# 114
ここまできて、僕には関係のないところで話を進めるつもりなのか。
男の意図を察し、僕は足を戻そうとした。だが、それより早く、背中を軽く押していた福島氏の手が僕の確りと腕を掴む。流石と言うべきなのだろうか、驚くほどの素早い反応だ。だが、僕はそれに従うわけにはいかない。
「保志くん」
福島氏の手を振り払おうとした時、佐久間さんが僕を呼んだ。移した視線で捉えた彼の表情は、場違いなほどに楽しげなものだった。その横で、天川が眉間に皺を寄せている。
黒いシャツに、黒いネクタイ。ダークスーツに身を包んだ天川の顔は、黒づくめだからそう見えるのか、少し青ざめているように感じた。コートを着ていない事を考えると、冬の寒さによるものなのかもしれない。だが、夜道を歩いてきたとは、あまり考えられるものでもない。ならば、緊張を覚えていると言ったところだろうか。
自分でこの状況を招いておいて、緊張…? 馬鹿げていると、僕はチラリと向けた天川への視線に、そんな感情を隠さずに込める。
「もう帰るのかい? それは、つれないね」
「おい、秀…?」
「もう少し、付き合ってよ」
佐久間さんが、ニコリと笑い、腕を伸ばしてきた。そして。
どうやったのかわからない。だが、気付けば僕の腕から福島氏の手が離れており、変わりに佐久間さんの手が僕の手首を掴んでいた。
「ゴメン」
小さな、謝罪の声が耳を掠める。
何だと考える間もなく、僕の腕に引き攣るような痛みが走った。佐久間さんに引き寄せられ、そのまま腕を後ろに回される。左手で僕の右腕を抑えた彼は、寄り添うように僕の横に並んだ。
僕の左手は、拘束されてなかった。佐久間さんの体に触れるのは難しいが、掴まれた手には充分に届く。彼の手を外す事は、不可能ではないのだろう。しかし。
何事だと隣を見上げてとらえたその姿に、僕は全ての動きを封じられた。苦しい体勢での腕の痛みなど、どうでもいい。
「全員、動かないで」
瞬時にして落ちた部屋の空気とは違う、どこかゆったりとした雰囲気を持つその声は、けれども十分な効果を持っていた。いや、言葉ではなく、その物体が、か。
福島氏に向けて伸ばした佐久間さんの手には、拳銃が握られていた。一体いつから隠し持っていたのだろうか。カチリと撃鉄が下ろされるのを、僕は驚き見開いた目でとらえる。
全長は、掌よりも小さいだろうか。小さな回転式拳銃だ。
佐久間さんの白い細い手が、黒光りする拳銃を一際引き立てていた。見間違いかと思えないくらいに、その存在は自然であっさりと受け入れてしまうものだ。本物なのだろうかと、疑う余地など無い。
そして。
僕は以前にも、こうして間近でこれに似たものを見た事があると思い出す。
「扱いには慣れていないんだ。驚いて撃ってしまうかもしれないから、じっとしていてよ。もちろん、司もね」
そう言いながら、佐久間さんは僕を引き寄せ、男達から間を取った。一番近くにいる天川は、未だに信じられないと言った顔で呆けている。状況がわかっていないようだ。いや、わかりたくないのか。どちらにしても、天川らしいと言えるのだろう。
「佐久間っ!」
「僕は、動かないで欲しいと言っているんだけど、筑波くん」
状況がわかっていないのかい?
筑波直純の声に、先程の口調を真似て佐久間さんは言い、銃口を引き寄せた僕の胸に押し当てた。心臓の真上に。
「凄くドキドキしているね、保志くん。でも、そう緊張しなくていい。今のところ、言う事を聞いてくれる限りは撃つ気はないから」
口調は穏やかでも、言う事を聞かなければ撃つと宣言するその科白に、僕は思い切り頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
「大丈夫だよ、多分。君がこうなったからには、筑波くんは絶対に動かない。安心していいよ。それとも、そんな事信じられないかな。ま、どちらにしても、君も大人しくしていてよ」
落ち着いた声が、背中を通して響いてくる。だが、僕は落ち着くなど絶対に無理だ。茶番とは、こう言う事だったのかと、焦りを覚える。
これでは、何も変わらない。本当に、自ら終わりを掴もうと言うのか、この人は。
向けられた銃口ではなく、消えたと思っていたその佐久間さんの決意をこんな形で再び見せ付けられ、僕は愕然とした。
「だから言っただろう、君の勘違いだって。僕を好きだなんていうものじゃないよ」
こんな。こんな茶番、冗談じゃない。のれはしないと視線で訴える僕を察していないのか、止めるつもりがないからだろうか、佐久間さんはそう言い笑う。
僕はもっと違うものを想像していたのだ。筑波直純のせいで不審を抱く天川を丸め込む、今までと同じあの男を守るための劇が用意されているのだと思っていたのだ。僕と佐久間さんが協力すれば、天川は勿論の事、筑波直純をも納得させられると。そうすれば、全てが丸く収まると考えていたのだ。なのに、こんなものだとは。冗談じゃない。
「……秀、何のつもりだ」
「ごめん、司。ちょっと待って。
筑波くん。まずは、山口さんと福島さんに外へ出てもらってよ」
「……」
佐久間さんの言葉が届いていない事はないのだろう。だが、男は表情一つ変えない。その顔を眺め、僕は向けられる強い視線を避けるように目を伏せた。胸に、押し当てられた銃口。だが、ただの硬い物体であって、恐怖はない。むしろ怖いのは、今のこの流れの方だ。
それなのに、ここには助けを求められる者がいない。
筑波直純に、訴える事も出来ない。今それをしては逆効果だと、流石の僕でもわかるというもの。脅威となる銃を手にしているのは佐久間さんなのだから、当然だ。
けれど。だからと言って、このままにも出来ない。佐久間さんの思うように進めてはならない。これでは、あの友人と同じ結果になってしまう。どうにか、しなければ。
だが、どうすれば良いのか、わからない。
無力だという以前に、考えすらも浮かばない事に苛立ちを感じ、僕は顔を顰める。
「撃ってもいいのかな。別に僕は保志君に恨みはないけど、それも仕方がないね」
「待て!」
歪めた僕の表情をどうとったのか、男は少し焦ったように声を出した。
佐久間さんに対する苛立ちか、銃口を向けられた僕を心配しているのか。それとも、プライドがこの状況を許さないのか、ただ拙い事態になったと辟易しているのか。男の顰められた顔からは、よくわからない。だが天川と違い、少なくとも理解出来ない状況ではないのだろう。しかし、その判断は僕のものとも違うはず。同じであれば、男が焦る必要は何もないのだから。
こうして銃口に晒される事への恐怖はない。だが、他の者は違う。僕に銃を向けていても佐久間さんが撃つはずなどないのに、誰もそれに気付いていないようだ。だからこそ、僕と同じ判断が出来ていないのだろう。それとも、一瞬後には自分がターゲットになるかもしれない恐怖から、命令を聞き入れているのだろうか。そう、僕の事など別にどうでもいいのかもしれない。彼らはこの状況の「次」を考えているのかもしれない。
だが、これ程拳銃が脅威にならない人も珍しいと言うくらいに、佐久間さんは誰かに向けて発砲などしないと思うのだが。躊躇わずに銃口を向けるだろうし、人間に当たらない自信があれば簡単に引き金を引くだろう。もしかしたら、害の少ない箇所を狙って肉体に打ち込む事もするかもしれない。しかし、殺す事など絶対にありえない。そういう人だ。それなのに何故、それがわからないのだ、この者達は。
「司、君がやるかい? 銃は持っているんだろう。君は保志くんを憎んでいたからね、やりたいだろう」
何故、これが単なる茶番だと気付かないのか。僕にはそれがわからない。気付けば、彼を止められるというのに、何故…?
適任者がいたよ、と佐久間さんが筑波直純に向かって笑う。わざと煽るためのその行為は、けれども男にはそれが真実だと映っているのだろう。
佐久間さんはこんな事をして、どうしようと言うのか。耳元で上がる声を訊きながら、僕は考える。僕は、これが茶番だと知っている。知っているからこそ、無意味だろうと思う。けれど、他の者達は全く気付いていないのだ。それどころか、彼の事をあまりにも知らなさ過ぎる。
そう、そうなのだ。だからこそ、意味が生まれるのか。
この状況を、拳銃を持った人間がいるとただ単純に考えねばならないのだろう。僕以外の者達は、まずその事を一番に考えている。そうなれば、選択肢は佐久間さんの言う事を聞くか、逆にやっつけるか二つにひとつになってくる。そして、彼らは後者を選びたいと思っているはず。
なんて。なんて、単純な発想なのだろうか、信じられない。信じたくない。だが、状況は正にそうなのだ。
佐久間さんは撃つはずがないと思っているのは、この場では僕ひとりなのだ。それは、何故なのか。簡単な事だ。彼らの心が腐っているのでも何でもない。佐久間さんが今まで時間をかけて、この男達にそう教え込んだのだろう。自分は躊躇わずに引き金を引ける人間だと、刷り込んできたのだろう。男達が、彼の言葉に耳を貸さずに自分の感覚を疑わず友人を信じてきた僕とは違う判断をしても、それは当然の事なのだ。僕のように、今のこの佐久間さんが自ら終わりを導こうとしているなど、誰も気付きはしないのだ。
今ここで冗談だと言っても、それを知らずに勝手に緊迫するこの状況では、今更告白してももう言い逃れでしかないと信じてもらえないのだろう。それを一番わかっているのは、他でもない佐久間さん本人だ。
その彼が、迷いも何も無く、この状況を本気で望んで作っているのならば。僕などで、佐久間さんに対抗する事が本当に出来るのだろうか。どこかに、それが可能となるような隙はないのだろうかと考えたその時、ガチャッと金属音が部屋に響いた。
「だから。動かないでよ」
顔を強張らせた筑波直純の目が動くのと同時に、佐久間さんの溜息が聞こえる。
「そういう訳にはいきません」
男の動きを追う様に視線を向けると、福島氏が銃口を僕達に向けていた。いや、この場合その照準は佐久間さんに、なのだろう。伸ばした腕では、銃口と僕達の距離は2メートも離れていない。天川との距離より長いが、その脅威は桁違いだ。
理屈でも何でもなく、ぞわりと肌が粟立った。本当の意味で銃口を向けられるというのはこう言う事なのかと、今更ながらに僕は思い知る。
「撃つ気があるのなら、四の五の言わずに撃つものだ。脅しの仕方がなっちゃいないな」
佐久間さんが福島氏と気休めの距離をとる隙を突くように、今度は筑波直純がそう言いながら銃を構えた。真っ直ぐと、銃口がこちらを向いている。安全装置を外す男の指の動きを、僕は慣れたもののように感じた。
恐怖以上の嫌悪感からだろう、微かに吐き気が込み上げてくる。上がってきた胃液なのか、すっぱい生唾を飲み込みながら、僕は向けられる銃口を睨んだ。そして、それを向けてくる男の顔も。
馬鹿らしいにも程がある。
2003/10/20