# 106
僕と佐久間さんを乗せたタクシーは、高級なホテルの玄関に乗りつけ、二人を吐き出すと直ぐに去っていった。何となくその姿を見送る僕を、佐久間さんが軽く呼ぶ。
「保志くん」
行こうと無言で促すその瞳に、変えられはしない何らかの決意を僕は見た。それが一体何なのか全くわからなかったが、強いそれに逆らう気にはなれず、僕は大人しく彼に従う道を選ぶ。いや、僕はその正体を知りたいと思ったのだろうか。
僕が足を向けた事に、どこかほっとした佐久間さんは、「部屋を取ってくるから、あそこで待っていてよ」とラウンジを示した。だが僕は、何故か自分が離れた途端に彼が倒れてしまうような気がして、結構だと断り同じようにフロントに足を向ける。
「いらっしゃいませ、佐久間さま」
フロント内で恭しく頭を下げたのは、ただの受付係ではないのだろう、洗練された雰囲気を持つ壮年の男だった。名前を知っていると言う事は顔見知りなのだろう。その男と簡単な挨拶を交わしながら、佐久間さんは部屋を決める。そして、少し意外な頼み事を口にした。
天川司以外の者には、自分がここに居る事は口にしないで欲しい、と。
「司が尋ねて来た場合のみ、部屋を教えて下さい。他に誰かがいたとしても、別に構いませんから。あと、司が来た時は、出来たらすぐに僕に知らせて欲しい。部屋を教えた後でもいいですから」
「畏まりました」
「では、宜しくお願いします」
案内は要らないとカードキーを受け取りながら、佐久間さんはフロントマンにもう一度軽く頭を下げると、僕を促しエレベーターに向かった。
「食事、どうしようか。天ぷらの美味しい店があるけど、残念ながらあまり時間がないんだよね」
上昇をはじめたエレベーター内で壁に凭れながら、佐久間さんは言う。
「最後に豪華な晩餐もいいんだけれど、それよりも僕は君と話がしたいな。ダメかい、保志くん」
軽く口元に笑みを浮かべたまま、小首を傾げる。その姿は、一見無邪気なものであるかのように錯覚してしまうが、そんな訳がない。気負う事も何もなく、最後の晩餐だと言い切った彼は、何の終わりを見ているのか。その終わりを知りつつ、貴重な時間を僕と話がしたいという者を、一体どうして切り捨てる事が出来るだろう。
いや、他の誰かだったのなら、自分には関係のない事だと僕は思ったのかもしれない。
そんな確信を少し意識しながら、僕は佐久間さんの「ゆっくりとはいかないけれど、話がしたいんだ」との言葉に深く頷いた。そして。僕もそうだと、話がしたいのだという思いが答えた後から湧きあがるのを感じた。
話が、したい。
僕とのそれにより、何かが少し変わらないかと、僕は期待した。どこか苦しげで、けれども見せる笑顔はもう悟りきったような儚さで。未だに何らかの葛藤を胸に抱いているのだろうに、それを自分で捨てようとしているかのような佐久間さんの姿が、僕には少し痛くて、何かに頼りたかった。小さな、とても小さな希望でも。
それは、今の佐久間さんの姿があの友人を思い出させるからなのか。それとも、佐久間さん自身に対してそこまで思えるのか、正直わからない。
そう。僕は、何も、何ひとつわかっていない。
筑波直純と彼の会話が何を指すのか、わからない。だが、そこには今の何かの終わりがあるのはわかる。もう、終わりだといったその意味は、多分、佐久間さんの立場なのだろう。友人と同じように見えるのは、それを悟った、自分の未来を知っている者だからだ。
筑波直純が、佐久間さんを壊すのか。
天川が、切り捨てるのか。
一体どちらなのか、それとも別の何かがあるのかはわからない。だが、筑波直純にはああ言いつつ僕をここに連れてきた彼だが、僕をどうかするだとか逃げようだとか全く考えていない事は、今の佐久間さんを見ればわかる事だ。口では何と言いつつも、もう既に終わりを受け入れている。きっかけは、その理由は何にしろ、今の彼は自分でそれを掴もうとしている。
あの友人と同じように。
前を行く佐久間さんのその後ろ姿が痛ましく、僕は周囲に視線を逸らした。
何処までも続きそうな、長い廊下。窓のない通路に落ちる光が、僅かに絨毯の上に影を作る。部屋の前で立ち止まった佐久間さんの足元にも、そんな小さな闇があった。
「さあ、どうぞ」
名前を呼ばれ、開かれた扉に足を向ける。促されて入った室内は、サブスイートと言った感じの豪華な部屋だった。バスルームと客室だろう扉の前を進んだ先に、広いリビングがある。カーテンのあけられた窓に近付くと、足元には都会の夜景が広がっていた。右手にある部屋は、多分寝室なのだろう。そうあたりをつけて中を覗くと、やはり寝心地の良さそうなベッドがドカンと中央に置かれていた。用はないので直ぐにドアを閉める。
夜景を見に来たわけではないからだろうか。コートを脱ぎながら、佐久間さんはリモコンを操作しカーテンを閉めた。僕もコートを脱ぎ、皺を気にするものでもないので、ソファの背に引っ掛ける。佐久間さんは何も言わず、ただ小さく笑いを落とした。突然の自体だろうに緊張も何もしていないんだねと、僕を見る目が語っている。
「さて、何から話そうか」
座ってと促され、僕はソファに腰を降ろした。腹が空いているのなら何か頼もうかと言う言葉に首を横に振ると、それならばとアルコールの名前を上げられる。酒を飲む気分ではなかったが、ルームサービスを取るという彼に僕も付き合うことにした。
佐久間さんはシャンパンとフルーツを頼んだ。「女性みたいだけどね」と自らそれを笑いながら注文を終えると、常備されているホテルのロゴ入りの便箋と万年筆を手に、僕の傍にやってくる。ローテーブルにそれを置き、彼はそのまま自分もそこに腰を降ろした。
間近で僕と向かい合い、真っ直ぐと視線を合わせてくる。躊躇いは、何処にもない。
僕は預けていた背をソファから起こし、曲げた膝の上に肘を置き前屈みのような姿勢をとった。佐久間さんの組んだ脚に、右手がほんの少しあたった。それを誤魔化すかのように、便箋に手を伸ばす。
その僕の手を、佐久間さんがそっと押さえた。
「話す事は、あるんだ。でも、話し合うことは何もないのかもしれない」
静かに落とされた言葉の意味は、直ぐには理解出来ないものだった。
「君はわからない事だからと言って、ストレートに訊く性格じゃないし、僕は訊かれた事に真摯に答える性格じゃない」
回りくどいその言い方に、僕は眉を寄せる。何を言いたいのだろうか。
「僕達が話し合っても意味などないんだろう。君は、ここに居てくれるだけでいいよ」
その言葉に、僕は考えるよりも早く首を振った。
先程話をしたいと言ったのは、僕をここに連れ込む口実だったと言うのだろうか。それとも、今になって気が変わったのか。そのどちらかなのか、僕にわかる訳がない。それと同じように、佐久間さんにもわかっていない事がある。
【僕は、あなたと話がしたい】
ペンを握り、佐久間さんに見えるように腕を伸ばした状態でそう記しながら、僕はまた別の事を考えた。話はあるが、会話はしたくないのかもしれない。僕の言葉は要らないと、そう言う事なのかもしれないと思い至る。
脅えているのだろうかと、何故かそんな風に僕は感じた。
だが、次の瞬間にはそれをまさかと否定し、僕には興味がないのだろうと考える。そう、佐久間さんにとっては、僕は筑波直純を呼び出すだけの道具なのかもしれない。そうでなければ、天川に僕を差し出すつもりなのか。
しかし、天川ならば通して良いと言った彼は、特にそこに救いを求めているようには見えなかった。終わりだと言い切った筑波直純の手から逃げたいのであれば、来るのを待つよりも、何よりもまず天川に助けを求めるべきなのだろう。
ただ単に、売り言葉に買い言葉のいつもの調子で、どこか焦っている筑波直純をからかっただけなのだろうか。天川は、ただの鍵だと言うだけのものなのか。
やはり、何が起こっているのか、佐久間さんは何をしたいのか、僕には全くわからない。
だからこそ、話を訊きたいと思う。話して欲しいと。
たとえそれが無理だとしても、離す価値が僕にはないのだとしても。僕は他にも、今のこの状況以外でも、佐久間さんと話をしたいと思う。友人のような雰囲気を持つ、今の彼と。
【あなたと、話がしたい】
僕は、同じ言葉をもう一度書き、見上げるように佐久間さんに視線を向けた。何故か幾分か強張った、表情を失った顔で僕の手元を見つめる佐久間さんが、僕のその目に気付きハッと顔をむける。
一瞬見せた意外なその顔は、多分僕に関してのものではない。僕の記した文字に、一体何を見たのだろうか。直ぐにいつもの笑顔を浮かべる佐久間さんに、僕は決して彼が今のこの状況に落ち着いているわけではないのだと知る。もしかすれば、僕よりも緊張しているのかもしれない。
「…何を、話したいの?」
【全てを。僕は、今の状況ひとつわかっていない。教えて欲しい】
「僕が、嫌じゃないのかい? 怖くないの?」
何故、そうなるのか。僕は、無理やりここに引き込まれた訳ではない。それは、僕を連れてきた佐久間さんにもわかるのだろうに。
少し驚くように訊かれたその問いに、僕は首を振る。
【あなたの事は好きですよ】
「だから、逆らわずについて来たのかい…?」
逃げるチャンスはいくらでもあったのに。そんな事をしたら、筑波に怒られるのだろうに。
馬鹿だねと軽く目を伏せて笑う佐久間さんの声に、ベルの音が重なる。部屋に響いたその音に顔をあげ、彼は入口を窺った。
「…ルームサービスだね」
天川が来たと思ったのだろうか。一瞬緊張を見せた佐久間さんは短い息を吐き、机から腰を上げリビングを出て行った。直ぐにボーイが入って来て、佐久間さんに指示されフルーツが乗った皿とグラスとシャンパンをテーブルに置く。伝票にサインをした佐久間さんは、「ありがとう、ご苦労さま」と出て行く従業員を見送った。
――佐久間さん。
あなたは、僕をどんな人間だと思っているのだろうか。
たとえ興味がなくとも、佐久間さんは僕と言う人間をどうとらえているのか。何故だかとても気になった。
だが、そんな問いを放てるはずもなく、僕は彼の背中から視線を外す。
落とした目に映るのは、場違いな程に上質な毛並みの絨毯だけだ。
2003/10/08