# 109

 佐久間さんが煙草を吸うのは初めて見るなと、ふと気付く。  医者だからと言う訳ではないが、吸わないのだろうと思っていた。だが、それも単に僕が知らなかったというだけのものであったようだ。慣れた仕草で煙を吐き出すその姿に、多分この人に関しては知っている事の方が少ないのだろうと思い知らされる。
「僕が好きだって言ったけど、そんな嘘はつかなくていいよ、保志くん。君が訊きたい事があるのなら、僕は話す。だから、僕の機嫌をとる必要はない」
 クスリと笑いそう言う佐久間さんが、僕にはわからなかった。僕の気持ちを信じられないと言うのではなく、絶対に違うと言い切るその姿が、遠かった。
 好かれているとは、思っていない。けれども、嫌われているとも思っていない。関心がないのだと言う事はわかっている。天川や筑波直純の事がなければ、僕などどうでもいいのだろう。だが、僕は違う。僕は、佐久間さんが好きなのだ、本当に。
 好きな者に言葉が届かない事は、自分の感情が届かない事は、とても苦しいのだという事を僕はこの時になって初めて知った。
「君は、僕が嫌いなんだろう?」
 僕はただ、静かに首を振る事しか出来ない。それが、歯痒い。
「本当に、僕を好きだというのかい?」
 ああ、本当だ。
 迷う事無く返した僕の頷きに、けれども佐久間さんは声を上げて笑った。
「それが本心なら、僕は君を買いかぶりすぎていたようだ。君は何もかもを知っていて、それで口を噤んでいるのだと思っていたんだけど、違うのかな。自ら手を出す気はないが、僕を鬱陶しいと思っていたんじゃないんかい? 憎んでいなかったのかい?」
 先程と同じように首を振ったが、内心では僕は沸きあがってきた恐怖に脅えはじめていた。いや、驚きと自分の浅はかさに気付き、衝撃を受けたのか。
 僕を見る佐久間さんの目を、あの時の友人と同じものだと感じていたのに。そこに決意を見ていたのに。それが何なのか、何故もっと深く知ろうとしなかったのか。何故、今になってそれに気付くのか。
 終わりとは。
 佐久間さんが掴もうとしているその未来は、あの友人が選んだものと同じなのかもしれない。終わりとはその可能性もあるのだと、僕は突然意識した死に身を捩る。
 佐久間さんが、死を選ぶ…?
 冗談じゃない。そんな事があって堪るかと、僕は浮かんだ思いを必死に否定しようとした。だが。
 本当に冗談ではないのだと、佐久間さんを取り巻く空気が語っている。
 本当に。本当に、この人はあの友人と同じ事をしようとしているのか…?
 衝撃に打ちのめされそうになる僕に気付いていないのか、佐久間さんは言葉を紡ぐ。
「君は知っているのだろう? 彼は、誠くんは、僕を憎んでいた。嫌っていた。きっと今なお、恨んでいるよ。君は友人だったんだ、聞いていたんじゃないのかい。彼から僕の事を。嫌な奴だと、良く言っていたからね」
 確かに、あの友人は言っていた。嫌な奴だと、忌々しげに言っていた。だが、それがどうしたと言うのだ。
 紡がれる言葉が、全ての真実を語るわけではない。
 そう、今の佐久間さんと同じ。
「だから、邪魔だったんだ。死んでくれて助かったよ、鬱陶しくて困っていたんだ」
 薄い笑いを浮かべての告白に、僕は目を見開いた。何を、言っているのだ、この人は。これで終わりを選ぼうというのか。負けたくはないのだと言いながら死を呼び寄せたあの少年のように、自ら戻れない場所に進もうとしているのか。
 この状況でのこの告白は、自棄になる性格ではない佐久間さんの事を考えれば、そうとしか取れないものだった。筑波直純が手を下そうとしているが、反抗もせずに僕はここにいるのだ。ならば、助かる道はまだある。それをせずに今、僕を煽ろうとするのは誰が考えても得策ではない。しかしあえてそれをするという事は、佐久間さんは逆の結果を望んでいると言う事だ。
 望んでいる終わりとは、死なのか。それとも、別の何かなのか。
 僕にはわからないが、あの友人と同じようにそこには確かなものがある。
「君も、薄々は気付いていたんだろう。彼が死を選んだその訳を。君は、彼の最期の言葉を訊いたんじゃないのか?
 僕を、恨んでいただろう? その通りだよ、僕が彼を追い詰めたんだからね。直接じゃないが、彼を殺したのは僕だ。それでも、君は僕を好きだと言うのかい?」
 友人を殺した相手を好きだなんて、趣味が悪いよ。
 優雅というのが似合いそうな、そんな仕草で足を運びながら僕に近付き、優しく微笑む。その佐久間さんの顔を僕は見上げ、僕は思わず視線を落とした。ゆっくりと、首を横に振る。
「何? 本当に全く気付いていなかったのかい、僕が殺した事に」
 嘆いていると、動揺していると思ったのだろうか。佐久間さんはそう言った。だが、そうじゃない。そんな事など、どうでもいいのだ。
 問題なのは、今重要なのは、過去の事ではない。
 確かに、求めるものが同じで、互いを疎ましく思っていたのかもしれない。そう言う感情がなかったとは、あの少年にも言い切れないだろうし、佐久間さんも全てが嘘ではなく少しは存在したのだろう。だが、それが今、何にどう関係あると言うのか。
【何故、今そんな事を話す?】
 もっと、言うべき言葉があるのかも知れないが、けれども自分が気付きかけたそれを確かなものにしたくはなくて。僕は逃げるようにそんな問いをする。ただの過去ではないかと訴える。
 けれども、佐久間さんは簡単に頷きはしない。
「最後の良心…なんて訳はないな。ただ、君が何も知らずにいるのも可哀相かなと思ってさ。いや、滑稽でつい、って感じかな」
 そんなのは、嘘だ。
 佐久間さんの返答は、どうしても僕には信じられるものではなかった。信じたくないのではなく、僕はそれを嘘だと知っているから。
 佐久間さんがそう話そうと決めただけの事で、それは真実ではないのだ。彼がそう思って欲しいのだとしても、僕に自分を憎ませたいのだとしても、僕はそれに協力する事は出来ない。
【違う、それは嘘だ】
「何がだい?」
【あなたは、誠を殺してなんかいない】
「信じられないんだね。でも、僕が嘘をつくメリットなんてないだろう。残念ながら事実だよ」
【違う。あなたは、誠の事が好きだっただろう。誠も、あなたの事を嫌ってはいなかった】
 そう、佐久間さんの言葉には、矛盾がある。
 誠を、追い詰めた? もしそれが本当ならば、彼は自らの死を選びはしなかっただろう。あの友人の性格ならば、それこそ、自分にではなく仕掛けてきた佐久間さんに銃口を向けただろう。そうしなかったのは、佐久間さんを恨んではいなかったからだ。確かに、好いてはいなかったのかもしれないが、認めていたのだろう。そうでなければ、絶望を見たのだとしても自分だけを逝かせるはずがない。彼は賭けたのだ、天川と佐久間さんに。それが何なのかは僕にもわからないが、自ら死を選んだのだ。誰に言われたのでもなく、自分で選んだのだ。
 以前は、もっと単純に僕も考えていた。天川を佐久間さんに渡してしまわないように、天川に自分と言う傷をつけたのだと。自分なら、天川にそれが出来ると確信したうえで選んだ最後の手段だったのだと思っていた。
 だが、本当はもっと複雑だったのだと、今ならわかる。天川の事を、佐久間さんの事を知り、そして、少しは人を見る事が感じる事が出来るようになった僕は、友人の胸の奥が前より見える気がするのだ。あの強気でいて繊細な友人が、嫌いだとあからさまに佐久間さんを罵倒したのは、彼を認めていたからなのだと今ならはっきりとわかる。
【あいつは、自分で決めて死を選んだんだ。あなたは殺してはいない】
「そう信じたいだけだろう。彼はそんな軟な人間じゃないと。でも、人間そう強くはない。まして彼は、ドラッグに溺れていた。彼がその狂った頭で見たのは、無能な自分か、それとも憎い僕なのか。そんなのは知らないけれど、全く僕が関係なかったわけではないのは事実だろう?
 確かに、僕はその存在を鬱陶しいとは思っていたが、彼自身を嫌悪していたわけではない。別の何処かで暮らしていたのなら、興味も何も持たない人間だっただろう。だが、彼は司の傍にいたんだ。邪魔で仕方がなかったよ、本当に。
 そう。そんな僕同様、彼も僕の事を邪魔だと思っていたんだろう。似た者同士って奴なのかな。間違いなく、同類嫌悪だよ」
 灰皿に短くなった煙草を置きながら、佐久間さんは肩を揺すった。体から響くその笑い声は、一体誰を、何を笑っているのだろうか。一筋の煙が、何処か空しい部屋の空気に溶ける。
 まだ成長し切れていない子供だった友人ならば、嫉妬とプライドから確かに佐久間さんの言うように思ったのだろう。だが、あの時の佐久間さんは、僕が子供だったと言うのもあるだろうが、大人であったと思う。そう見えた。少なくとも、僕や友人と同じ価値観を持つ程の子供ではなかった。
「弟だか何だか知らないが、司、司と五月蝿かったんだよね。なのに、亡くなってもなお司の心を捕えている。今でも憎くて仕方がないよ。だが、そうだな。僕はゲイじゃないから彼らの関係には反吐が出るが、さすが娼婦の息子だと誉めるべきなのかな。大した者だよ。その身体を役に立たせ、司に取り入った訳だからね。僕には真似出来ない、その点での負けは認めよう。でも、今生きているのは僕なんだよ。司の傍にいるのは、この僕なんだ。
 男同士で、しかも血の繋がった兄弟でセックスだよ。ったく、最低だな、気味が悪い。君もそう思わないかい? 本当に司の事を考えているのなら、そんな事は出来なかったはずだ。そう、彼の兄思いは、単なるフェイクだ。司の関心を得るためのものでしかなかったんだ。だからこそ、禁忌に司を引き摺り下ろす事が出来たんだ。僕も別に綺麗に生きてきたわけじゃないから、彼の生き方全てを否定するわけじゃない。だけどね、侵してはならないものに彼は手を出した」
 あんな奴にひっかかって、司も可哀相だ。
 あいつは優しい奴だからと、それが免罪符であるかのように、佐久間さんは言葉を付け加える。だが、僕には到底、そんな風には思えない。
 優しい奴だというのならば、あの友人の事や、佐久間さんの事を、もっと考えるべきなのだ。彼は優しいわけじゃない。ただ、弱いだけなのだ。卑怯なのだ。
「僕にとっては、司が全てだ。僕は彼に色々なものを与えて、その場所を手に入れたんだ。自分が望んだ事だ、言い訳はしないが、それなりの事もやってきた。人に恨まれる事をね。だが、それに後悔はない。手を汚しただけで司が手に入るのなら、僕はいくらでもこの手を血にも染めよう。だが、誠くんは違った。可哀相だと同情で得たものを、卑しくも自分のものだと錯覚し、手放す事を拒否した。彼は司に何も与えられないどころか、自分を相手にする事自体が罪だと言うのに、その関係を続けようとした。それを妬ましく思わない事もなかったが、それ以上にその厚顔さが我慢出来なかった。司の事を何も考えていない、ただ愛していると言えば、何でも許されると思っているところが。
 理解してくれとは言わないよ。だが、僕が彼を嫌う理由は、行動を起こす理由は充分にあるだろう。これが、真実なんだ。君が今まで何をどう思ってきたのかは知らないが、僕はこういう人間だ」
 いい加減わかっただろうと、僕の隣に腰を下ろしながら、佐久間さんは言った。諭すように、はっきりとした声で。
 正直、訊いていられない。
 何故、佐久間さんはこんな事を言うのだ。何故、僕に訊かせるのだ。わからない。
 いや、わかりたくない。

 あなたは自らを犠牲にし、何を求めているのだろうか。
 今は何も返してはくれないのだろう問いを飲み込み、僕は溜息のような長い息をひとつ吐いた。
 僕に出来る事は、佐久間さんの言葉を受け入れ事だけなのかもしれない。
 だが、それは絶対に出来ないのだ。

 それ以外に何ひとつ出来ないとしても、絶対に。

2003/10/13
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