# 107
注がれたシャンパンを暫し眺め、佐久間さんを真似てフルーツを口にした後それを喉に流し、女みたいだと笑った彼の言葉を漸く納得する。フルーツの甘味とシャンパンの酸味の取り合わせは絶妙で、それは確かに女性好みのものだった。
「美味しい」
甘いものを食べた少女のように、幸せそうに笑った佐久間さんは僕と視線を合わせ目を細める。
「和んでいる場合じゃないんだろうけどね。だからこそのものかな」
まるで落ち着いていなければならないと言うように、佐久間さんはそんな言葉を口にした。昂ぶる心を無理やりリラックスさせるように、フォークで突き刺したフルーツをゆっくりと口に運び、酒を味わう。それは少し、僕には努力してのもののようにも思えた。
一杯目のグラスを空にし、佐久間さんは向かいに降ろしていた腰を上げ、僕の隣に座りなおす。ソファの背に凭れ、上げた片膝を腕で抱えた。
「そう言えばさ、保志くん。怪我は大丈夫なのかい?」
筑波が騒いでいたからね、司も知っているよ。
その時の事を思い出したのか、自分の発言にか、クスリと笑い、片手を僕に伸ばしてくる。抵抗はせずにただその動きを眺めていると、佐久間さんはそんな僕と目を合わせてきた。胸に細い指先が触れ、ゆっくりと掌が押し当てられるのを感じる。
「ヒビが入ったんだってね。まだ、固定しているの?」
僕が首を横に振ると、「そう。なら、大した事はなかったんだね」と口角を上げた。手が胸から離れ、今度は肩から首に触れてくる。何度か繰り返すその動きに、一瞬何なのかと考え、首の傷痕を撫でられているのだと僕は気付いた。自分でも忘れているような薄い傷痕を、佐久間さんの指がなぞる。
「あの時の筑波は、なかなか見ものだったよ。お前がやったんだろうと司に詰め寄ってね。馬鹿じゃないから声を荒げる事はしなかったが、証拠もなくそんな行動を起こすとはね。そっち方が軽率だよ、絶対。
でも、既にあの時に今の計算をしていたのかもしれないな」
馬鹿なのは僕だったようだと、佐久間さんはクスクス笑いながら僕から手を引いた。代わりにその手をボトルに伸ばし、グラスに琥珀色の液体を注ぐ。
その彼に、僕は膝の上に置いた便箋に文字を記し、問いを放った。
【何が起こっているんです?】
「君は、本当に何も知らないのかな。ま、筑波は言いそうにないからそれも仕方がないけど…。でも、ある程度は気付いているんだろう。君に関する事なのだから」
僕に?
少し意外に首を傾げると、「そうだよ、君だよ」と佐久間さんは肩を竦める。
「僕は、いまいち君の事がわからないよ。一体何処まで演技なのか、本心なのか」
何を言っているのか。演技をしているつもりなど、全くない。しているのならば、佐久間さんだ。確かに、嘘をついてはいないという程、誰にも隠し事ひとつない人間ではないが、少なくとも佐久間さんに対しては、僕はそんな事をしてはいない。少し、心外だ。
「筑波じゃないけどね、君は少し、難しい」
その言葉に、僕は眉を寄せた。だが、それは予期していたのだろう。表情ひとつ変えずに顔に笑みを乗せたまま、佐久間さんが言う。僕をからかっているのだろうか…?
「筑波と君はさ、付き合っているとは言わないよね」
突然のその発言に、僕は軽く目を見開いた。その驚きを違う風に問った佐久間さんは、「何だ、秘密だったのかい? 気付かない訳がないじゃないか」と喉を鳴らす。
確かに、からかわれはしたし、けしかけられもした。報告をしたわけではないが、察している事を感じつつもそれを否定しきらなかったのだ、勘の鋭い彼に筑波直純との関係を知られていないと思っていたわけでもない。ただ、そう僕に口にするのが意外だった。
今までからかいこそすれ、はっきりと断言はしなかった。あくまでも、自分は部外者だというように。それなのに、ここに来てそれを崩す。僕を馬鹿にするかのような、笑みを浮かべて。
「ま、ここで男同士がどうだこうだとは言わないよ。別に君達のことだ、どうでもいい」
そう言いながらも、佐久間さんはグラスに口をつけ、言葉を続ける。
「ただね、こうなってくるとなかなか厄介なんだよね。気にしないわけにも行かない。君達はさ、互いに片想いをしている感じだ。君も筑波も、無我夢中って感じなんだよ。筑波はあの性格だから、傍目にもそれは簡単にわかる。けど、君は違うね。自分の心の中でぐるぐる回り続けている。自分だけで答えを出そうとしている。だからこそ、外に見せる顔は冷静だ」
そんなところが、余計に筑波を煽るんだということを、君は自覚しているかい?
佐久間さんはグラスを持ったまま、人差し指で僕を指さし、小さく頭を傾けた。正直、そう軽い態度で、笑顔で指摘されたくはない痛いところだ。別に腹正しくは思わないが、こんな風に口を挟むなど一体何を考えているのか。見えない佐久間さんのその思惑に、僕の眉は寄る。
そんな風に顔を顰めた僕を、彼は小さく笑った。
「別に、欠点だとは言っていないよ、怒らないで」
シャンパンを口に運び、グラスをテーブルに置く。佐久間さんは一度眼鏡を外し、少し疲れたように目頭を揉んだ。レンズの汚れを確認し、掛けなおす。
「でもね、君に言わせればお節介だろうが、筑波は君のそのクールさにヤキモキしているのは確かだ。そして君は、彼の真っ直ぐな強さに戸惑っている。互いに、求め合っているのに自分でいいのかなんて考えている。片想いじゃないんだ、一方的なものではないんだ。二人で幸せを作ればいい。なのに、何故か君達は自分一人でそれを得て相手に与えようとしている感じだね」
君達がしているのは、どう見ても片想いだ。付き合っている意味がない、馬鹿みたいなものだよ。
紡がれる佐久間さんの言葉を、僕は茫然と耳に流し込んだ。正直、そんな事は考えてもみなかったものなので、直ぐには受け入れられない。
「不器用というよりも、意地になっている感じだね」
理解しようと、その言葉を考える努力をする僕に、佐久間さんの声が響く。
片想いがどんなものなのか、付き合うとはどういう事なのか、僕にははっきりとわからない。恋愛がどれだけ相手を縛れるのか、また自分を縛るのか、全くわからない。けれども。
佐久間さんの言葉は、そうであるのかもしれないと思い込ませる力を持っていた。僕の事はともかく、筑波直純を好きな彼がそう感じたのなら、少なくとも外れてはいないのだろう、と。そう。あの男が僕に苛立つのも、その原因が僕の性格にあるのも、間違いではない。
そして。
佐久間さんの言うとおり、どこかで意地になっている部分が僕の中にあると言うのも確かだ。
何に対してのものなのか、それが一体何処からくるのかは全くわからないが、当たり前のように存在し自分を支配しているかのようなそれを僕は知っている。何度も、それに縋ってきた。ある意味それは僕の逃げ道だったのかもしれない。
筑波直純との事もそうだが、あの友人の事にしてもそうだ。
僕はどこかで、現状から逃げないために我を通し続けていただけなのかもしれない。
過去となっていくそれを一番受け入れていなかったのは、天川ではなく僕なのかもしれない。
2003/10/08