僕の意思を、佐久間さんが変わりに伝える。だが、男が向けるのは僕だけへの言葉だった。
『保志っ!』
 苛立ったその大きな声に、手の中の携帯がビリビリと鳴る。僕の指は通話を切ろうと、無意識に動いた。それを、佐久間さんが止める。
「…何かが、あったんだね。筑波くん」
『……』
「保志くんに帰れと言う事は、外に居れば危険な目に会う可能性があるからだね。でも…、護衛はどうしたんだい? 一人つけていただろう。もう、止めたのかな」
 佐久間さんはくるりと周りを見渡し、「居ないみたいだけれど」と男に問い掛けた。僕はその言葉に驚き、ただ佐久間さんを見つめる。護衛とは、一体どう言う事だ。
『…何をする気だ』
「僕かい? 僕は何もする気はなかったんだけど。そうも行かなくなったのかな?」
『……』
「保志くんと楽しく食事をしたかったんだけどね。残念だ。どうやら、君達は動いているらしい。なら、僕もきちんと対応しないと、このまま終わってしまう。それは避けたいんだよね」
『終わってしまう? 笑わせるな。お前はもう終わりだ。それは決まっている事だ。馬鹿な悪足掻きは寄せ』
 それとも死にたいのか?
 忌々しげに吐き出した男の言葉に、佐久間さんは目を伏せた。そして、そのまま静かに言う。紡がれる言葉と、実際の彼の表情は、全くかけ離れたものだった。
「まさか、死ぬ気はないよ。でも、悪足掻きはする。僕はこう言う人間だって知らなかったのかい?」
 考え込むような表情で、どこか状況を楽しんでいるかのような声を紡ぐ。その姿から、僕は目を離すことは出来ない。囚われるように、吸い込まれてしまう。
 強い決意がそこにはあった。未来が、見える。佐久間さんが掴み取ろうとしている、未来が。
 あの時と、同じだ。
『佐久間っ!』
「筑波くん。保志くんを借りるよ。ま、君が嫌だと言っても、保志くんは僕に付き合ってくれるだろうから、断る事もないんだろうけどね。一応言っておくよ」
 じゃあね、と佐久間さんは瞼を上げると、詰る男の言葉を聞かずに通話を切った。
「……保志くん」
 暫しの沈黙を作った後、ゆっくりと僕に視線を向け、「さあ、行こう」と歩みを促す。
 断るとか、逃げるとか。そんな考えは全く起きず、僕は彼と並んで歩道橋を降りた。
「僕はもう、終わりだそうだよ。かなりヤバイ状況だね、大変だ」
 全く大変そうではない笑いを落としながら、佐久間さんはタクシーを呼び止めるために手を上げる。直ぐに前に滑り込んできた個人タクシーに乗りこみ、シートに身を預けながら彼はホテルの名前を運転手に告げた。
「残念だけど、予定は変更だ。食事は、ホテルでしようか。悪いね。あと…」
 持たれ込んだ姿勢のまま、佐久間さんは右手を伸ばし僕の左手首を掴む。
「これ、外させて貰うよ」
 左手の薬指にはまった指輪を、細い白い指が抜き取った。指輪がどうかしたのかと訝る僕に、外したそれを左手で握りこむと、開けた窓の外でその手を開いた。キラリと、指輪だろう何かがそこから落ちるのが見えた気がしたが、走る車の中ではそれはただの幻覚でしかなかったのかもしれない。
「発信機だからね、あれは。本当にすまないんだけど、勘弁してよ」
 今度貰う時は、こんな事で捨てられないように、普通の物にしてもらいなよ。たかが指輪だけど、やっぱり、こういうのは後味が悪いからね。
 窓を閉めながら、苦笑交じりに呟く。
 発信機だとはいっても、無機物なだけのものではない、指輪を捨てるのは心が咎めると言うかのように、佐久間さんは笑った。だが僕は、あまりの事でそこまで頭が働かない。
 護衛に、発信機。そして、抵抗はしていないものの、拉致をされているかのようなこの状況。
 異様なそれを実感するのも理解するのも直ぐには出来ず。僕はただ、佐久間さんが零す笑いに、悲しみを見ていた。いや、痛みか。
 彼の小さな笑みは、あの友人の姿そのままだった。

 それから、ホテルに向かうまでの車中では、僕達は沈黙の時を過ごした。
 僕としては色々と考える事はあるが、その何ひとつ応えを知る術はないもので、ただこの展開によって何が起こるのか漠然と思い描いていた。
 命令に従わなかった僕を、今頃筑波直純は怒っているのだろうか。呆れているのだろうか。
 佐久間さんは何故、僕を必要としたのか。何に付き合せるつもりなのだろうか。
 発信機とは、本当なのだろうか。あれをくれた時から、男は僕を監視していたのだろうか。護衛も、そう。何かを危惧しての事ならば、確かにそう感じさせる事が起こったのも事実で、仕方がないのかもしれない。だが、僕の了承無しに勝手にしていたというのが、堪らなく惨めに思う。
 そして。それを何故、佐久間さんが知っているのか。危惧した相手に彼が含まれるのなら、筑波直純はそれを自ら教えては居なかっただろう。それなのに、何故。

 やはり、何ひとつ答えはなく。わかる事といえば、指輪を失った指を何故か寂しく思うというものだけだった。
 発信機だろうと何だろうと、一ヶ月近くそこにあったものをなくしたその喪失感が、僕の心に意外な事だが大きく響いていた。
 少し、不安を覚える程に。

2003/10/01
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