# 112

「…なるほど。やっぱり、君は喰えないね。何でも全てお見通し、か」
 別段驚く事も残念がる事もなく、短い沈黙の後、佐久間さんはそう言った。
「君みたいな人間は、正直、相手にしたくないタイプだ。普通、経験などで相手を量ってその者を知るんだけれど、保志くんは違う。君は、本能で相手がどんな人間であるのかわかっているんだろうね。信用していいかどうか、自分に危害を加えるかどうか、相手にするような人物かどうか」
 僕の言葉に対する佐久間さんの返答は、どうとればいいのかわからない、そんな言葉だった。全てお見通しだと言う事は、僕の意見が正しいと言う事なのか。それとも、自分の主張に対してではなく、あの少年の事だけをさしての返答なのか。
「でもね、嫌いじゃないよ。喰えないところも、愛嬌だ。僕は嫌いじゃない」
 そう断定しながらも、好きだとは言わないのは、要するにどうでもいいと言うような、そんな曖昧なものでしかないと言う事なのだろう。自分が佐久間さんの言うような感覚を持っているのかどうかはわからないが、その言葉に僕は少し視線を落とす。
 自分の言葉に耳を傾けてくれたからと言って、簡単に彼に関心を持ってもらえると思っていたわけではないが、それでも誰かを意識してのその発言が少し悲しい。「僕は」と、あえてそんな言い方をする佐久間さんの中には、常に誰かがいる。「僕」ではないその人物にすれば、この性格は嫌いじゃないとは言えないものなのだと暗に語る。
「筑波が、君に惚れたのがわかる気がするよ。誠くんもね」
 そして。司が君を気にするのも。
 佐久間さんは目を細め、僕を見た。その眼差しは、僕が好きだと思った優しさを持っている。だが、今はその温もりは、少し残酷だ。彼が見ているのは、僕ではない。
 僕はいつまで経っても、「保志翔」というひとりの人間として、この人に見られる事はないのだろう。常に、誰かの、何かのフィルターを通してでしか、佐久間さんは僕を見ないのだ。それを、悲しいと思う。だが、その気持ちは単なる我が儘なのだと、自分勝手なものなのだと同時に気付く。
 僕も。
 僕も、佐久間さんの事を真っ直ぐとは見ていないのかもしれない。その存在を、ただ感じていたかっただけなのかもしれない。友人を思い出させる、その温もりを。
 僕を真っ直ぐと見ない佐久間さんだからこそ、必要以上に僕の中に入ってくる事も遠ざかる事もないからこそ、僕は好きなのかもしれない。その徹底した感覚が、心地良いと、そう思う。気負う必要も何もないこの関係が、とても楽だと思う。だが、それこそが、僕が彼をそのまま見てはいないと言う事なのではないだろうか。真っ直ぐと見ているのならば、そんな事はないはずだ。他人と向き合いながらも、ただ安らぎを得られるだけだなんて、そんな事はあり得はしない。
 佐久間さんにとって何よりも大切なのは、天川だと僕は知っている。その彼が望むのなら、僕に危害を加える事を躊躇わないだろう。だが、そうでないのなら。天川が何もしないと決めたのならば、佐久間さんはそれに従うはずだ。僕に対しての感情を持ち、自ら単独で仕掛けるなどあり得ない。今、誰よりも天川の傍にいるのは佐久間さんであり、天川が頼っているのも彼なのだ。佐久間さんが望んだものが今あると言うのに、態々それが壊れてしまうような事を仕掛けるなど、絶対にない。
 僕は、常に意識するのではなく、それが事実だとただ知っていた。だからこそ、佐久間さんが言う本能的だとかどうだとかはわからないが、どれだけ危険だと言われても彼をそう見ることは出来なかったのだ。天川が僕に何もしないとわかり、漸く僕は、そんな風に佐久間さんを壁越しに見ていた事に気付く。天川を欲しているという事実だけを見、何故そうなのかなどとは、考えもしなかった。そこまでの行動を知りながら、その意味を深く考えはしなかった。
 守りたいと、そんな単純なものではないのだろう。そこには、佐久間さんの意思以外の強さがある。そうでなければ、あの天川ひとりを得るのに必死になる必要はなかっただろう。何もなければ、簡単なものだっただろう。失敗は出来ないのだという、どこか焦りのような感情がそこには見える。それは何故なのか。
 自滅を恐れてならば、最初から仕掛ける必要はなかったのだ。彼が意識しているのは、あの少年の事なのかもしれない。少なくとも、零す笑い声ほど簡単な、単純な思いを少年にもっている訳ではないのだろう。
 天川を支配している、筑波直純と張り合っている。あの友人と同じ思いを持っている。そんなものを意識する事なく見た佐久間さんは、驚く程に普通の人間だった。その強さは、弱さを隠すためのもの。揺れている心を見せないように、必死で真っ直ぐと立つその姿は、けれどもどこか危なく見える。そう、そんな心を僕には隠さずに見せたあの友人以上に脆そうだ。
 僕達は少し似ているなと、僕は佐久間さんの横顔を見ながら思った。あの友人をなくした痛みを、僕達は互いを通して見ていたのかもしれない。そうして、自分自身を見ようとしていたのかもしれない。僕は、あの友人が反抗しながらも認めていた佐久間さんに。佐久間さんは、彼の友人だったこの僕に。あの少年の思い出を、僕達は密かに共有していたのかもしれない。今、この場で生きるための糧とするかのように。
 不器用だと、そう思う。あの少年への思いを持っているのならば、もっと簡単に、僕達は向き合う事が出来るのだろう。だが、それをあえてしないのだから、互いを見失って当然の関係なのだ。
 それでも、僕は佐久間さんが好きだと言い切れる。彼が貫く天川への想いの影に自らの心を隠しているのを、僕は知っている。素直にあの少年を見ようとしないのは、それを露見する事を避けるためだろう。願望とその心のズレを自分に意識させないためだろう。僕を見ないのもそうなのかも知れないと、そう思うのは都合が良すぎるだろうか。自惚れているだろうか。
 この人の中にも。あの友人の中にも。
 僕は少しなのかもしれないが、けれども確かに存在するのだと、そう思うのはただの願望なのだろうか。
 他人の心など、覗けはしない。だが、僕はそうであるはずだと信じたい。友人が僕をあの状況に置いたのも、佐久間さんが僕に嫌われようとするのも。それ故だと、思いたい。

 不意に、部屋に軽いベルの音が響いた。フロントからの電話だろう。
「丁度いい感じだね」
 時計に目を向けながら笑いを漏らし、佐久間さんは受話器を手に取った。数度の相槌をうち、「すみません、ありがとうございました」と言い通話を切る。そして、僕を振り返り、首を傾げた。
「保志くん。もうひと茶番に付き合ってくれるかい?」
 何の、と質問を仕掛け、それを止めた。付き合えばわかることだ。ここまで来て、逃げ出す事はしたくない。たとえ退出を促されても、僕は残る。
【僕で役に立てるのなら】
「充分すぎるよ。逆に勿体無いね」
 トチらないように気をつけなきゃ。
 そう軽く笑った佐久間さんは、グラスに残っていたシャンパンを飲み干し、苺を口に入れた。美味しいと、目を細める。
 その瞳に、先程見た決意は見えず、僕は小さな安堵を覚えた。友人のように死を選ぼうとしているのかと、そんな事を佐久間さんに見た事を、急に恥しく思う。それくらいに、今の彼の目は穏やかだった。初めて、見透かすのではなく僕を見ているような、そんな気がする程に。

 だから、僕は。
 終わりだとそう言っていた言葉も、何もかもの問題も、全てが消えたのだと錯覚した。
 天川が来たのなら、この状況を元に戻せるのだと思っていた。
 僕は佐久間さんを嫌ってはいないし、憎んでもいない。天川に何かを告げる気はないとわかれば、佐久間さんも僕にかまう必要はなくなる。そうなれば、筑波直純も佐久間さんには何もしないだろう。
 天川は、僕を憎むと言った。だが、彼が出来るのはそこまでの事で、多分これからもそれ以上の事は仕掛けてこないだろう。そういう男だ。そう、筑波直純に何かを吹き込まれたからと言って、実際には今まで頼ってきた佐久間さんを切る勇気はないだろう。佐久間さんが、誤解だと言えばそれで丸く収まる。

 僕は本気で、そう思っていた。

 自分のせいで全てが壊れるなど、思ってもみなかった。

2003/10/16
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