# 111

 初めて佐久間さんを見たのは、確か友人の視線を追っての事だった。誰かと僕が問う前に、彼は兄の友達なのだと説明をした。その時の友人は、彼らはとても仲がいいんだと静かに言っていた。
 その後、友人は時折佐久間さんの事を語り、愚痴を零すようになった。嫌な奴だ、腹が立つ、むかつくなどとよく言っていた。だが、そんな汚い言葉のわりには、彼が本気で怒っているわけではないという事に気付くのにそう時間はかからなかった。口調は負け惜しみのようで、大事な兄の友達に少し嫉妬していると言った感じのものであり、僕としては微笑ましかった。
 何より、佐久間秀という青年自身、友人に対して敵対心など持っていない事を僕は何度かその姿を見かけて知っていた。友の弟を見る青年の目は、とても優しげであった。そして、友人自身がそんな風に向けられる好意に弱い事も知っていた。表面的には意地を張っているだけで、友人も佐久間青年の心に気付いていたのだろう。
――こんな俺でも、意地はあるし、プライドもあるんだよ。
 お前が言うほど、彼は悪い人じゃないだろう。いつだったか佐久間さんの事をそう言った僕に、友人は肯定も否定もせず、ただそう言った。その時はわからなかったが、友人に実の兄との関係を知らされてからは、その意味が何となくわかった。ただの兄の友達ならば、問題はなかったのだろう。だが、彼にとって、兄はただの兄ではなかった。兄弟と言う絆を越え、一人の人間としてあの男を欲している少年にとっては、親友と言う佐久間青年に思うところが色々とあったのだろう。また、佐久間さん自身、ああいう性格だ。そんな友人をいいようにからかっていたに違いない。
 だがそこに、恨みと言う感情はなかったはずだ。それを、今でも僕は信じている。
――このままじゃ、俺はあいつに負けるんだ。それは絶対に嫌なんだ。
 確かに、友人が死を選ぶ間際に言った言葉は、佐久間さんを指してのものだったのだろう。だが、単純に恋敵に向けたものではなかったはずだ。ただのそれならば、兄が自分とは別の青年を欲したのならば、友人はきっと自ら身を引いただろう。嫉妬などと言う感情に支配されはしなかっただろう。  彼は確かに兄を欲していたが、それと同じように兄のために自らを犠牲にする事など厭わないところもあった。現に、自虐的と言えるほどに、友人は自分の価値を全く評価していなかった。彼にとっては、兄が全てだったのだ。
――でもさ、俺はそれでも、やっぱりあいつが好きなんだ。誰にも渡したくないんだ。だから、こうするしかないんだ。
 ただの恋敵ならば、兄のためになるのであれば、彼は渡したくはないと駄々を捏ねる事はなかっただろう。そう、佐久間さんは、恋敵ではなかった。自分と同じ思いをもった同志であったのだ。二人とも、僕には理解出来ない程、あの男に心酔していた。同じ事を願っているからこそ、互いの事がわかったのだろう。友人はそれを面白くないとした。もしかすれば、ライバルだと認識したのかもしれない。
 負けたくないからと選んだそれは、正直、理解に苦しむものだ。特に、天川司自身には理解されないと友人もわかっていた事だろう。それでも選んだのは、多分きっと、その時それが最善の道だと彼が思ったからなのだ。死ねと誰かに言われて死ぬような少年ではなく、あれは自らの意思だったのだ。
 確かに、薬の影響が無かったとはいえない。だが、あの時のあの友人は、ドラッグに犯されているような目はしていなかった。自分の死が、天川司に役立つと考えたのだろう。足を引く事など、考えなかったはずだ。事実、その後の天川は後継者としてその名前を広く知らしめたようだ。友人が望んだのが本当にそんな事だったのかどうかはわからないが、確かに効果はあったのだ。
 父親に疎まれている事を自覚していた友人は、その事により兄の足をも引っ張るつもりは更々無かったはずで、もしかしたら佐久間さんの事だけではなく、天川氏との関係でも何かあったのかもしれない。自ら命を絶たつ決断をさせる何かが。
 どちらにしろ。僕は、佐久間さんが友人を殺したのだとは一度も思った事がないし、思えないのだ。何度言われようと、頷けはしない。むしろ、その逆で、誰よりも心を痛めたのはこの青年なのではないだろうかとさえ思う。友人の天川への想いを一番理解出来るのは、僕でも天川でもない、この人なのだから。

【僕は彼と短い間だったが一緒に居た。あの時はわからない事もあったが、今は彼の事を良くわかっているつもりだ】
 そう。あれから長い月日が経ち、その間に僕も色々なことを知った。声を失い、家族から離れ、仕事をし、恋愛もした。経験が僕を成長させた。
【確かに僕ははじめ、彼はあなたに負けないために、天川さんの心に傷としてでも残る形で死を選んだのだと思っていた。だが、追い詰められていたわけじゃないと、今ならわかる】
 あの友人の持っていたものとは違うが、強い思いを自分も手にしたからだろうか。あの男を、筑波直純を好きになったから気付いたのだろうか。この事に、漸く僕は気付いた。彼にとっては全てだった兄につけたのは、傷ではないと。
 ただ、理由は良くわからないが、自分がいなくなる事が必要だと感じたのだろう。けれども、彼には兄無しで生きると言う選択はなかった。だから、死を選んだ。もしかすれば、友人にとっては、それだけの事なのかもしれない。
 傷をつけるとかではなく、天川にとって最善の道を、友人は自らを持って示したのだ。兄の事だけを考えていた彼だからこそ見たその道が、果して本当に天川にとって良いのかどうかなど、僕にはわからない。多分、天川にもわからないだろう。そこに何を見たのか、あの少年だけが知り得る事なのだ。
【誠は、死を見ていたわけではない。もっと別の何かを見ていたんだ。彼が大事なのは、天川さんだ。その天川さんが苦しむのを知っていてもなお、死を選んだんだ。それはきっと、自分がいるよりもいなくなることで、彼に何かが与えられると確信していたからなんだ】
「そうかな。そんなに彼は、強かったのかい。自分の死をも簡単に差し出せる程に。
 ただ、君がそう思いたいだけじゃないのか。そうすれば、自分には全く非はないと、その側にいながら彼の苦悩に気付けなかった自分を守っているだけじゃないのかい、保志くん」
 最もな意見だと、佐久間さんの言葉を僕はそう思った。確かに、自分を守るために逃げた事がないとは僕には言えない。だが、今はそうではない。今まで目にしなかったこの結果の方が、僕にとっては残酷だ。貫き通せない思いに悲観しての自殺の方が、僕にとっては気分的に楽である。その方が、まともだから。当然の事だから。なのに、違うのだ。
 叶わない恋に絶望し、自らを救う手段であったのならばどれだけ良かっただろう。だが、彼はその命さえも自分のものとしなかった。生も死も、全てあの男のために与えたのだ。自らの心を優先させる事はなく。
 彼は最期まで、自分の命の重さに気付いていなかった。いや、知っていたのかもしれないが考えなかった。ならば、その彼の傍に居た僕は一体なんだったのか。気付かなくていい事に、嫌でも気付かされてしまう。
 死を選ぶのも、そこまで兄にしがみ付くのも簡単じゃなかったはずだ。僕の予想もつかないくらいの葛藤を抱え続けていたのだろう、精神を病む程に。自分を否定する者の下で生きていくのは、どんなに辛い事だろうか。そこで得た兄という存在を手放せない自分を、彼は呪ったはずだ。開き直れる性格ならば、父親の下から出るなり何なり出来ただろうが、あくまでも彼は自分の気持ちではなく兄の気持ちを優先させた。自分達の関係に悩み始めた兄に縋る事はせず、一人で堕ちていく道を選んだ。そして、そこでもなお、彼が考えたのは兄の事なのだ。
 あれほど傍にいたのに、僕は彼を引きとめられはしなかったのだと、今更ながらに思い知らされる。あの時、あの場で手を伸ばせられなかっただけではない。僕はそれが出来る程の力を持っていなかったのだ。一緒にいて、その事実に薄々気付きながらも、初めから僕は諦めていたのだと今ならわかる。そう、声に出して乞い、態度でどれだけ示しても、あの男には勝てないのだと最初から気付いていたのだ。だから、僕は…。
 僕は、そのステージにさえ立つ事をしなかった。
【強かったわけではない。多分、弱かったんだ】
 それは友人だけではなく、僕もそうだろう。天川には勝てないのだと突きつけられるのが僕は嫌だった。そして、あの友人は、兄から離れて生きる苦しみを味わいたくなかったのだ。
 僕も、彼も。自分の弱さを受け入れる事が出来ないほどに、そしてそれに気付かないくらいに、子供だったのだろう。
【天川さんに必要なのは自分ではないと、あいつは知っていた。彼は、自分の価値をひとつも評価していないし、信じてもいなかった。その事に自信があった。だからこそ、その中で選んだ最善の道を、貫き通せた。自分の存在を否定するあいつが見たのは、兄の進むべき道だったのだろう。僕にはそれがどんなものなのかわからないが、多分あいつにはそれがはっきりと見えたんだ】
 そうでなければ、何があってもあの友人は天川の傍にいたはずだ。クスリのせいでも、まして佐久間さんのせいでもない。あれは自ら望んでの事なのだ。
【殺したと言い張りたいのなら、そうすれば良い。だが、僕は信じない。僕は何も出来なかったが、それでも彼の友達だ。彼が選んだものを僕は信じる】
「だから、選ばなくさせたのが僕だって言っているだろう」
 軽い溜息を落とし、佐久間さんが言う。だが、それでも。
【たとえそうでも、僕には関係ない。それは、また別の問題だ。あなたを恨む天川誠など、僕は知らない】
 そう、僕の中には、存在しないものだ。どんなにそれを主張しようと、もう死んでしまった友人の姿は僕の中で変わる事はない。あの時のままなのだ。だから、僕はそれを信じる。
 そして。

 僕は答えを期待せずに、一番問いたかった言葉を記した。
【僕にはわからないが、あなたにも、誠が見た天川さんの進むべき道が見えているんでしょう。誠が何を求め、望み、死を選んだのか。本当ははじめから知っているのでは?】
 僕には、友人があの兄に何を与えようとしたのか、未来に何を見たのかわからない。だが、同じように天川を盲目的に愛している佐久間さんなら、もしかすれば知っているのかもしれない。いや、わかっているはずだ。
 僕は真っ直ぐと、小さな変化ひとつ見落とさないように、文字を見つめるその顔に視線を注ぐ。

2003/10/16
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