# 117

 自分の指が引き金を引くのを、他人事のように僕は感じた。
 筑波直純が天川の腕を引き横に飛ぶ。まるでビデオのコマ送りのように、男の顔が歪むのをはっきりととらえる事が出来た。だが、それも一瞬に満たないただの事実でしかない。
 続いて、銃弾が吐き出されるのを、僕は見た気がした。それと同時に、体に衝撃が来、視界がぶれる。だがそれも、拳銃を撃ったという意識が得られていない僕には、不思議なものだった。一瞬視界に飛び込んできた天井が思いの他高い事に、流石は高級ホテルだなとどうでもいい事を考える。だが、しかし。
 僕は後ろに足を引き、何かにぶつかった。転ぶのを防いだそれは、壁でも何でもなく、柔らかい。当たり前だ、後ろにいるのは佐久間さんだ。そう、佐久間さんなのだ。
 それを思い出すと同時に、僕はそのまま彼の腕を掴みとり、側のドアを開け部屋に飛び込んだ。考える間もない、衝動に突き動かされての行動は、吉と出るのか凶と出るのか。今の僕にわかるはずがないものだ。ただ、事態を思い出し、生まれた男達の一瞬の隙を突く形で出来たのが、数歩離れた部屋に駆け込む事だけだった。いや、出来るかどうかなど考えてはいない。本当に、体が勝手に動いただけなのだ。
 そんな不安定な行動を阻止される事なく無事に出来たのも、ただ運が良かっただけなのだろう。何かひとつでも欠けていたら、多分実行出来なかったはずだ。
 バタンと勢いよくドアを閉めると、先程は聞こえなかったはずの銃声がその音に重なるようにして蘇り、耳の奥で大きく響いた。まるで撃たれてしまったかのような衝撃が、僕の体を駆け巡る。頭が酷く痛み、吐き気が込み上げた。しかし、背中を預けたドアを勢いよく叩かれ、僕は慌ててそれを押し返し鍵を掛ける。
 あまりにも無我夢中過ぎて、自分がとっている行動と思考が一致しない。外で何かを叫んでいたが、その言葉を拾う気にはなれなかった。拳銃を撃ったという、今自分がしたばかりの行動が信じられず、まさかと頭で否定しながらも、そうであるのを認識して男達の手を遠ざける。彼らがいなければ今の事実が消えそうな気がして、鍵をかけたというのに、僕は必死で回されるノブを握り締めていた。無意味だと何処かでわかりながらも。
 体をドアに押し当て、息を殺す。握ったドアノブが外から回されなくなった事に気付き、ゆっくりと力を抜いた。ドアの向こうに人の気配を感じはするが、声は聞こえない。いや、リビングに戻ったのか、遠くで微かな音が聞こえる…。
 それが自分の息の音だと気付くのに、少し時間が要った。どっと、全身に疲れが押し寄せる。
 座りたかった。何かに凭れかかりたかった。
 だが、それをするともう二度と動けなさそうで、僕はただその場に立ち尽くした。半身をドアに凭れさせたまま、瞼を落とす。だが、目を閉じても、睨みつけていた闇が網膜に焼き付いており意味がなかった。
「保志くん…」
 何もかもを拒絶したいのに、けれども彼の声は僕の中に入り込んでくる。不思議なものだ。
 ゆっくりと視線を向けると、暗闇の中、佐久間さんが床の上で身を起こし僕を見ていた。どうやら僕は、夢中になりすぎていて気付かなかったのだが、勢いで彼をそこに放り投げてしまっていたらしい。
 大丈夫かと問い掛けかけ、開いた口を直ぐに閉じる。この暗さでは、唇を読むなど絶対に出来ないだろう。僕は壁を探り、電気を点けた。スイッチを押すと、直ぐに適度に絞られたオレンジ色のライトが点る。
 力が入らない足で近付き、腰を下ろしたままの佐久間さんに手を貸そうとして、僕は自分が未だに銃を握っている事に気付いた。よく片手でこの部屋に彼を引き連れ入り込めたものだ。
 漸く部屋を確認すると、そこは客間だった。こんなところに入り込んでも、どうにもならない。袋のネズミだ、これでは。
 先程までのように、話をしたいというのなら、ここでもいいだろう。だが、事態は変わっている。僕は、本当に引き金を引いてしまったのだ。それがはったりではなく実行出来る事を、実践で示したのだ。拳銃を翳し向け合っていた時とは違う。ヤクザと呼ばれる男達なのだ、こうなれば実力行使でくるのだろう。
 自ら最悪の事態を招いてしまったのだと、僕は思い知る。だが、だからどうなのだろうかと、不思議な事なのだがそれによる焦りは全くない。自暴自棄になっているのか、放った銃弾が自分に返ってくるのは当然だとさえ思える。死にたい訳ではないが、鼠である自分に関心は持てなかった。なるようにしかならないだろうと、今は自分に落とされる制裁よりも、僕には大事な事があった。
 壁際に置かれたベッドに持っていた拳銃を投げ、佐久間さんに手を伸ばす。彼は躊躇う事なく僕の手を握り返してくれた。
 引き上げようと腕に力を入れる。だが、僕の意地もそこまでだったのか。そのまま僕は佐久間さんの上に崩れ落ちた。彼はそれを予期していたのか、僕の体を黙って受け止める。
 自分と殆ど変わらない体型だと思っていたが、背中に手を回しその体を抱き返すと、肉付きが僕よりも薄い事がわかった。まるで、少年のようだ。ふと、その体に、友人の事を思い出す。彼をこんな風に抱きしめた事などなかったが、多分きっと、今の佐久間さんと似ていただろう。その全てが、僕には果敢なく感じられてならない。
 切り取られた羽根の名残のような肩甲骨が、指に刺さる。
「大丈夫だ、弾は誰にも当たっていないから、安心して」
 そう言われて、そんな可能性もあるのだと初めて気付いた。自分が受けた衝撃ばかりに気をとられており、僕は全く弾丸の行く末など気にしてはいなかったのだ。安心しろと言われたが、逆に体が振るえ、僕は佐久間さんのスーツを強く握り締める。
「君がこんな事をするとは、考えていなかったよ。ごめんね。でも、もういいんだよ、保志くん」
 ゆっくりと僕の背中を大きく撫でながら、佐久間さんは宥めるように静かに言った。
「僕はもう、いいんだ。君が僕を守る必要はない」
 その言葉に、彼の肩に顔を埋めたまま、僕は頭を振る。いい訳がないのだ、何一つ。僕は納得出来ないと、更にしがみつくように腕に力を込める。佐久間さんはそんな僕を笑ったのか、軽く喉を鳴らしながら数度背中を叩いてきた。
 とんとんと心地良い響きに、早鐘を打っていた心臓があわせるかのようにテンポを落としていく。
「さあ。まずは落ち着こう、保志くん。弾みとはいえ、怖かっただろう」
 どれくらいそうしていただろうか。多分、ほんの短い間だったのだろうが、僕にはとても長く感じられた心地良い響きを止め、体を離し僕の右手をとった佐久間さんは、両手でそれを優しく包んだ。白い手は、けれども僕の手より温かく、静かに紡がれた言葉は、確りとしたものだった。
「君のサックス、僕は大好きだよ。とても君らしい。そう、カクテルもね。だからこそ、あんなものはもう二度と手にしては駄目だ。それは、君が一番良くわかっているだろう」
 その言葉に、僕は小さく頷く。確かに、そうだ。
 あの日、消えていく命を沢山目にしたのだ、僕は。死を与えるだけでしかないあの武器を、僕は確かに嫌悪している。それを手にし、撃ち放った自分を怖いと思う。だが、今はまだ、心が追いついていない。発砲したと言う実感が沸かない。誰にも当たりはしなかったからか、間違っているとも思わない。
 そう、あれは魔物だ。
 嫌だと思う意思とは別に、僕は頷いた瞬間、拳銃をこの手に欲した。ベッドの上にある事を確認し、立ち上がる。
「だから、駄目だって」
 佐久間さんが苦笑を浮かべながら、僕の行動を止めた。そして、掴んだままの僕の右手を強く握る。
 それに僕は首を振り、どうにか手を外してもらった。ベッドまで行きそこに腰掛け、側のテーブルに乗ったメモ用紙に手を伸ばす。手にしたボールペンはさすが高級ホテルのものだけあって、使い心地の良いものだった。だが、興奮のためか微かに震える手で記す文字は、今の僕に似て酷いものだった。ナメクジが張ったかのような文字を、それでも意地だけで書き記す。
 佐久間さんが僕の隣に腰を降ろし、メモを眺めた。
【よくはない。天川さんにはあなたがいなくてはダメだ】
「違う、逆だよ」
【違う。彼にはあなたが必要だ】
 こんな事でいなくなってはならないのだと、僕は訴える。筑波直純が何を言ったとしても、どんな行動を起こしたとしても、それから天川を守れる力は佐久間さんにあるはずなのだ。こんな終わりを選ぶなど、この人らしくない。
【ナゼ、こんなことを。もっと、いいようにできたはずだ。あなたは、天川さんを捨てるのか?】
「これが、僕の選んだものだよ、保志くん」
 佐久間さんは記した僕の言葉に軽く笑いを落とし、そう言った。
「そうだね、確かに捨てるのかもしれないね、僕は」
【ダメだ。それは絶対に、ダメだ】
 天川にはあなたが必要なのだと言う僕に、佐久間さんはゆっくりと首を振る。
「あのね、保志くん。確かに、今の司には僕が必要なのかもしれない。でも、彼はこのまま同じでは駄目なんだ。司は変わる。もっと、もっと大きくなる。それには、僕は邪魔でしかないんだ。だからさ、僕は捨てられる前に捨ててやろうかと、ね」
 穏やかな表情で、軽く苦笑しながらそう言った佐久間さんは、僕を見て目を細め、その視線をドアに向けた。ドアの外から、音がしている。だが、それは僕にとっては別世界のような、とても遠いものだった。
 けれど、佐久間さんにとっては違うのだろう。どこか哀しげであり、愛しげでもある深い眼差しでドアを見つめる。まるで、その向こうにいるだろう天川を愛しんでいるかのように。
 その瞳が、紡ぐ言葉を裏切っている。それに、本人は気付いていないのか。それとも、僕だからこそ見せているのか。僕に何をどうとらえられてもいいと言う事なのだろうか。天川達の前では完璧に役柄を演じていると、そういう事か。
 だが、天川が佐久間さんを邪魔に思う時がくるなど、あの男がそんな感情を抱く事などあり得ないと僕は思う。どんなに佐久間さんが頑張ったところで、それは一生ない気がする。天川とて、譲れないものを持っているはずだ。誰も左右出来ない、天川司という人間そのものの形があるはずだ。そこに、佐久間さんがいる。迷いや疑う事はしても、彼が邪魔だという思いを抱く事は絶対にないだろう。それは佐久間さんにもわかっているはずだ。
「さあ、そろそろ出て行こう」
 その言葉に、僕は首を振った。覚悟を決めた佐久間さんとは違い、僕は子供のように駄々を捏ねる。納得出来ない。佐久間さんの言葉が、わからない。
 何故、こんな事を言うのだ。何故…?
「筑波が誤解するよ」
 佐久間さんが茶化すように言う。だが、そんな事は関係ないと、僕は頑なに首を振る。
「でも僕は、お前のせいで俺は振られたんだ、なんて言い掛かりを彼につけられたくはないよ」
 話を逸らさないで欲しいと、僕は佐久間さんの腕をとり握る手に力を入れた。
 僕を、納得させて欲しい。
 あの友人のように、僕の前から去らないで欲しい。
 このままでは僕は…。
「保志くん」
 佐久間さんの手が、僕の頬にそっと触れる。
「君は聡いが、少し頑固すぎるよ。それは、ある意味残酷だ。君にそんな顔をされたら、決心が鈍りそうになる。
 あのね、保志くん。何度も言うが、これでいいんだよ。少なくとも、僕はこれを望んでいるんだ。君には、わかるだろう?」
 君だからこそ、僕の心がわかるだろう。それとも、わかってくれないのかい?

 多くを語らず、僕に判断を委ねながらも、進むべき道を決めている。
 あなたの方が、残酷だ。
 僕は覗き込んでくる佐久間さんから視線を逸らし、心の中でそう小さく呟いた。

2003/10/23
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