# 113

 部屋にチャイムが響いたのは、電話から直ぐの事だった。ホテル内を駆ける事はしていないだろうが、それに近い動きをしたのかもしれないと思うくらいに早い。
 天川を出迎えに行く佐久間さんの後に続き、僕はリビングと廊下の間に立った。軽く腕を組み、少し離れた入口を眺める。佐久間さんがチラリと僕を振り返り、一度頷くように目を伏せたのに対し、僕も小さく顎を引いた。
 深く息をしてドアに手を伸ばすその後ろ姿に、緊張しているのかもしれないと僕はふと気付く。佐久間さんのそれが何に対してのものなのか。僕がそれについて考える間もなく、茶番劇の幕は上がった。
「あれ、司!? どうしたんだい、こんなところへ」
 鍵を開けた佐久間さんが、驚きの声を上げる。演技だと知っていても、そうだと聞こえない程に、とても自然なものだ。慣れたものなのだろう。
 一方、天川の声は少し震えていた。
「秀…」
「ビックリしたな。ちょっと待って、チェーン外すから」
 佐久間さんが薄く扉を開けたままチェーンを外す。鎖が揺れる音と同時に、ガツンと低い音が重なった。何の音かと思うより先に、ドアの隙間から覗く誰かの靴先を僕の目がとらえる。それが扉を閉められるのを防ぐためのものであるならば、天川のものではないだろう。
 誰の者なのか、考える必要はなかった。直ぐに、勢いよく外からドアが押し開けられる。
「――保志っ!」
 佐久間さんを押しのけるように一番初めに部屋に入ってきたのは、筑波直純だった。正直、来ているのかもしれないと思ってはいたが、少し意外な慌てようだ。
 悠然と壁に凭れるように腕を組み立っている僕の傍まで駆け寄ってきた男は、僕を腕の中に抱きとる。不機嫌な態度を予想していた僕は、咄嗟の事で避ける事も出来なかった。心臓の早い脈打ちが、男の体から僕の体へと響いてくるのを感じながら、はっと気付き軽く身を捩る。
 男の肩の向こうに、部屋に入ってくる者達の姿を見、僕は眉を寄せた。こんな自分達を見られたくはないし、見せたくもない。抱擁するような状況ではない、何を考えているのか。何より、この男の部下までいる。問題はないのだろうか。
 数日振りに触れた男の温度に、その匂いに。僕は少し焦りながら、そんな考えをする事で自身の内面を見ないようにした。この状況で、それでも懐かしいなどと感じるのはおかしいと思うから。
「大丈夫なのか…?」
 強く抱きしめた体を離して顔を覗き込んでくる男の灰色の目を間近で見返し、僕は肩を竦めた。実際の有無は別にしても、これを問題と思わないこの男自身が問題なのかもしれないと、呆れ顔を作る。
 僕の応えに僅かに顔を顰める筑波直純の腕を外し、狭くなった廊下からリビングへと入りながら、まるで心配していたかのような態度だとふと気付き、僕は振り返り男を見た。
 対峙する佐久間さんにかまうよりも先に僕を抱きしめたその意味は、何なのだろう。本当に、心配したのか…?
 向けた視線の先の男の表情では、自分の思いつきが当たっているのかどうなのかわかりはしなかった。だが、気にかけさせた事は確かだろう。先刻の電話も、それ故のものだとも思う。けれどもそれが、本当に僕の身を案じてのことなのだろうか。本気で佐久間さんが僕に何か危害を加えると考えていたのだろうか。もしそうならば、人目を気にせず抱きしめてきた男の行動は理解出来る気もするのだが…。
 そんな訳はないだろう、と僕は筑波直純から視線を外す。
 男にとっては、不意打ちの出来事ではないのだ、これは。予め予想されたもののひとつにしか過ぎないのだろう。電話で家に帰れと言っていたのは、佐久間さんを避けての事だったのかもしれない。確かにその彼と僕が接触したのならば、予定が狂い慌てもしただろう。
 だが、心配などするだろうか。その必要など、何処にもないのに。
 天川と佐久間さんの関係を、この男も知っている。彼にとっては絶対の天川を無視し、佐久間さんが何かをするなど、関係を知っている者にはありえないというものだろう。当然、男もそう思うはずで、僕の身に危害が及ぶかも知れないと言う心配は全くない。佐久間さんを動かす鍵はその傍にはないのだから。現に、何も起こってはいないのがその証拠だ。
 ならば。
 それならば、心配ではなく、男は別の感情を持っていたという事だろう。数日前の事を考えても、それは僕に対する苛立ちだと簡単にわかる。
「筑波くん、どういう事なのかな、これは。保志くんは借りると断ったはずなのに、なんだい、邪魔をしに来たのかい?」
 嫉妬深いんだね、君。
 笑いながらそう言う佐久間さんに、黙れと男は吐き捨てた。大丈夫かと問うてきた声とは違う、怒りを隠さない色を含む意それに、やっぱりなと僕は思う。
 男は僕を、心底、心配している訳ではない。心配以外の感情の方が大きいのだ。
 僕が筑波直純に貰った指輪は、発信機だと佐久間さんは言った。そして、僕には見張りがついているのだとも。その言葉が真実かどうかは、僕にはわからない。だが、佐久間さんがそんな嘘をつくとは到底思えない。ならば、男が僕に発信機を与え見張りをつけたのを事実だとしてとらえねばならないのだろう。そうとなれば、言えるのはただひとつだ。
 男は僕の言葉を、何ひとつ信じていなかったと、信用出来ないものだととらえていたと、そう言う事なのだ。
 頭の中も心の中も、切り開いて見せる事など人間には出来ない。相手の言葉を信じられないと言うのも、仕方がない事なのかもしれない。だが、僕はそんな風に迷わせるよな、曖昧な態度には出ていなかったつもりだ。大丈夫だと、何度も言ったはずだ。確かに、襲われた。だが、あれだけの事で終わったのだから、それが思い違いであるとは言えないだろう。それなのに。
 男は僕を、信じようとさえしなかったのだ。指輪を渡されたのは約ひつ月前。あの時から、筑波直純は僕を騙していたのだ。
 騙すというのは、少し言い過ぎなのかもしれない。だが、簡単に許せるようなものではない事を秘密にされていたのだ、そう言いたくもなるというもの。気付かない僕が、確かに馬鹿なのかもしれない。だが、普通の感覚では気付かなくて当然だ。誰が、仮にも付き合っている人間に監視されると思う。
 そう、これは監視だ。心配だからというものをはるかに越えた、僕と言う人間そのものへの侵害だ。心配だと言うのであれば、そう僕に言えばいいのだ。黙ってする事ではなく、発信機も見張りも、僕に了解を請うべきなのだ。確かに、頼まれても僕は反対しただろう。実際に、断る言葉も吐いた。だが、実害がないのであれば、頷けないわけでもないものだ。後になって心配だったと言われても、それは単なるいい訳で、僕はそれをエゴだとしかとらえられない。
 僕を心配してではなく、自分が安心を得るためにこんな行動に出たのだと考えて当然のものだろう。恋人を自分の所有物だと考える子供でもなければ、男自身そんな人間ではないと僕は思う。普通相手がそれを知ればどう考えるか、感じるか、ある程度の大人ならば思い描けるはずだ。自分がされたらと、そうあてはめれば簡単な事。
 ならば余計に、全てがわかっていてこその行動なのだと思わずにはいられない。
 今ここで男を問い詰めるつもりは全くないが、自分が思う以上に教えられた事実に動揺しているのか激怒しているのか、僕の胸の中にはそんな感情が沸き起こった。佐久間さんがその存在を口にした事で僕にそれらが知られているとわかった男は、何を考えたのだろうか。言い訳か、それとも懐柔方法か。
 駆け込んできたその表情を、慌てようを、嘘だとは思わない。だが、筑波直純に本当に僕は見えているのだろうか、不意にそれを疑わしく思った。所有物とはいかないまでも、そんな認識が全くない訳ではないのかと、何処かで支配したいと思っているのかもしれないと、適当に思いついたそれに僕は嫌悪する。真実ではないのかもしれないが、そうなのかも知れないという可能性だけで、今は拒絶を示さずにはいられない。
 色々な事があり、自分でも、神経が昂ぶっているのか疲れ果てているのかわからないが、心に余裕がないのがわかる。こんな状態だからこそ、当たり易い男に対して当たっているのかもしれないと、そう思う。多分、普段ならば、ふざけた事をしてくれたと腹を立てはしても、気付かなかった自分が馬鹿だっただけだと終われるのかもしれない。二度としないでくれとそれで許すのかもしれない。
 だが、今は無理だ。この僕と男の関係だけではなく、佐久間さんの事があるのだ。そちらの方が重要なのだ。余計な事をと、向かう苛立ちを止められる術がない。この状況が筑波直純によるものだと思うと、自分にされた事も佐久間さんに対するものと同じように、独りよがりのものだととらえてしまう。
 今の僕は、こんな風な卑怯な自分を知りながらも、もうそれを止められないのだ。

「意外と早かったよね。見張りはいないと思って直行したのが悪かったかな。それにしてもさ、この早さを考えると、もしかしてあの電話の時にも、君達は一緒にいたのかい?」
「俺は黙れと言っているんだ、佐久間。状況がわかっていないのか」
 男が低い声で、忌々しげに言う。振り返ると、部屋の入口には、まるで誰かが逃げ出すのを防ぐかのように、大きな体格の男が立っていた。知らない男だが、どちらかの部下なのだろう。その男を残し、リビングに入って来たのは何度か顔を見た事がある者だった。こちらは筑波直純の部下だ。
 側近か何かは知らないが、プライベートなこの状況に彼らがいるのは面白い話ではないと感じながら、僕は先程まで座っていたソファに腰を降ろした。その僕の横に、筑波直純が立つ。
「ったく。よくわからないから聞こうとしているのに、怖いよ、筑波くん。仕方がないね、司、変わりに説明してよ」
「何が説明だ。天川、相手にするな。わからないと言うのならば、それでいい」
「不親切だね、君は」
 知っていて煽っているのだろう。鋭い声に全く怯む事なく、佐久間さんは傍の天川にもう一度答えを求める。そんな二人の横を通り、男が僕達の側にやって来た。何度か見た事がある、細身の男だ。確か、福島と言う名前だったように思う。
「筑波さん。彼を」
 そう言いながら、男は僕に軽い会釈をした。応えるべきなのだろうかと考えかけ、直ぐに逸らされた視線に、それを中止する。
「ああ、そうだな。保志、お前は先に出ていろ。福島、頼む」
 筑波直純の言葉に頷く福島氏に腕を取られ、何だと思う間もなく、僕は立ち上がり促されるまま数歩前に歩いた。ドアの前に立っていた男が、振り向きノブに手をかけようとするのを見、冗談じゃないと気付く。出て行けと、そう言う事なのだ、と。
 一体、この男は僕をどう見ているのだろうか。どんな風に判断しているのだろうか。
 男自身、僕の知らないところで、天川と佐久間さんとの関係を持っているという事を、僕はわかっているつもりだ。だから、ここにいるのもわかる。それなのに、男にはわからないと言うのか。僕がここにいる理由が、ないと言うのか。
 僕も、天川と佐久間さんと関係を持っているのだ。少なくとも、こんな状況に置かれ、それを無視して立ち去る事が出来ないくらいには知り合いであると思う。最後まで見守る義務も、権利も僕には何もないのかもしれないが、傍観すら認められずに排除されるなど納得出来ない。
 しかも、僕を誘った佐久間さんでも、僕を憎む天川でもなく。筑波直純が僕にそれを突きつけるなど、冗談ではない。

 男は僕を何だと思っているのだろうか。
 当然のように示された命令は、僕を否定するかのようなものだった。

2003/10/20
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