# 116

「保志くん、駄目だよ。こんな事…」
 天川に向けた銃に手を伸ばしかけてきた佐久間さんの手を掴みとり、僕は強く握った。まるで、先程佐久間さんが僕にしたように、そこに変える事は出来ない強い思いを込める。駄目だろうと何だろうと、止めるつもりはないのだと。
 いつの間にか、気付けば僕の心は焦りで一杯になっている。
 何に対してそうなっているのかわからないほど、僕はこの現状の全てを拒絶している。
 こんな事は嫌なのだと、佐久間さんが作り出したこの劇に必死で僕は抵抗する。
 嫌なものは、嫌なのだ。僕はこんな事を望んではいない。
 頭を回るのは、否定ばかり。
「保志くん…」
 僕の異常に気付いたのか、佐久間さんは目を細めどこか哀しげに視線を落とした。力の抜けたその腕を引き、僕は銃口を天川に向けながら壁を伝い廊下へと移動する。
 筑波直純が何かを言いたげにしながらも、唇を引き結び僕を見据えていた。その視線を怖いとは思わない。悲しいとも辛いとも思わない。いや、何かを思う余裕など今の僕にはないのだ。傍の存在をどうにかしなければという焦りしかない。
 時間が欲しいと、そう思う。佐久間さんの言葉ではないが、話がしたい。天川や筑波直純とではなく、佐久間さんと話を、説得をしたい。こんな結末を選ばないで欲しいと、選ばないでくれと懇願したい。短い時間でもいい。二人だけの静かな時間が、僕はただ欲しいだけなのだ。
 それなのに。
 そんな事すら、誰も認めてくれない。
 だからこそ、僕はそれを自分で掴みとるしかないのだ。

 拳銃を握る手が、しっとりと濡れている感じがした。銃口の先で、移動した僕達を追い、天川がゆっくりと振り返る。こんな風に、こんなものを誰かに向けるなど、どんな理由があるにしろやっていい事でないのはわかっている。だが、今の僕にはこの方法しかないのだ。これ以外に、僕はどんな風にして自分を主張出来る。声がない僕に、他の事は出来ないだろう。仕方がないのだと、そんないい訳で醜い自分から目を逸らす。
 焦る心が、僕の全てをぐちゃぐちゃにし、何もかもを投げ出したい気分になってしまい、泣けてきた。何をしているのだろうかと思いながらも、けれども止められない事に苛立ちを覚える。だが。
 パニック状態になりかけている自分を冷めた目で見る自分がいた。その自分は、こんな事をしても無意味だと言う。そんな事はわかっているが、やらずにはいられないのだと別の自分が言い返す。いつまで経っても平行線なそれを、僕は意識して切り離す。だが、上手くはいかない。
 ただ。ただ、僕は話をしたいだけなのだ。会話ではない、僕の言葉を聞いて欲しいのだ。傲慢だと言われようと無理だろうと何だろうと、僕は自分の意見を折る事は出来ない。望み描いた未来を手放す事は出来ない。
 佐久間さんを終わらせるなど、冗談ではない。そんな事は、絶対に嫌なのだ。
 ここにいる全員がそうしようとしていても、僕は嫌なのだから、仕方がないだろう。なのに、全員が僕を除け者にしようとする。そう、佐久間さんも結局は僕を外した。茶番に付き合うと頷いたのは僕だ、それに文句はない。だが、それでも、それ以上の協力は僕には出来ない。ここで、彼が終わりを選んだと言うのなら、僕はその先を起こすために動くのだ。そう、動かねばならないのだ。僕以外に、誰がそれをする。
 佐久間さんのためでも、誰のためでもない。まして、誰かを踏み躙りたい訳でもない。もしも、結果的にはそうなったとしても、僕は僕の中の譲れないその部分を主張するのだ。それは絶対に止められない。
 ならば、実行しろ。やれ! 撃て!
 頭の中で、声が響いた。とても久し振りに聞く、確かな僕の声――
「――保志くん」
 耳元で聞こえた呟きと同時に、僕の肩に小さな重みがかかり、我に返る。
 佐久間さんが、真っ直ぐと僕を見ていた。肩に乗った手が、ゆっくりと背中に回り優しく撫でる。いつの間にか、シャツが汗で背中に張り付いていた。
「落ち着いて。大丈夫だから」
 僕の精神状態を医者である佐久間さんは察したのだろうか。大丈夫だと優しく静かに囁きながら背中を撫でる。一瞬、状況を忘れそうになった。だが、その瞬間、無意識のうちで僕は拳銃を強く握り直す。
 何ひとつ、大丈夫ではないのだ。このままでは駄目なのだと僕は頭を振る。
 あなたが見ている結末を、僕は望んでいないから。だから…。  唇は動くばかりで、僕の思いを音にはしない。
 それでも、必死に僕は訴える。
「…いいんだよ、保志くん。こんな事はしなくても」
 僕の心を全てわかっているかのように、優しく僕を諭す声。それはやはり、どうしても失いたくはないものだった。この部屋にいる誰よりも僕をわかっているからではなく、ただ単純に佐久間さんが好きだから、僕はなくしたくはないのだ。
 そして、それ以上に、この人に失わせてはならない者がいる。
 その者、天川にとっても、佐久間さんは必要なのだ。そこにいなければならない存在だ。それを知っていたからこそ、友人はあの最後を選んだのだ。今ここで、彼が抜ける事を僕は認めたくはない。多分、きっと、あの友人もそれを認めないだろう。佐久間さんには天川の側に居続けてもらわなければならないのだ。
 あなたも、そう思っていたのではないか。
 今、誰よりも近くにいる佐久間さんに、僕は問い掛ける。こうなる事を避けるために、必死でやってきたのではなかったのか、と。それともこれもまた、僕の願望だと、思い違いだとあなたは笑うのだろうか、――佐久間さん。
「…何なんだ、一体」
 銃口を向けられる事に慣れたのか、緊迫した空気を感じないのか、対峙する相手が僕だからか。天川が忌々しげにそう言い髪を掻き上げた。
「俺を殺したいのか、お前? …なら、やってみろよ」
 どこか投げ遣りな天川の言葉に、別の声が重なる。
「煽るな、天川」
 ゆっくりと僕と間合いを取りながら移動した筑波直純が天川の腕を引き、その前に立ちはだかった。天川を守るためなのか、僕を捕まえるためなのかはわからないが、その動きに不意に佐久間さんが僕の服を強く掴んで小さく叫んだ。
「撃たないでくれっ!」
 僕が引き金を引く気がないのは、人を見る目のある佐久間さんなら充分に承知しているはずだ。だがそれでも、何らかの弾みで起こりうるかもしれないそれに、この人は恐怖したのか。それとも、本気でそう思ったのか。
 どちらにしろ、その声は、僕の耳に痛いものだった。僕は決して、この人を苦しめるためにこんな事をしている訳ではないのだから。
 その思いに、ふと僕は自分の矛盾に気付く。彼を苦しめたくないのならば、本人が望むようにさせてやれないいのだ。喩えそれが苦しい中で選んだ選択でも、僕なんかに掻き回されるよりは納得が出来るのだろう、あの友人のように。
「……頼む、筑波くん。動かないで。司も、じっとしていて」  自身が上げた声に驚き息を飲んだ佐久間さんは、懇願するように向き合う男二人に向かって弱々しい声をかけた。僕はその声に、目を細め顔を顰める。堪らない。
 僕は自分の望みを捨てられない、けれど、佐久間さんを苦しめたい訳でもない。だが、この状況をどうする事がベストなのか、今の僕にはわからなかった。改善させようと思いながらも、実は僕が一番事態を悪化させているのかもしれない。
「何を言っているんだ、秀」
 天川が、硬い表情で佐久間さんを見た。
 こんな状況でも、彼は常に天川を心配し気にかけているのだと言うのに、当の本人はそれをわかってはいない。それが僕に、苛立ちを募らせる。自分の苦しさを、辛さを、卑怯にもそれにすりかえる。何かが終わらなければならないと言うのなら、この男にこそそれを与えればいいのではないかと、残忍な思いを僕は抱く。もし本当にそれが起こったならば、一番苦しむのは佐久間さんであり、あの友人であるのだとわかっていても、僕の胸にそんな感情が生まれる。
「お前は一体、何をしたいんだ…」
 俺には全くわからないと吐き捨てる天川は、この状況を一番わかっていない者だろう。そんな男を、何故、彼らは愛したのか。僕にそれを教えて欲しい。少しでも理解出来たのなら、この醜い気持ちを処理出来るのかもしれない。
 何故、僕では駄目なのかなんて、そんな愚かな問いはしない。そんなものは無意味だと、わかっている。ただ、この溢れる思いが怖くて仕方ないのだ。助けて欲しいのだ、どうにかなりそうなのだ。理由が、欲しい。納得出来る理由が。
 お前は、この男に何を見たんだ、誠――
 天川の傍に友人が立っているような気がし、僕の胸は一層痛む。もし本当に彼がそこにいたならば、友人は迷う事無く僕に銃口を向けるのだろうか。
 自分でも、訳のわからない事をしていると思う。これでは、子供以下だ。だが、止められないのだ。
 パニックになりつつも、考えを止めない頭がもどかしい。さっさと壊れてしまえよと、自暴自棄になりかけ、誰かがそれを止める。いや、誰かではない、自分自身だ。狂ってしまえば楽なのかもしれないが、人間はそう簡単には狂えない。何より、僕は僕を捨てられはしない。そんな勇気は、何処にもない。
 ならば。
 今、僕は。何がしたいのだ。何が出来るのだ。
 何を手に入れたいんだ、僕は――

「筑波。そいつはお前のオンナなんだろう。どうにかしろ!」
「黙れっ!」
 筑波直純はじっと僕を見据えたまま、天川を一喝した。そして、僕に鋭い言葉を投げかける。
「保志、これは一体どう言う意味だ。そいつはもう、何の役にも立たない。天川は、そいつを切るだろう。そうなれば、何の役にもたたないぞ。それでもその男を守りたいと? お前は佐久間を選ぶのか?」
 選ぶ…? 何を言っているのだ。これはそんな選択ではないだろうと僕は男を見返す。何かと何かを比較してのものではない。僕の感情から来る、当然の行動だ。ただ、それだけなのだと、何故わからない。誰だって、譲れないものがあるだろう。天川にも、この男にも、他の者達にも、そういうものがあるはずだ。理屈ではない。
 睨み返した僕に、冷やかな男の言葉が向かってきた。
 容赦のない、言葉が。
「天川の弟を、お前の親友を殺したのは、そいつだぞ。それでも、佐久間を――」
 無意識に、拳銃を握る手に力を入れていた。グリップを握る指同様、引き金にかけた指も。
 筑波直純の言葉を、僕の全てが拒絶する。何も聞きたくはないのだと。

「――駄目だっ、保志くんっ!」
 佐久間さんの声は確かに耳に届いた。

 だが、僕はそれを止める事は出来なかった。

2003/10/20
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