# 110

 居た堪れない気持ちのまま、僕は彼を見据えた。その目に増悪を込めたつもりはないが、それに近い色はあったのかもしれない。佐久間さんを憎いわけではなかく、この状況に、何も出来ない自分に、僕はただただ腹を立てていた。
 しかし、それをどう汲み取ったのだろう。佐久間さんはどこか満足そうに微笑む。
「裏切られた、って感じかな?」
 いい顔をしていると、僕の頬にするりと指を滑らせる。僕は反射的にその手を払い、唇を噛み締めた。何故かとてつもなく悲しかった。遣る瀬無かった。今、間違いなく佐久間さんにそんな態度を取らせているのは、僕なのだ。
 どうしてなのかは、わからない。だが、佐久間さんはこれを真実と、自分があの少年を憎くて殺したのだと僕に教え込みたいのだ。だから、嘘を口に乗せる。僕のせいで、彼に嘘をつかせている。
 その事実が、堪らない。
「裏切りついでに、もうひとつ。僕は、今になって君が現れた事を、はじめは面白いと思った。だが、予想以上に司は君を意識してね、直ぐに焦る事になったよ。そして、筑波も君に興味を持った。あいつは、なかなか厄介だ。どうしたものかと考えた。だからね、君を襲ったんだ」
 僕が自分の言葉を受け入れたと思ったのか、佐久間さんはまた新たな嘘をつく。
「二度の襲撃の犯人は、僕だよ。筑波だけじゃなく、君も薄々は気付いていたんだろう?」
【犯人の顔は覚えている。あなたじゃない】
「当たり前だよ、僕が実行するはずないだろう。一度目は、適当にその辺りにいた暇そうにしている子を使ったが、脅すどころか、逆にやられてくる始末だ。正直、おとなしくやられはしないと思っていたけれど、あんな反撃をするとはね。あの青年は、未だに右手が動かない。ま、リハビリすればある程度までは戻るだろうけど。
 その時の失敗を教訓に、その次はプロを雇った。だが、どうだ。またもや失敗だ。強運の持ち主だね、保志くんは」
 犯人しか知りえない、実行犯の姿。探りを入れに行ったと言う筑波直純が詳しく話したとは思えない。ならば。
 ならば、まさか。本当に…?
 胸に持ち続けていた自信が、僕の中で少し揺らぐ。
「はじめは、少し脅せるだけで良かったんだ。痛い目を見れば、犯人が何故そんな事をしたのか考えるだろう。なら、君は自分の胸にあるいくつかの事柄に検討をつける。そして、それを喋るなと、余計な事はするなという忠告なのだと気付くだろう。相手側から提示はなくとも、心当たりがあればその全てに適応させるのが普通の人間だ。君のその中に、8年前の事件が入っているかどうかは賭けだ。そして僕は、入っている自信があった。
 君が司にバラすのはどうしても避けたかった。誠くんが死んだのは僕のせいだと、彼は僕を恨んでいたのだという事を訊けば、僕が危なくなる。必死になって築いた関係でも、崩れるのは一瞬で充分だ。僕が焦るのも当然だろう? だが、その必要は無かったようだね。君は司に話す気などなかった。何故か、君は司の事を嫌っているようだ。
 だから、暫く様子を見る事にした。君に近付いたのも監視のためだ。っで、その間に、厄介な事にも君は筑波と付き合い始めた。君が気にしなくても、あいつは気にする。そうなれば、僕が危ない。なにせ、日頃から筑波には疎まれているからね、僕は」
 自業自得だから仕方がないけど、こうなるのならば少し機嫌をとっておけば良かったかも知れないと、佐久間さんは笑う。楽しげに。
 自ら疎まれるようにしたのは、何も彼をからかうのが面白かった訳ではない。嫌われれば、必要以上に近付かれないからだ。近付かれれば、自分の策略が露見する可能性が高くなるのだろう。だが、そんな事はどうでも良かった。ただ別の事を避けるための、言わば予防線だったのだと軽やかな声が当然のように言う。
「僕から遠ざかるという事は、司からも遠ざかると言う事だろう。それが狙いだ。司と筑波は結構似ているんだよね、彼ら二人ならば気があうだろう。だが、仲良くなられては困るんだ、色々と。僕はその為に、筑波と司を近づけない為に、嫌われる事を選んだ。別に、筑波に嫌われても痛くも痒くもないからね、それは簡単な事だったんだけど。
 だけど、どうやら、僕は嫌われすぎたみたいだ」
 いつから、彼らが顔を合わせる様になったのかは知らないが、初めから佐久間さんはそんな考えを持って行動していたというのだろうか。天川と筑波直純が似ているとは、僕には到底思えない。けれども、佐久間さんにはそう見えた。そして、それを厄介だと思った。だから、自ら嫌われる道を選んだと…?
 それならば。今、こうして僕に嫌われようとするのも、理由があってこそのものなのだと。そう思いたい僕は、佐久間さんにはどう見えるのだろう。何もかもを知っていてこその行動なのだろうか。僕が疑うのをわかっていて、こんな言葉を吐くのだろうか。ばれる嘘をわざとついているのだろうか。裏の裏をかいている…?
 絶対にそんな事はあり得ないと、佐久間さんがあの友人を殺してはいないと持っていた確信が、少しずつ疑惑に形を変える。それは、彼へのものではない。自分自身に対するものだ。僕は、一体何を信じているのだろうか。自分が見る、佐久間さんの姿か。それとも、そんな確信を持った自分自身なのか。
 僕は、全てを知っていると自惚れていた訳ではないが、天川が、佐久間さんが、そして筑波直純が知らない真実を知っているのだと何処かで強気になっていたのかもしれない。
「面倒な事が起こる前に、君には何処かに行ってもらおうと僕は考えた。次に怪我をすれば、筑波は疑わしい僕の傍から有無を言わさずに君を遠ざけるだろう。そう思い、襲わせてもらったんだよ。だが、残念ながら、それも失敗だ。そして、更に厄介な事に、筑波は君に対して思った以上に強気には出られないらしい。失敗しても、少しは対処すると思ったんだけどね、丁度組もバタバタしているしさ。安全な田舎に君を引っ込めるぐらいはするだろうと踏んだんだけれど、僕の勘は外れてしまったようだ。情人の一人、好き勝手に扱えないとは情けないね、ヤクザの癖に使えない。そう思っていたんだが、違う出方をされたよ。これには、完敗だ。司を使って動き出すとはね。
 正直考えてみなかった訳でもない。だが、あり得ないと一番に却下したんだ。司が僕にべったりなのを充分に知っている筑波だ、賭けをするにはリスクが大きい。勝って得られるものは、君の安全だけだよ。組がざわついている時に、私情で裏社会で力を持った天川とやりあうんだ、負ければ何もかもを失うのは目に見えている。司を取り込めるほどの決定的な情報を手にしたのか、それともそれ程までに焦っていたのか。わからないけれど、筑波はその賭けに勝ったようだ」
 僕は頭を垂れ、両腕で頭を抱えこんだ。短時間の間に沢山の事を訊かされて、それも全てを鵜呑みには出来ない嘘が混じる複雑なものばかりで、上手く処理しきれない。
 天川を欲するあまり、その弟が邪魔だったのだと佐久間さんは言い切る。あの少年を殺したのは、追い詰めたのは自分だと笑いながら。
 そして。それが天川にばれるのを防ぐために、僕を、筑波を翻弄したのだと。僕達が厄介だったのだと、少し忌々しげに言葉を吐く。
 好きだと言う僕の言葉は、信じない。
 あの友人が託した思いに、気付いているのかいないのか。それには触れもしない。
 けれど。
 けれど、僕は。僕はその言葉が真実なのだとは絶対に思えない。どうしようと無理なものは無理なのだ。確かに、佐久間さんの言うように信じたいだけなのかもしれない。筑波直純に言えば馬鹿だと怒られるのだろう、簡単に予想出来る。だが、それでも。
 今、僕の目の前には、闇を抱えた彼がいるのだ。全てに決別を告げるかのような目をした、あの時の友人と同じ目をした、佐久間さんが。他の誰でもない、あの青年が僕の前にいるのだ。友人と同じ思いを持った男が。
 全てが嘘だと言い切れる証拠は僕にはない。
 そう、これはただの勘だ。
 だが、全てがそうなのだ。僕は、他人の心を覗けるわけではない。友人の事も、天川の事も、全てが僕の思い込みのようなものだ。この場合、今更それ以上のものなど必要はないだろう。勘で充分だ。頼りなくとも、それが僕の動く理由だ。
 僕は僕の感じたものを伝えればいいのだ。皆がそうするように。佐久間さんが、そうしたように。
 彼が僕に感情を向けるように、僕も、正しい事だとか間違っているだとかは考えずに、まず伝えればいい。それを佐久間さんがどう受け取るのかは、次の問題だ。言葉にする前に、自ら結果を出す必要はない。
 告げられた言葉に、迷っていないとは言えない。だが、何を言われようとも、僕が佐久間さんを好きなのは事実だ。だから、引く訳にはいかないと、僕はペンを握る。今僕を動かせるのは、この感情だけだ。
【あながあの犯人だとしても、僕は裏切られたとは思わない】
 確信めいた自信はあったが、僕を襲うような人物ではないと信じていたわけではない。だが、僕は佐久間さんを聖君のように見ているわけではないのだ。裏切られたなどという思いは、何があっても当てはまりはしない。
【僕は、あなたを信用していたわけではない。そして、今もあなたの言葉を信じる気はない】
「…どう言う意味かな」
【たとえ真実であっても、僕はあなたが犯人だとは思えないし、思わない。僕の暴行の事も、誠の事も】
 言っている意味は理解した。だが、納得はしないと、僕は佐久間さんに宣言する。嫌いだから信用しないから言うのではない。好きだからこそ、僕は自分のその思いに賭けようと思う。本当に彼の言葉が事実だとしても、僕は自分の思いを貫きたい。この感情は、一人で得たものではないのだろうから。
 佐久間さん本人が、そして、あの友人が僕に与えたもののように思う。天川や筑波直純が、僕に教えたもののように思う。彼らの行動が、想いが、僕にその気持ちを生ませたのだ。
【あなたが僕を嫌いだとしても、僕があなたを好きなのは変わらない】
「馬鹿だね、君は。ま、事実を言ってもそれなら、仕方がないね。これ以上はもう、僕には何も言える事がないよ」
【必要ない。僕は、友人の言葉を、彼を信じる】
「…誠くんを?」
 軽く眉を寄せた佐久間さんに、僕は深く頷いた。
 そう、彼の全てを、僕は信じる。
 言葉にしなかったものも、全て。
 それが友人に対する償いだとか、友情の証だとか、そんなものでは決してない。ただ、そうする価値がそこにあると思う。天川を思った彼ではなく、一緒に笑いあい過ごした僕達の時間が、その過去の事実が、今の僕の値打ちになっていると思う。僕はあの時を過ごしたからこそ、今この場に立っているのだから。
 あの時、友人と出会っていなければ。友達になっていなければ。僕は誰かを信じるなどしなかったように思う。特別何かがあるわけでもなく、だらだらと過ごす毎日の中で、けれども傍にいるその温もりを僕は失う寸前まで信じていた。明日もそれが隣にあるのだと。
 僕にそこまで思わせた、その存在を僕は信じよう。今はもういない友人でも、僕の友人には変わりない。あの頃貰った温もりも確かならば、今なおその思い出に、存在に支えられているのも事実なのだから。天川だけではない。僕も、友人を必要としている一人なのだ。
 そして。

 佐久間さんもそうなのだと、あの少年に支えられているひとりなのだと、僕はそう思う。

2003/10/13
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