# 108

「君達が上手く行くか、それとも失敗するか。白黒はっきり決まっていれば、こんな事にはならなかったんだろう。そう考えると、結構迷惑だよね、君達は。別に、怒りはしないけどさ、それで痛い目を見るのが僕だとなるとね、ホント馬鹿みたいだ」
 僕の表情を伺いながらも、それを考慮に入れる事はなく、語りたいままに佐久間さんは口を開く。今のこの状況に、僕と男の関係が一体どのように、どれほど影響したというのか。僕が、この何らかの事に本当に関わっていると?
 疑問を顔に乗せる僕を、彼は些か呆れたように鼻で笑った。
「まだわからないのかい? 筑波の性格だ。君と上手くいっていたのなら、少しばかり煩い周りを気にすることはない。突っついてこっちを向かれては厄介だからと、安全のために放っておくことにしただろう。逆に、君との事がダメになっていたのなら。確かに女々しいところもなくはないが、自分が関わる事でリスクを増やしてしまうかも知れないと言う意識はあるから、きっぱり手を切ったはずだ。君の関係のないところで、厄介者に睨みを聞かせる程度の事はするかもしれないけどね。
 だが、そのどちらでもなかった。君達は、中途半端な関係で留まった。筑波は焦れたんだろうね。この件にけりをつけて、君に自分を選んで欲しいと考えた。いや、この件がなくならない限り、君は自分を見はしないと悟ったのかな。君の中にいるものを、追い出すしかなくなったんだ。今以上の君を求める彼にはね」
 健気だと、佐久間さんは馬鹿にした笑いを落とす。だが、僕には何を言いたいのかさっぱりわからない。
【僕の中にあるもの?】
 一体、それは何なのか。
 僕が記した文字に、男に向けたものと同じ嘲笑を落とし、佐久間さんの口がゆっくりと開く。
「君の中にある、消える事のないその傷だよ」
 8年前のあの事だ。君が失った声を聞きたい、ロマンチストなんだよ、筑波は。
 そんな風に言いニヤリと笑った佐久間さんは、「それで。彼に勝算はあるのかな、保志くん」と僕の持つグラスに自分のグラスを取り重ねた。カチンと小さな音が上がり、琥珀色の液体がゆれる。気泡が、踊る。
「筑波は、誠くんを君の中から取り除きたいのか。それとも、君の変わりに憎い僕をやっつける気なのか。どちらかなんだろう」
 どちらにしても、真面目な彼らしいと小さな笑いが零れる。だが、それは全く笑えるものではない。僕の代わりに、筑波直純が佐久間さんを…?
 その考えに、漸く彼が言った言葉の意味がわかった。あの男に対する僕の態度が、佐久間さんへの敵意になったと、そう言うことなのか。
 思い当たらない点がない訳ではない。だが、まさか。まさか、そんな訳がないと頭が否定する。
【厄介者とは、天川さんじゃなく、あなたの事?】
「そうだろう。この場合は」
 当然だと頷く佐久間さんを見、僕はゆっくりと頭を振る。冗談じゃない。
 こんな説明をされても、納得などいくものではない。何が、どうなって、佐久間さんが厄介者だと言う事になるのだ。本人がわかっていたとしても、僕には到底理解など出来ない。
 状況の不味さに、まず何をすればいいのかわからない。こういう時、人よりひとつ声というものが欠けている事を不便に思う。それにより、幾つもの手段が絶たれる事に苛立ちも感じる。だが、残された方法を考えれば、その感情に流されているわけにはいかないのだろう。
 効率よく、何をどう伝えればいいのか。
 憮然とした表情の僕に、佐久間さんが首を傾げる。
「何?」
【さっきも言ったが、僕はあなたが好きだ。あなたを潰したいとは思っていない】
 考えが纏まらないまま、それでも今は悩んでいる余裕はないと、思うままにペンを走らせた。その頭の隅で、どうにか考えを巡らせる。自分が何をしたいのかは、わかっている。だが、今は何が出来るのかを考えなければ状況は好転しないのだろう。
 筑波直純が勘違いしているだけなのなら、僕だけで止められる事なのかもしれない。僕は、決して佐久間さんをどうにかしたいなどとは思っていないのだから、本当に僕のためだと言うのならば、それは無理な事ではないだろう。
 だが、それだけのためにあの男が動くとも考え難い。
 自分の部屋で僕が暴行を受けたあの事件を、男は天川と佐久間さんの犯行だと初めから言い切った。特に、佐久間さんの事を以前から良く思っていなかったからなのだろう、天川が知らない可能性はあるが、佐久間さんが犯人であるのも絶対だと言うような言い方をもした。
 あの時僕は、自分の身に起こった事と、動き始めた周りの変化にばかり目が行き、そう主張する男の姿があまり見えていなかったのかもしれない。何を言っているのだろうかと、そうではないのだと僕は自分の意見に自信があったからだろう、彼の話をきちんと訊いていなかったのだと今ならわかる。
 今にして思えば、あの時の筑波直純の態度は、必死だった。真剣だと言う事はわかっていたが、それは自分の話を聞き入れない僕への苛立ちだと思っていた。しかし、それ以上に切実な訴えであったのかもしれない。今となっては、真実はどうであったのかなど訊けはしないが、彼は本気で僕を心配していたのだろう。もしかしたらそれより先に、僕の知らないところでそう考えてしまうような何かあったのかもしれないが、確かに僕の身を彼は案じていた。
 しかし。それは、二度目の時はなかった。見えなかった。犯人を責めるよりも、自分を責めていた。あれがカモフラージュだったとは思わないが、男の中では犯人は既に描かれていたのだろう。僕に問い詰める必要も、意見を聞く必要もなかったのだろう。自分がどうにかしようと、あの時にはもう決めていたのかもしれない。
 だから、あんなにもあっさりとしていたのかと今更ながらに気付く。佐久間さん達ではないと思うと言ったのは、嘘だったのか、それともたとえそうでも関係がないと思ったのか。彼らではないだろうと言う僕の発言をどんな気持ちで聞いていたのだろうかと、僕はその時の男の表情を思い出そうと記憶を探ったが、朧げにも出てこなかった。
 変わりに、佐久間さんではないと言い張った時に向けられた、忌々しげな視線を思い出す。
 もし今同じ事が起こっても、僕は佐久間さんではないと主張するだろう。そこに願望が全く無いわけではなく、彼なのかもしれないという疑いはあるだろうが、それでもそう言い切ると思う。僕にとっては、誰がそんな事をしたのかではなく、何故そんな事をしたのかが大事なのだ。
 しかし、筑波直純にとっては、理由ではなく犯人が重要なのだろう。それが、僕と彼との違いだ。
 佐久間さんは、盲目的に天川だけを溺愛しているわけではない。確かに、それに近いと僕も初めの頃は思っていたが、彼と接し、他の人間にも目を向けるのだと知った。いや、感じたと言う方が正しいか。そう、佐久間さんは天川だけではなく、筑波直純の事も気に入っていた。天川に向ける感情とは全く別物ではあったが、それでも彼の特別であるのも変わりないのだと僕は思う。
 だからこそ、佐久間さんは僕をかまったのだ。天川が僕に向ける憎しみは、彼にとっては共感するものではないが、喜ばしいものではなかっただろう。自分以外に強い感情を向けるのは、彼を愛している佐久間さんにとっては、嫉妬を抱いてしまうようなものだ。だが、子供のように単純にその心が左右されるわけでもなく、彼はそれを自分にいいように扱う術を持っていた。僕を少しかまう事で、天川の更なる関心を手に入れたのだろう。そして、筑波直純の。
 利用されているのだとは思わない。それが佐久間秀という人間なのだと思えば、腹も立たない。それこそ、自らはっきりとした態度を取り続ける事が出来ない天川に比べれば、好感が持てるくらいだ。けれど、僕はそうであっても、筑波直純は違ったのだろう。佐久間さんのそのストレートすぎる態度に苛立っていた。そして、納得している、僕の態度にも。
 僕にすれば、佐久間さんは天川を欲しているだけにしか過ぎない。その方法や、行動に問題がないとは言えないのだろうが、それは僕にはあまり関係のない事だ。そう、あの友人と同じで、彼らの問題なのだ。僕は、その点では部外者に過ぎない。だがこれは、僕だけではなく、筑波直純にも言える事。
 僕もあの男も、佐久間さんにそこまで踏み込んではならないのだ。人は、そうした部分を必ず持っている。逆に、誰にでも許せる領域など限られているのだ。それ以上侵してはならない場所に、筑波直純は踏み入ったのかもしれない。僕も、今からそこに足を入れるのかもしれない。
 ふとしたその考えに、僕の頭は痛みを訴えた。
 もし、この思い付きが、ただのそれではなかったら…。
 杞憂に終わる事を祈りながらも、確信が僕の背中を這い上がる。
 具体的に、佐久間さんを潰すだなんてどう言う意味かはわからないが、筑波直純は行動を起こす。いや、もう起こしている。そして、佐久間さんも。僕と彼がここに一緒にいる事は、救いとなるのか。破滅に繋がるのか。
 促されるまま、深く考えずに彼についてきた事が、果してどう影響するのか。見えない未来に、僕は眉を顰める。
 僕が掴みたいのは、今まで通りの関係だ。
 もし、天川が僕に何かをしたいのならば、すればいいだけの事。文句はない。先日彼が言った言葉を僕は受け入れている。憎み続けられるのも、悪くはないとも思う。そんな僕を邪魔だと佐久間さんに思われるのは、正直嬉しい事ではないが、仕方がない。だが、表面的な笑顔でも、向けられていたいと僕は思う。彼の中には僕だけに対しての感情など、最初からないのだろう。何を思うのも、天川がどうだとか、筑波直純がどうだと誰かが関係しているのはわかっている。それでも、僕は彼を好きなのだから、今の関係を望む。たとえ、それを筑波直純が苦痛に感じたとしてもだ。
 今の関係が、ベストだとは思っていない。そうであったのなら、こんな事にはならないだろう。だが、僕が望むのは、この関係なのだ。
 僕は、誰も終わらせたくはない。もう、誰も。
 多分それは、天川もだ。友人が命をかけたあの男を、好きではないのも確かだが、どうにかしたいとも思わない。
 だから、こんな事は無意味なのだと。何故、筑波直純と佐久間さんがいがみ合うのだと、僕は訴える。二人の間だけを考えれば、問題などないのではないか。少なくとも、僕には何かがあるようには思えない。
 だが、僕のその言葉を佐久間さんは受け入れはしなかった。
「筑波にとっては、もう僕の存在そのものが邪魔なんだろう」
 たとえそうであったとしても、そんな理由で何をするというのか。嫌いなのなら、感情を捨てればいい。意識しなければいいのだ。
【ただそれだけの事で、あなたをどうにかしようと?】
「それだけって、それで充分だろう」
 そんな訳がないと、僕は首を横に振る。それでは単なる子供だ。何より、佐久間さんは、ただのクラスメイトでも同僚でもないのだ。気に入らないから苛めると言ったような単純なものが通るはずがない。それは、筑波直純も、そして佐久間さんも充分に知っているはずだ。
 佐久間さんには、天川がいる。
【天川さんは? 彼は】
 許すはずがない、何をしているのか。続けたかったのはどちらの言葉だっただろう。
 僕が記したその名前に、佐久間さんは直ぐに反応し、乾いた笑い声を立てた。
「司はもう、あまり役には立たない。関係ないよ」
 どう言う意味かと眉を寄せた僕の隣から、佐久間さんは立ち上がる。
「さっきの筑波との話、聞いていただろう。最近、司に何やら吹き込んでいたようでね、筑波は。あの言い方からすると、司を手に入れることに成功したらしい。僕も、簡単に捨てられるように育ててはいないつもりだけどね。筑波に上手く押さえ込まれたかな。葛藤の末、口を挟まない事にしたのか、それとも決定的な何かを叩きつけられたのか。何にしろ、司はこの件で僕の役には立たないようだ」
 上着を脱ぎソファにかけると、僕の前を横切りながらネクタイを緩めた。シュルッと衣擦れの音を響かせて首から外し、手を伸ばした鞄にそれを仕舞う。その変わりというように佐久間さんが取り出したのはシガーケースだった。
「僕はもう終わり、だってさ。筑波は僕をどう終わらせるつもりなんだろうか、楽しみだね。まさか、彼に引導を手渡されるとは思ってもみなかったね。それもこれも、君のお陰なんだよね、保志くん」
 佐久間さんは煙草を咥えながらそう言い笑いを浮かべていたが、その目は何の感情も持っていないようなものだった。あまりにも何もなさ過ぎて、一瞬僕は誰と向き合っているのかも忘れそうになる。
 本当に、終わりを望んでいるのだろうか…?
 佐久間さんのその姿に、僕は愕然とする。
 僕が、嫌だと叫ぶ余地は、もう何処にもないのだろうか。
 煙草に火を点ける佐久間さんを見ながら、僕は耐えがたい苦痛が胸の中に沸き起こるのを感じた。

 あの時も、確かこんな焦りにも似た思いを抱えた。処理しきれないそれに混乱し、何ひとつ自分は出来なかった。
 そう、何ひとつ。

 僕は、今。
 同じ過ちを繰り返そうとしているのかもしれない。

2003/10/08
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